始まりの夏休み(After)
浅井基希
第1話
(1)
「何から訊きたい?」
紗奈の車の中――紗奈がカーナビを操作しながら、望月に訊いた。
望月は助手席に座って、運転席の紗奈を見ていた。
「あの後、紗奈はどうなったの? あ、先生って読んだほうが良いのかな」
「お好きなように。住所これで合ってる?」
紗奈は話しながらカーナビに望月の家の住所を入力し終えていた。
「うん。じゃあ紗奈で良い?」
紗奈は小さく笑って頷いてから、決定ボタンをタップした。
カーナビから、目的地――望月の家――までにかかる大体の時間のアナウンスが流れた。
「こっちは気が付いたらあの階段の下で、外は明るいし、職員室には当番の先生も居て、全てが元通りになってた」
車をゆっくりと発進させて、紗奈が話し出す。
「怪我とかしなかった?」
「打ち身程度? こっちは誰も受け止めてくれる人居ないもん、そうなるよね」
そう答えて紗奈は笑っている。
「ごめんなさい……」
ついさっきの望月は紗奈が受け止めてくれたから良かったけれど、紗奈のほうは当然誰も居ないことになる。
「謝らなくて良いよ。多分そういうものだったんでしょ」
紗奈は軽い調子で返してから、ハンドルを切って左折――車が大きな道路に出た。
「うん……それからは?」
出来れば自分も紗奈の役に立ちたかったけれど、あの時――一九九九年の七月――を基準にするなら望月はまだ生まれていないことになる。
「芸能界を辞める為に色々動き始めた。あと勉強? とりあえず望月に言われた物理の教師になるために動いてみようって」
「順調だったのに辞められたんだ」
「仕事は良いんだけど、セクハラが物凄く嫌だったし」
当時の話だから、今だともう少しマシになってるだろうけど――と紗奈は続ける。
「あ、そうだ。セクハラよく我慢してたねって言っといてって」
望月は過去の紗奈と雑談をしていた時に言われていた言葉を思い出す。
「憶えてくれてたんだ?」
「だって、セクハラとか酷いよ」
「私が芸能界をサクッと辞められたもう一つの理由がそこにある。お偉いさんを――事務所のスポンサー企業の人なんだけど、思いっ切りぶん殴った」
そう言った紗奈の横顔は何処か得意気だった。
「ええ……バイオレンス」
「スポンサーを殴ったら今後の仕事は確実に干されるってわかってたから、もう躊躇無く」
紗奈はハンドルから片手を離して握り拳を作っていた。本当に殴ったようだ。しかも拳で。
「向こうが悪いのにそういうものなの?」
「そうだね。あの世界はお金が絡むと特にシビアなんだよね。で、見事に引き止める人は居なくなった訳だ。でも、入ってたスケジュールは全部終わらせてから、キッチリ辞めた」
紗奈はまだ得意気に話している。
「そこまでしてくれて嬉しい」
紗奈がそんな決断をしたのも、多分、望月のため――あの短い時間の中で、望月は文字通り紗奈の人生を変えてしまったのだけど、紗奈に後悔はないようだった。
「約束したでしょ? 約束は守らないと。あと、大事なものを返してもらわないとだし」
お守り代わりだったと言っていたあのチョーカーは、まだ紗奈がしっかりと持っている。
「でも、そのために、紗奈は――」
自分の人生を変えてまで、待っていてくれていた。
――いや、元々こういう人生になるはずだったのだろうか、望月にはよくわからない。
「だって望月ってなんか放っておけないんだもん。子犬みたいだし。情が移ったのかな」
信号待ちの間、紗奈は視線を望月のほうに向けていた。
「子犬……褒められてるの?」
望月は反応に困って紗奈を見る。
「褒めてるよ? 子犬って可愛いでしょ? 妙に懐くし」
二人の目が合って、紗奈が優しく微笑んだ。
「確かに懐いてるけど、紗奈は人気だから他の子も懐いてるじゃん」
女性では珍しいらしい理系の教師で、更に元芸能人という紗奈のステータスは、望月たちの年齢くらいの人たちには一種の特別な人間に映る。
近付くことで自分も特別になれるかもしれない――そんな幻想を抱かせてくれるものだ。
「ありがたい話だけど、望月だけは何か、特別?」
照れたのか、信号が変わったからなのか、紗奈は視線をまた前に向けていた。
「じゃあ、今までずっと、私は特別だったのに黙ってたんだね」
改めて口にすると、くすぐったいけど、物凄く嬉しいと思った。
紗奈も望月にとっては憧れの人で、ちょっと特別な人だけに。
「いやー演技経験が活用できたね。っと――そろそろ家だよ」
カーナビから目的地付近だというアナウンスが流れた。
「え? もう? もっと話したい」
まだ時間の感覚がぼんやりだけど、多分一時間も経っていない。
楽しい時間は早く過ぎると言うけれど、もっと時間が欲しいと望月は思った。
「そう焦らなくても時間は沢山あるよ?」
紗奈が苦笑いで返している。今度は右折――望月が見慣れた住宅街に入った。
「でも、夏休みだし、毎日会えないし、今すぐ訊きたいことが沢山ある。そうだ、紗奈の家に行きたい。泊まりがけでもっと話ししたい。良いでしょ?」
望月は自分でも図々しいと思いながらだが、お願いをする。
「――仕方ないなあ、ちゃんとお家の人に許可もらってからにして。勉強会だとか言って」
紗奈はチラッと望月を見て、溜息を一つ吐いていた。
そのわりには許可が出るであろう具体的な言い訳を考えてくれている。
「やった! 待ってて」
望月は慌てて家に帰り、一泊の支度をして、外泊許可を取り付けた。
(2)
「大体ね? なんで英語とかの教師じゃなかったのかって話。英語だったらハリウッド進出に備えてそれなりに勉強してたのにさ?」
紗奈の家――夕食に頼んだデリバリーピザを食べながら、紗奈が愚痴っていた。
サラッとハリウッド進出と言っているが、当時としてはわりと大きなプロジェクトがあったのでないだろうか。だとしたら、それを投げ捨ててまで望月のために動いてくれたことになる。
「だって、紗奈は物理の先生だから……」
その事実に何処か申し訳なさを感じながら、望月がそう返す。
「まあ、案外性に合ってたし、疑問に思ってたことを調べたりも出来たし、感謝してるけどね」
解決はしてないけど――紗奈はそう言って望月を見つめると優しく笑っている。
「何の疑問?」
「あの時、望月は雷がどうとか言ってた。あの出来事は雷が原因じゃないかなってずっと考えてて、それも物理学に繋がることになった――あ、英語は論文を読むのに超役立った」
望月が気にしないように気を使ってくれたのだろうか、明るく紗奈が返す。
「雷ってそんなに凄いの?」
望月が本能的な怖さを感じるくらいだから、凄いものだとは思うけれど――
「凄い。無駄なく充電とかが出来たら世界のエネルギー問題を根底から見直せるくらい凄い」
「ピンとこない……」
「――海外の話だけど、落雷を受けた人がその衝撃で瞬時に性転換したってニュースがある」
「マジで!? そんなことあるんだ?」
簡単には信じられないような話だけど、紗奈は大真面目な表情だ。
それに、望月が体験した今日の――と言うには長い――出来事を考えれば不思議ではない。
「うん。流石にこれはオカルトの話。多分エイプリルフールみたいなものなんだけどね」
紗奈があっさりとネタばらしをした。
「本気にしたのに……」
引退したとは言え、流石の演技力だった。
「っても、あのエネルギーじゃあ何が起きてもおかしくはない。私たち二人みたいにね――」
ソース付いてるよ――と紗奈は望月の頬に指を伸ばして軽く拭いながら笑っている。
本当に世話のかかる子犬みたいな扱いをされているなと、望月は思った。
「で、謎を解明するために研究室に居たかったけど、教師にならなきゃいけないから研究をそこそこで切り上げて教師になった訳。こんなところかな」
あれから今まで紗奈がどうしてきたかの大体の話が済んだ。
紗奈は苦労していないみたいな軽い口調で語っていたが、決まっていたであろう将来を全部変えることが大変なのは、人生経験の短い望月にもなんとなくだがわかる。
「えっと……」
そんな決断をしてくれた紗奈に、何を言うべきなのだろうか――望月はしばらく考えていた。
「どうしたの?」
紗奈は穏やかに、望月の言葉を待っている。
「そこまでしてくれてありがとうございます」
望月は座り直して、頭を下げた。ありきたりな言葉だったが、望月はそれしか言えなかった。
勿論、他の言葉も探したけれど、そのどれもが、あの出来事やそれからの紗奈を表わすには軽くなってしまう気がするのだ。
「――もう、本当にそういうところで情が移る。でも、これで良かった」
紗奈は苦笑いだった。
「そうだ、形見って言ってたチョーカー私が持ったままだ。返さなきゃ」
あの時に手渡されたチョーカーは、まだ望月の制服のポケットに入っている。
「気に入ったなら持ってても良いよ?」
「でも大事なものでしょ? お守り代わりだって」
「まあね。いつか戻ってくると思ってチェーン用意してた」
紗奈は自分のバッグを探ると、携帯用の小さなジュエリーケースを取り出していた。
チョーカーはあの時思い切り引きちぎったので、留め具の部分が壊れている。だけど、メインの装飾――ペンダントトップのような部分は綺麗なままだ。
紗奈はチョーカーを受け取ると、金具を外し、新しいチェーンに通してペンダントにした。
「これでよし――後ろ向いて」
「え――」
一瞬戸惑ったが、それでも望月は言われるがままに後ろを向く。
紗奈がさっきまでチョーカーだったペンダントを望月に着けると、望月の身体を反転させた。
「……望月が着けたら望月ごとお守りになるかなと思って」
真面目な顔で紗奈が言う。
「え――」
「冗談。長さの確認――もうちょっと長い方が良いかな? ってかプラチナ似合うね」
「そうかな……ってこれプラチナなの?」
自分はまだそんなに高いアクセサリーは着けたことはないけれど、いつか買うならプラチナにしようと思った。
「うん。可愛いね」
返事になってない紗奈の返事だった。
(3)
「もう眠い?」
色々な話も少しだけ一段落したところ、望月を眠気が襲う。
今日一日の疲れもあるのかもしれないけど、何度も欠伸をしていた。
「うん――眠い、かも。お風呂……」
「疲れてるんだよ。お風呂は起きてから入れば良い。はい、このベッドに寝る」
望月は紗奈に促されてもそもそとベッドに潜り込む。
寝転んだ途端、紗奈は薄手のタオルケットをしっかりと掛けてくれる。
「おやすみなさい――紗奈は?」
「私はソファに……こら、手を離せ」
自分でも気付かないうちに、望月は紗奈の服を掴んでいた。
「……寝て起きたら、また誰も居ないの、やだ」
「――大丈夫、一人にしないよ。約束したでしょ?」
紗奈は服を掴んでいる望月の手を静かに解かせて、少し躊躇った後でその手を包み込む。
「じゃあ、今日は傍に居て」
「あの時の怖かったの思い出しちゃった?」
紗奈にはあの時で、望月にはついさっきの記憶――まだ鮮明に残っている。
「うん――駄目?」
「駄目だなあ、甘やかしちゃいそうになる。なんでだろ?」
紗奈は困ったように笑っていた。今まででも十分甘いと思うけれど――
「わかった。一緒に寝るからその泣きそうな目はやめて」
観念したように、紗奈がベッドの空いた部分に入ってきた。
元々紗奈のベッドなのに、とても遠慮がちに。
というか、どうも望月はまた無意識のうちに甘えていたらしい。
「ありがと」
眠さとまだ起きていたいという気持ちとの狭間で、望月は紗奈の存在に安心して笑う。
「わかったから、おやすみ――」
紗奈がそう答えて、そっと望月の頬に触れると、そのまま――頬にキスをした。
「――あ」
望月から小さな声が漏れる。
「これくらいは良いよね? 海外では挨拶だし」
誰に聞かせるでもなく、紗奈がそう呟いていた。
「挨拶――別に紗奈にだったら何されても良いのに」
眠いからだろうか、望月の考えていることは何の引っかかりもなく言葉になっていた。
「あのね。こっちは教師、そっちは生徒。以上。おやすみ」
望月に言い聞かせるようにしてから、紗奈はリモコンで部屋の照明を一段階落とす。
「おやすみ――抱き付いて良い?」
望月は返事を待たずに紗奈の身体に抱き付いた。
「言ってる傍から……って返事訊いてないよね」
紗奈は軽い力で望月を引き剥がそうとしている。
「あの時、会えたのが紗奈で良かった。だから、ずっとこうやって紗奈に懐いてるかも」
紗奈の傍に居ると、不思議と安心できる。
この安らぎがあるのなら、妙に懐いてくる子犬だと言われても、それで良いと望月は思った。
「もう、仕方ないなあ――」
紗奈の手の力が弱くなり、また小さな溜息が聞こえた。
そんな呼吸の音一つでさえも、望月には心地良い響きに変わる。
あの時と同じ体温と、あの時と同じ安心感を抱えて、望月は眠りに就いていた。
これからもずっと、あの不思議な時間の中で――出会えた奇跡を忘れないだろう。
きっと、二人とも――
始まりの夏休み(After) 浅井基希 @asai_motoki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます