第152話 長き旅の終着点

 イェルセリア古王国跡地における一連の騒動の後。イゼットとルーは、神聖騎士団に同行して聖都シャラクへ行くこととなった。二人とも、二度とこの地を踏むことはないだろうと思っていただけに、妙な心地であった。


 何日もかけて様々な事後処理が行われた。捕らえた人々の尋問もそのうちの一つだ。そして、慌ただしさの収まらぬうちに、イゼットの正式な従士就任が決まったらしい。


 らしい――というのは、あくまで又聞きの情報でしかないからだ。


 聖教本部が嵐のような状況の中、聖女の従士ご本人はずっと寝たきりだったのである。


 ここ最近の無理が祟ったのだろう。聖教本部へ招かれ、聖女と祭司長に正式な挨拶をした、その場で気を失ってしまった。意識はすぐに回復したが、それから十日近く起き上がることもできず、ずっと寝台の中でうめいていた。


 聖女の従士の若者が目の前で倒れたときは、あのユヌス祭司長もさすがに慌てたらしい。


 それはともかく、事後処理期間をほとんど療養にあてるはめになったイゼットは、情けないやら申し訳ないやらで縮こまりながら過ごしていた。ルーが当然のように毎日やってきてくれたから、退屈はしなかったけれど。


 なんのかのと言いながら、シャハーブも数回様子を見にきてくれた。そのときにはフーリも一緒だった。古王国跡地で感じた違和感はどこにもなく、いつものフーリである。ただ、人間たちに見つからないよう、細心の注意を払ってはいた。


 療養と機能回復のための訓練、それから従士に関する事柄の学び直し。それらにひと月余りを費やして――イゼットは、再び主人と対面することとなる。



「イゼットが元気になってよかったわ」

「……大変、ご迷惑をおかけしました」


 どことなくご機嫌なアイセルの前で、イゼットは頭を低くする。彼がしぼり出した言葉は、心の底からのものだった。


 二人は、聖女の部屋の中央で向かい合っている。正式な就任前に聖女から離れたイゼットにとっては、初めての体験だ。部屋の扉を叩くまで、心臓が縮まりそうなほど緊張していた。アイセルはそんな従士の姿を見て、なぜか嬉しそうに目を細めていた。


 話が始まったら始まったで縮こまるイゼットに対し、アイセルは優しいまなざしを注ぐ。


「今、こうして私の前にいる、それだけで十分よ。でも、今後はあまり無茶しないでね?」

「……気を付けます」

「正直でよろしい」


 すましてそう言った後、アイセルは軽やかな笑声を立てる。今は顔を隠す必要もないからなのか、晴れやかというか、のびのびしているようだった。


 一方のイゼットは、その後、彼女にうながされてこわごわと顔を上げる。教師に怒られている生徒の気分だ。もっとも、教師の位置に立っている少女はみじんも怒っていないのだけれど。


 顔を見合わせ、つかの間、ほほ笑む。そして低頭していたイゼットが立ち上がると、アイセルは少し表情を引き締めた。


「さっそくだけれど、三日後に聖都で祈りの儀式があるわ。ごくごく小さなものだけど……あなたにも、参加してもらうことになる」

「はい」


 イゼットもまた、表情をかたくした。――その儀式が、従士としての初仕事になるのだ。高揚とも緊張ともつかぬ妙な熱が、先ほどから腹の奥でうごめいている。


「基本的には、聖院時代とやることは変わらないわ。私のそばについて、決められた動きをしてくれたらいいから。イゼットなら大丈夫」


 アイセルの声色がずいぶんと優しいのは、イゼットが顔をこわばらせていたからだろう。ほほ笑むように目を細めた少女はけれど、すぐ後にその目を伏せる。相貌に薄雲がかかったようだった。


「ただ……祭司たちの動きが少し気になるのよね。あなたを『浄化の月』の宿主として祭り上げようと考えている人がいるみたいで」

「えっ――それは、いくらなんでもまずいのでは」

「ええ。だから私も強めに制止しておいたし、ユヌス祭司長も『浄化の月の話を出すのは時期尚早だ』と反対なさっていたわ。けれど、今後どういう動きになっていくかは、正直読めない」


 イゼットはつい、考え込んでしまう。自然と唇の下に指が伸びた。


 ロクサーナ聖教はあくまで精霊を大切にし、聖女を通してその声を知るための集団だ。その歴史の中で、呪物などとの関わりが少なからずあったにしても、基本的な在り方が歪んでしまうことには、抵抗を通り越して恐怖すら覚える。


『浄化の月』と月輪の石があるべきところに収まった。その点に限って言えば、『浄化の月』の宿主がイゼットだったのも、それが露見したのも、よいことと言えるだろう。しかし、今度は新たな問題が生まれそうになっている。


「何事も、完璧にはいかないものね」


 アイセルが嘆息する。落とされた一言に、イゼットも心中で同意していた。

 ただ、その一方で、彼はひとつの決意を固めてもいた。陽の色の瞳で主人を見つめた若者は、静かに居住まいを正す。


「猊下」


 少女の瞳がこちらを向く。同時、イゼットは礼を取った。


「私は確かに、『浄化の月』の宿主かもしれません。ですが、それ以前に猊下の従士なのです。今後何があろうとも、聖教の中ではその立場を貫いていく所存です」


 アイセルは軽く目をみはった。驚きの表情は、にじむようにして温かな微笑へと変わってゆく。


「ありがとう」


 優しく、はかなげな声。その奥に、強い意志が宿っているのを、聖女の従士は確かに感じた。


「私も、イゼットに負担をかけないように頑張るわ。『浄化の月』がなくても、巫覡シャマンの頂点に立つ身であることには変わりないもの」


 力強く、それでいて弾んだ声で、アイセルもまた宣言する。それを受け取ったイゼットは、無言でこうべを垂れた。



     ※



 アイセルと対面した少し後。イゼットは、聖教本部の入口にいた。集落に戻るルーを見送るためだ。


 少し色あせたマグナエを巻いたルーは、つま先立ちしてふてくされたような表情を作る。


「イゼットの初仕事も見てみたかったです」

「今回の儀式は、巫覡シャマンと祭司以外見られない決まりだからね……」

「残念です」

「……俺も」


 イゼットが肩をすくめると、ルーは目をみはる。それから、への字にしていた口をさらにひん曲げた。さて、どうなだめたものか――とイゼットが悩んでいる間に、彼女は自分の中で気持ちを切り替えたらしい。黒に限りなく近い茶色の瞳をくりくりさせて、イゼットの方を見上げた。


「従士さんのお仕事も大変そうですけど、イゼット、くれぐれも無理はしないでくださいね」

「わかった。ルーも、道中気を付けて」

「はい、ありがとうございます!」


 ルーは、満面の笑みで胸を叩く。そのかたわらで、ラヴィが小さくいなないた。イゼットはくすりと笑ってから、何気なく馬上を見やる。


 ここからアグニヤ氏族の集落まではかなりの長旅になるが、その割に荷物は少ない。少しの水と食料、それから掛布代わりの分厚い布。お金の袋は服にでも隠しているのだろう。身一つで狩りをし、その場にある物を活用して生き延びることのできる彼女にとっては、これでも十分すぎるのだ。


「そういえば、集落に帰ったらどうするの? やっぱり狩りを手伝うとか?」

「実は、まだ決めてないんです。帰ってから家族や族長と相談するつもりです」


 ふっと思い立ってイゼットが問うと、ルーは軽く頭を傾けながら答える。イゼットは、そっか、と相槌を打つ。と、彼女は少し目を伏せてうつむいた。


「ほんとは」


 明るい声。その語尾が、わずかに揺らぐ。


「ほんとは、イゼットと一緒にいられたらいいんですけど」

「……ルー」


 若者は、共に旅をした少女を見つめる。視線は、合わない。


「でも、こんなわがまま、言っちゃだめですよね。ボクはアグニヤ氏族ジャーナの一人で、イゼットは聖教の、聖女様の従士なんですから。住む世界が違うって、こういうことなんですよね」


 笑いを少し含ませた言葉は、ひどくぎこちなく響く。石畳をにらんだままでいる彼女の顔を想像して、イゼットは瞑目した。その目をすぐに開くと、静かに前へ進み出る。マグナエ越しに、頭に手を置いた。


「ルー。確かに、君はクルク族の戦士の一人で、俺は猊下の従士だ。身分も立場も全然違う。だけど、それ以前に俺たちは、一緒に旅した仲間だよ。身分も立場も関係なく、ただ二人の旅人として」


 ぱたぱたと、雫が石畳に落ちて、黒い染みを作る。握りしめられた白い手が、震えている。それを見ないふりをして、イゼットは少女の頭をなでた。


「一緒にいたいと思うのは、わがままなんかじゃないと思う。俺だって、ルーと一緒にいたい。また旅がしたい。行けてないところがたくさんあるし、また行きたい場所もあるよね」


 ルーは、拳で顔をぬぐった。そして、イゼットを見上げた。両目から大粒の涙がぽろぽろこぼれて、ぬぐったはずの頬をまた濡らす。涙のこと、ルーが震える唇を一生懸命噛みしめていることについて、イゼットは何も言わなかった。


「ボク……ボク、イゼットの故郷にも行ってみたかったんです」

「アフワーズか。街から見える海がきれいでお魚が美味しい、いいところだよ。実家には近寄らない方がいいと思うけど」

「大丈夫です。二人なら、たぶん、大丈夫です」

「ええ……まあ、母上のお墓参りはしたいし、なあ」


 思いがけぬ方向の話を振られて、イゼットはたじろいだ。一方のルーは、泣き止む気配のないまま、彼の方へ身を乗り出す。


「二人で食べたいものも、見たいものも、教えてもらいたいこともたくさんあるんです。たくさん――」


 続くはずだった言葉が途切れる。ルーは、思いっきりしゃくりあげたかと思いきや、とうとう声を上げて泣き出した。前へ傾いた体を受け止める形で、イゼットはルーを抱きしめる。幼子のように泣き叫ぶ彼女の背中を静かにさすった。しばらく、そうしていた。


「だからね、ルー。また旅をしよう」


 ささやく。彼女に、自分に言い聞かせるつもりで。


「猊下もルーのことはご存知だし、気にかけてくださってる。お願いすれば、二人で会う機会は、ちゃんと作っていただけると思う。だから、そのときに、いろんな場所に行こうよ。短い旅をたくさんしよう」


 そのときは、使命も世界の命運も関係なく。楽しいだけの旅をしたい。そんな夢が叶う日がくればいい。誰よりも、イゼット自身がそう願っているのだと思う。


 そうやって語りかけているうちに、ルーの声は少しずつ小さくなっていた。嗚咽の隙間で、少女はささやく。


「わかりました。また、会いましょうね」

「うん」

「約束ですよ」

「約束、するよ」


 イゼットは、そっとほほ笑む。そして、ルーの背中を一回、優しく叩いた。



 ルーは思う存分泣いた後、旅の荷物を確かめると、ラヴィに飛び乗った。目や鼻は真っ赤になっていたが、表情はどこか清々しい。


「ルーのこと、頼んだよ」


 イゼットはそうささやいて、ラヴィをなでる。牡馬は、任せろ、といわんばかりにいなないた。


 短い別れの挨拶を交わして。ルーは、ラヴィに出発の合図を出す。彼は瞬時にそれを受け取ると、石畳を蹴って歩き出した。


「それでは! イゼット、お元気で!」

「ルーも元気でね。ジャワーフさんたちによろしく」

「がってんです!」


 これが、その日二人が交わした、最後の言葉となった。そして、それは旅の終わりを告げる言葉でもあった。


 人馬の影が遠ざかり、街並みと夕暮れの空に溶けていく。イゼットはそれをずっと見送っていた。


 影が完全に見えなくなっても、ずっと見送っていた。

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