第151話 時代の黎明 2

 ハヤルは案外近くにいた。後処理に忙しく駆け回る騎士たちの様子をうかがっていたらしい彼は、イゼットたちを見つけると高く手を挙げる。ラヴィから下りたルーがまっさきに駆け寄って、胸の前で指を組む。


「お久しぶりです、ハヤルさん!」

「おお、ルーか。元気そうでよかった!」

「はい! ……あと、あのときはすみませんでした」

「シャラクでのことか? それなら気にしてねーよ、大丈夫。大体、あれ、君のせいじゃなくてイゼットのせいだからな」


 そんなやり取りを聞きながら、イゼットも馬を下りる。その顔がやや引きつっていることに、本人は気づいていなかった。ただ、近づくときに足取りが重くなってしまったのは、しかたのないことだろう。


「……ハヤル」

「おう、イゼット」


 そっと呼びかけると、赤毛の騎士は軽い調子で言葉を返してくる。まるで、最前のやり取りなどなかったかのようだ。イゼットは苦笑しつつ、聖教式の礼を取った。


「色々面倒かけたな。……ありがとう」

「ほんとになあ。でも、ま、おまえが帰ってくる前に比べりゃ大したことねーよ」


 歯を見せて、目を細めて。聖院で共に学んでいた頃のように笑ったハヤルは、握りこぶしを突き出した。イゼットもそれに応じて、二人は拳をぶつけ合う。その小さな音が、騎士たちのざわめきにかき消された頃、ハヤルは本陣の方角を振り仰いだ。


「さて。そろそろアイセル猊下がいらっしゃる頃だと思うんだが……」

「えっ」


 若者と少女の声が重なる。絶句したイゼットの横で、ルーが忙しなく飛び跳ねた。


「アイセル様、ここに来られるんですか?」

「ああ、その予定。撤収前に二人に会っておきたい、って仰ってたから」


 ルーはそれを聞いて、嬉しそうに瞳を輝かせている。一方のイゼットは、全身から噴き出る嫌な汗を感じながら、ハヤルに顔を寄せた。


「ちょ、ちょっと待て。さすがにこの格好で猊下にお会いするのはどうかと……思うんだけど……」


 するとハヤルは、思いっきり顔を歪めて「いーっ」と歯を見せてくる。


「俺だって、おまえがそんな血まみれで戻ってくると思ってなかったっつーの! 今度は何やらかしたんだ、この馬鹿!」

「ばっ……言っとくけど、今回は、今回ばかりは俺のせいじゃないからな!?」

「どーだか」


 数少ない同期である二人は、少年のようにしばらく言い合っていた。シャハーブがその横で、「ま、『反逆者』のせいであって、坊ちゃんのせいではないな」と愉快そうに呟いていたことも、ルーと若い騎士が目を丸くして二人を見比べていたことも、当然知らない。


 二人のには終わりが見えない――かと思われたが、足音とかすかな精霊の気配をかぎつけたルーが歓声を上げたことで、意外とあっさり打ち切られた。


 精霊たちが、くすくすと、楽しそうに笑っている。その声を久々に拾ったイゼットは、つかの間顔をほころばせた。だが、やってきた人物を見ると、流れるようにひざまずく。


 草の一本も生えていない、けれども生命の気配が宿りはじめた大地に、聖女が立つ。


「ハヤル、お疲れ様」


 表情はわからない。それでも声色から、ほほ笑んでいるのだろうとわかった。声をかけられたハヤルが、さらに頭を低くする。


「猊下も」

「わたくしは大したことはしていませんよ」

「戦場で皆を援護なさっていたでしょう」


 あら、とささやいたとき、彼女の声の調子が少し変わった。威厳ある聖女のものから、年頃の少女のものへと。彼女はそのままころころと笑う。


「上手く他の巫覡シャマンたちにまぎれこんだつもりだったのだけれど。気づいていたのね」

「猊下のお力は他の巫覡シャマンとは違いますからね。素人の俺でもわかりますよ」


 おどけたようなハヤルの言葉に対し、アイセルは心底楽しそうに笑う。それから、騎士たちに顔を上げるよううながした。イゼットは、そっと顔を上げた瞬間、自分の上に影が差したことに気づいて息をのむ。


 彼のあるじが、見下ろしていた。布で覆われた相貌がわずかに見える。黒い瞳がうるんでいるように映るのは、光の加減のせいではないだろう。


「アイセル猊下」

「……イゼット。本当にありがとう」


 アイセルは突然感謝を投げかけると、ほほ笑む。唖然としている若者に向けて、薄紅色の唇は優しく言葉を紡いだ。

「ここまで頑張ってくれて、無事でいてくれて――私の前に戻ってきてくれて、ありがとう」


 衣の裾が汚れるのも厭わず、聖女はその場にしゃがみこむ。そして、包みこむようにイゼットの手を握った。イゼットは、己の手が震えていることを自覚しつつ、けれどその場から動かなかった。じっと、瞳を主に向ける。


「アイセル、様」


 かつてのように、少女を呼んだイゼットは、ゆるくかぶりを振った。


「寛大なお言葉を賜り、恐縮でございます。しかし、私が従士の立場と責務を一時的に放棄したことは事実です。まずは、そのことを謝罪させてください」

「もう、相変わらずまじめね。あなたがたくさん悩んで決めたことなら、私は責めないわ。謝罪も必要ありませんよ」


 笑声を交えながら返した聖女は、従士の頭を軽くなでた後、悪戯っぽくささやいた。


「ルーの修行は最後まで見届けられた?」

「はい」

「それなら、よかった」


 本当に嬉しそうに言ったアイセルは、従士の手を改めて取って立ち上がる。彼女について立ち上がったイゼットが呆然としているうちに、アイセルは他の人たちに声をかけていく。


「シャハーブ様、今回はご助力いただき、本当にありがとうございます」

「お気になさらず、猊下。私は私の役目を全うしただけでございますから」


 朗らかな声がけに、シャハーブはあくまでしおらしく、丁寧に応じた。真綿にくるまれついでに花の香りをまとわされたような言葉から、本心をうかがうのは難しい。そのせいか、生ぬるい視線が一つ二つ彼に向けて注がれていたが、本人は意に介していなかった。


 アイセルの方もそれほど気にしていないらしい。被きの下からほほ笑みかけた後、そわそわしているクルク族の少女に気づいて、口もとをほころばせた。シャハーブに一礼してから、そちらに駆け寄る。


「ルー! 聖都で会って以来ね」

「は、はい! お久しぶりです、アイセル様」

「元気だった? 怪我や病気はしなかったかしら」

「怪我……は、ちょっとしましたけど、それでも元気でしたよ。心配ご無用です!」


 ルーが堂々と胸を張ると、その場の空気が一気に華やいだ。アイセルの声も、特に軽やかでやわらかい気がする。


「あなたにもたくさんお礼をしなければいけないわね。今回の『浄化』でもずいぶんと助けてもらったみたいだし」

「いえ。今回はそんなに大したことしてないですよ。シャハーブさんやメフルザードさんがいなければ、もっと大変だったと思います」


 言いながら、視線を周囲に滑らせたルーが「あれっ」とひっくり返った声を上げる。イゼットも、ルーの視線を追いかけて目を見開いた。だが、次の瞬間には苦みの混じった笑いがこみ上げる。


「あれれ、メフルザードさんがいませんよ!」

「どうも、聖女様と出くわす前にしたみたいだな」


 シャハーブも、あきらめたようにかぶりを振っている。本当に呆然としているのは、ルーと二人の騎士だけだった。


「あら……イゼットの恩人だっていう、旅の傭兵さんね。お会いできたのなら、ぜひお礼をしたかったのだけれど。残念……」

「申し訳ありません。どうも、ロクサーナ聖教と関わるのがあまり好きではないみたいなので……」


 しゅん、と肩を落とした聖女に、イゼットは戸惑いつつ言葉をかける。むろん、心の中では師匠に苦情を申し立てていた。

 しかしアイセルは、すぐに背筋を伸ばすと、ひとつうなずく。


「それならしかたがないわね。イゼットが次にお会いしたとき、お礼を伝えておいてもらえるかしら」

「かしこまりました。受け取ってもらえるかどうかはわかりませんが……伝えておきますね」


 ――そうして、忽然と姿を消した男について騒いでいる間に、騎士団の撤収準備が整ったらしい。この一件に限り神聖騎士団を援助するフーリが、一同の前に何食わぬ顔で姿を現した。その日の夕刻、日没時間に差しかかりはじめた頃のことである。

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