第150話 時代の黎明 1

「浄化の月があるから平気だろう」という、一見楽観的な言葉は、あながち出まかせでもなかったらしい。うずくまったままでいるうちに、イゼットの全身の出血は少しずつおさまっていき、それに合わせて痛みも引いてきた。普通の人であれば考えられないほど治りが早い。起き上がれるようになったとき、自分の体を見回してイゼットは唖然とした。このまま人ではない何かになっていってしまうのだろうか、というおぼろげな恐怖が頭をかすめる。


 恐る恐るそれを口に出すと、シャハーブが優雅に笑声を立てた。


「心配いらないさ。俺などに比べたら、イゼットはまだまだ人間だ」

「は、はあ……?」


 なんと答えようもなく、イゼットは生返事をするしかなかった。彼は、シャハーブが聖教本部でやってのけた「証明」のことを知らない。だから、この旅人の言葉の真意も知りようがなかった。


 二人のやり取りを、ルーはにこにこして、メフルザードはやや呆れ気味に見ている。その視線に気づいたらしい。シャハーブが、二人を一瞥してから咳払いをひとつ、した。


「まあ、それはいいとして。イゼットが動けるようになったなら、戦場の方へ行ってみないか? そろそろ決着もついている頃だろう」

「戦場、ですか」


 つまり、神聖騎士団の前に姿を見せるということだ。実質的に追放された身であるから、イゼットとしては苦々しく躊躇してしまうところである。が、彼らの様子が気になるというのもまた本音であった。


「そう、ですね。行ってみましょうか」

「賛成です! アイセル様に会えるかもしれませんし」


 どもりながらも答えたイゼットのそばで、もうひとつの声が弾ける。いつの間にか隣に駆け寄ってきていたルーが、元気に右手を挙げていた。イゼットはなんだかおかしくなって、こみ上げる笑いをこらえた代わりに、彼女の頭を軽くなでた。その斜め後ろで、メフルザードが小さく鼻を鳴らす。


「俺はむしろ、聖女様には会いたくねえな。なんてったって、従士を誘拐した張本人だ」


 多分、猊下はそうは思っていない。とイゼットは言いかけて、けれどやめる。そんなことはメフルザードもわかっているはずだ。そういう問題ではないのだ。


 ともあれ、一行は来た道を戻ることにした。最後尾からメフルザードがついてきているのを見て取ったイゼットは、思わず顔をほころばせる。本人に気づかれないよう、すぐに前を向きなおしたけれど。


 淡々と進んでいたイゼットたちはしかし、途中で足を止めることとなった。「少し待て」とシャハーブに制止されたのである。その理由はすぐに知れた。


 前方、イゼットから五歩離れた場所に、突然白い子どもが現れたのだ。彼は相変わらず何の感情もこもらない目で、イゼットを見つめる。


「この地の浄化に成功したようだね。お疲れ様」

「フーリさん。色々、ありがとうございました」


 失礼だろうかと思いつつ、イゼットは馬上で礼を取る。フーリは、わずかに頭を傾けた。


「礼を言われることではない。僕は任務を遂行しただけだ」

「えっ、と……」

「それに、君に向けられた反逆者の力を完全に遮断することができなかった。これは〈使者ソルーシュ〉である僕の失敗だ」


 妨害が入ったあのとき、フーリは対処をしてくれていたという。それでこれだけのことが起きたのだから、彼が助けてくれていなかったらもっと悲惨なことになっていたかもしれない。イゼットは、血まみれの全身を見回して青ざめた。


 感謝もこめてフーリに視線を戻したイゼットは、しかしそこで目を瞬く。なんとなく、違和感があったのだ。フーリの立ち姿がいつもより冷たいような気がする。どちらかというと、『反逆者』と呼ばれた人々に近いような――


「その『反逆者』どもはどうしたんだ? 追い返したのか」


 背後から飛んできた声に肩を叩かれたような気がして、イゼットは一瞬全身をこわばらせた。不平を訴えるように鼻をならした雌馬をなだめながら、白い子どもを盗み見る。


 彼は色のない瞳を声の主、シャハーブに向けていた。やはり、いつもより冷たい、気がする。


「彼らは消えたよ」


 無感情な声が荒野に落ちる。イゼットとルーは思わず顔を見合わせた。シャハーブもさすがに驚いたようだ。少しかたい声で、フーリの言葉を繰り返す。


「……消えた?」

「そう。少なくともむこう五年は、イゼットが狙われる心配はない」


 返る声は、やはり淡々としている。イゼットの中で、それが妙に引っかかった。思わずシャハーブを振り返る。彼との付き合いが長い青年は、珍しくしかめっ面で考え込んでいるようだった。イゼットの視線に気づくと、詮索するなといわんばかりにかぶりを振る。若者は無言でうなずいて、ヘラールに前進の合図を出した。


 そうしてしばらく馬を進めていると、ざわめきが耳に入ってくる。遠くに人影も見えはじめた。


 ルーが、馬上で身を乗り出す。


って、たくさん聞こえますね」

「ということは、神聖騎士団だね」


 ルーの隣に馬を寄せて、イゼットは少し眉を寄せる。撤退、ということは、戦いの決着も大方ついたということだろう。


「どうしましょう?」

「人目を避けながら本陣に向かおう。事情を知らない騎士と鉢合わせて騒ぎになったら大変だから」

「がってんです!」


 胸を張るルーにうなずいてみせてから、イゼットは背後をうかがう。大人の男たちの方にも、異論はなさそうだ。


 そういうわけで、一行が奇妙に迂回しながら本陣を目指していると、途中で少数の騎士たちが近づいてきた。


 最初に気づいたのは、やはりルーである。彼女は鋭敏な聴覚でもって馬蹄の音を拾うと、他の四人を制止した。真剣なまなざしで、なだらかな大地を見つめた後、首をかしげる。


「いつも聞くお馬さんの足音と、少し違うような気がします。重たいっていうか、しっかりしているっていうか」

「そいつは騎兵じゃねえか?」


 答えたのは、メフルザードである。彼はルーの視線を受け止めると、悪戯っぽく笑った。


「連中の馬は色々装備つけてるから、重く聞こえるのかもしれん。俺らには違いがまるでわからんがね」

「な、なるほど! 見つかっちゃっても大丈夫なんでしょうか?」

「それこそわからねえよ。相手によるさ。が、隠れる場所もないから、どうしようもねえな」


 なぜか楽しそうに、メフルザードはそう言った。その間にも馬蹄の響きは近づいてきて、常人たちにもわかるほどになってきた。イゼットは、影を見つける。その数はほんの四騎ほど。どうしたものか、と考え込んでいたイゼットは、けれど意外な思いで目を瞬く。先頭の一人が、こちらに向かって手を振っていることに気がついた。


 騎兵の小さな集団は、イゼットが手を振り返すと嬉しそうに近づいてきた。先頭にいたのは、爽やかな笑顔を浮かべる若い騎士だ。イゼットの知らない彼は、しかし自分をハヤルの使いだと言うと、屈託なく笑う。


「お久しぶりです、従士殿。覚えてはおられないでしょうが、聖院では同期だったんですよ」


 イゼットは固まって、目の前の騎士を見返す。


 襲撃事件の際、多くの若者が命を落とした。だからイゼットやハヤルの世代には、同期と呼べる者は数多くない。ずっと探していたものに巡り合えたような温かさが、若者の体のうちを包みこむ。


 とはいえ、イゼット自身が彼のことを覚えていないのも確かだ。従士候補だったこともあり、同期の騎士と関わる機会は、他の騎士よりもずっと少なかったから。


「ええと、申し訳ない……」

「いやいや、気にしないでください。当時から忙しそうだったし、あの後も色々あったんでしょう?」


 からからと笑った彼は、ハヤルがいるところまで直接案内すると申し出た。元々、そのために隊を抜け出してここまで来たらしい。断る理由も特にない。一行は、とりあえずついていってみることにした。その段階でフーリが姿を消していることにイゼットは気がついたが、呼びかけようとしたところをシャハーブに止められた。


「これ以上あんたらに干渉してはならない、と判断したんだろう。代わりに騎士団長殿の所にでも行ったんじゃないか?」


 そう言われ、以前聞いた天上人アセマーニーの決まりごとを思い出す。結局イゼットは、苦みと一抹の寂しさを胸にしまって、馬を進めた。

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