第二章 ルシャーティの修行

第94話 砂と精霊の修行場

 青く輝く峰に沿って、一羽の鷹が舞う。緑の乏しい大地に目を光らせた彼は、やがて弧を描きながら山並みの先へと消えていった。


 ひとたび山から離れれば、その先に続くのは不毛の大地だ。茶色い岩と白い砂。そしてその中にまぎれこむようにして、巨大な柱が倒れていたり、獅子の頭が転がっていたりする。古の栄華の足跡は、十パラサング(約六十キロメートル)に渡って続く。それに背を向け、南へ進めば、またちらほらと、木々や緑地が見えてくる。ただ、そこは、地上最強の狩猟民族が庭とする、弱肉強食の世界だ。



 気合の声が空を斬る。同時、骨を砕くに似た音が響き渡った。それは、嫌悪と恐怖とを引き起こす生々しさを持っている。しかし、衝撃を受けたモノ――青黒い体の獣は吹き飛ばされた直後に、体の色がほどけて煙のように消えてしまった。


 一人の子どもが、消えた獣のいた場所をじっと見つめている。黒に限りなく近い茶色の瞳には、険しさと戸惑いが同じだけ混ざった光が宿る。髪は短く身体はよく鍛えられているから少年のようにも映るが、その姿の端々には女の子らしいしなやかさがのぞいていた。


 少女は眉をぐっと寄せて、ため息をつきたそうにする。けれどもすぐに憂鬱を押し込めて、半歩前に踏み出してから、左足を軸に体を回転させた。少女の死角から飛び出した狼型の獣に、重い蹴りが打ち込まれる。脚が食い込んだところから、獣の体はすっ、と消えた。


 少女は今度こそしかめっ面になる。際限なく出てくる獣たちをにらみつけてから、両手のひらで白い頬を叩いた。

 彼女のすぐ左隣を白い光が通り過ぎる。直後、二頭ほどの獣が消えた。少女はまったく動じなかったが、少しだけ渋面をやわらげて振り向いた。視線の先に、槍を構えた若者が一人。朝日のような色を持つ優しい瞳が、わずかな焦燥を湛えて彼女を見る。


「ごめん、ルー。遅くなった」

「いえ、ありがとうございます。……大丈夫ですか?」

「うん。彼らには、心がないみたいだから」


 若者――イゼットは獣たちの様子をながめて、顔をしかめた。おどけたつもりで吐き出した言葉には、苦みがにじむ。少女、ルーはそれに同意するようにうなずいた。


「これ……『木々と幻想の修行場』にいた子たちですよね」

「うん、間違いない」

「なんなんでしょうね?」

「なんなんだろう……」


 イゼットが、呼吸を整えながらルーの隣までやってくる。二人は同じように首をかしげあったが、そうしていたところで疑問は解消されない。獣のうなり声を聞いたルーは、表情を再び引き締めた。


「とにかく、この先に詩文があるのは間違いないんです。一丁いきましょう」

「うん。不思議なことは後で考えればいい」


 片や体を沈め、片や槍を構える。臨戦態勢の人間たちに相対した獣たちは、鋭い気配を感じ取ったようだ。ぶきみなほど静かに牙をむく。


「……絶対に精霊ではないよね、これ」


『砂と精霊の修行場』――岩に刻まれたクルク文字を思い出して、獣を見据えたイゼットが重く呟いた。



     ※



 イゼットとルーは、獣たちを蹴散らしながら修行場を駆けた。少しすると獣たちの姿はまばらになり、最後には大きな石碑が行く手に現れる。石の表面に彫りこまれたクルク文字を見つけて、ルーは目を輝かせた。イゼットはそのかたわらで安堵の息を吐く。


「なんとかたどり着いたね」

「はい! 急いで写しますね」

「焦らなくても大丈夫。ちゃんと見張ってるから」


 そわそわしている少女に、イゼットはひらりと手を振る。彼がむき出しの槍を立てると、彼女は軽やかに駆け出した。赤い衣が遠ざかるのを見送りながら、彼は穏やかに思考の海へ沈んでいく。


 長いことルーの修行に付き添ってきたが、多くの修行場で奇妙奇天烈な仕掛けがほどこされていた。『石と月光の修行場』の石の人形や『砂と精霊の修行場』の獣のように、動き、襲いかかってくる存在も多くいた。まるでおとぎ話のようだ。それがこうして実在するのは、クルク族の修行場にばかり現れるのは、なぜなのか。


 今まで見てきた要素を並べていくと――行きつく先は、『御使い』と月輪の石のこと。

 聖教の伝播によって埋もれてしまった説話と真実。その断片にすらまだ触れられていないが、修行場の仕掛けがそれに関連しているということだけは、彼の中にある『もの』が訴えてくる。


 修行場を巡り終わったら、このことを突き詰めなければならない。今度こそ、真正面から向き合わねばならないのだ。


 今もなお、高く叫ぶ『もの』の温度を感じ取り、イゼットは思わず胸に手を当てた。


 頭の隅を鋭いなにかがかすめてゆく。一瞬遠ざかった現実は、すぐに押し寄せてきた。素足が地面を蹴る音に、イゼットは誘われる。詩文を映し終えたルーが、嬉しそうにその先を指さしていた。石碑のかたわら、巨岩が行く手を阻んでいたそこが、いつの間にかまっさらな平野になっていた。少しだけの予兆と大きな変化に、イゼットは眉を寄せる。しかし、まっすぐ進めるようになったことはありがたい。しかめっ面を引っ込めて、彼は少女のもとへ進んだ。


「残り一か所です」と意気込んで拳を握ったルーだが、すぐ真顔になった。何事かを考えこんでいる相棒をイゼットはしばらくながめる。


「ううむ……やっぱり、イゼットには集落についてきてもらった方がいい気がします」

「え?」


 真剣そのものの表情と、吐き出された言葉に驚いて、イゼットは目を丸めた。


「どうしたの、急に」


 問い返す声に、狼狽と不安がにじみ出て、揺れを生む。それは彼自身にもどうにもできない動揺だった。


 クルク族は、高い身体能力とそれについて回る逸話のせいか、外の人々とは折り合いが悪い。彼らはよほどの理由がない限り、集落とその縄張りから出ようとはせず、外の人々を招き入れることもしないという。縄張りより外に出て、その上に外の人間と行動を共にするクルク族は、稀なのだ。慣習にのっとって行動しているルーはともかく、アンダのような者は、噂ですら聞いたことがない。もっともそれはイゼットが耳に入れた範囲での噂であるから、大陸を探せば「例外」はほかにいるのかもしれないが。


 とはいえ、ルーの発言は想定外だった。発言した本人は、その自覚がないかのようにうなずく。


「これまでボクが記録してきた詩――ひょっとしたら、イゼットに関わりがあるかもしれないと思って。だから、できれば二人で、族長に話を聞きたいんです」

「『御使い』について記録した詩かもしれない、ってこと?」

「ボクが読んだ限りではそう感じました。あくまで勘なので、確かにそう、とは言えないです。でも、族長なら正確な意味もご存じのはずです」


 じっと下を向きながら言うルーの声は、独白のように響く。それを一語、一語かみしめながら、イゼットはだいぶ前のやり取りを思い出していた。


『ある一人の人、あるいはひとつの民族の行動を追っているように見えるんです』


 ルーはかつて言っていた。


『ある一人の人』あるいは『ひとつの民族』の行動を追ったような詩――例えば、叙事詩のような。それが、古い民話や伝説を今に残していたとしても、なんら不思議はない。


 だが、予備知識のない二人だけでそれを読み解くのは不可能だ。結局、先達の力を借りなければならないのだから、ルーの提案は間違ってはいない。


「それは、ありがたいけど……入れてもらえるかな」


 決断を妨げるのは、現実の不安、それのみだ。そしてそれこそが、人の行動にもっとも影響することを、イゼットは知っている。だから慎重に問いを重ねるのだ。


「大丈夫だと思いますよ」


 ルーもクルク族と外の人々の問題は承知しているはずだが、返る声は明るい。


 現実の不安を笑顔ではねのけられる。その強さは、イゼットにはないものだ。


「みんなが『修行』に出ていることもあって、アグニヤ氏族ジャーナはほかの氏族ほど外の人たちを嫌ってませんから。族長もとても賢い方ですし」

「そっか。それなら、お邪魔させてもらおうかな」

「ぜひぜひ!」


 ふ、とほほ笑んだところで、ようやくルーの顔からも力が抜けた。頬を染めて喜ぶ少女は、友達を家に招こうとする少年のようである。そんな彼女に、イゼットは軽く握った拳を突き出した。


「そのためにも最後の修行、絶対達成しようね。――一緒に」

「……はい! しゃきしゃき行きましょう!」


 瞳を輝かせたルーが、拳を返す。いつか、夕暮れの空の下で、広げた手をそうしたように、二人はそれを打ち合った。

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