第95話 終わりの場所、始まりの言葉

 アグニヤ氏族ジャーナの縄張りに近いこの地には、町や村が一切ない。だからこそ、二人はこの地に入る直前に、可能な限りの水と食料を買ったり採ったりして蓄えた。貴重な旅の命綱は、馬たちの背にくくりつけられている。


 石碑のかたわら、現れた道を通り抜ければ、奇妙な獣たちの気配は完全に消え失せた。『砂と精霊の修行場』を抜けたのだ。未知の脅威がもう降りかかってこないことを確かめて、二人はやっと休憩をとることにした。たまたま見つけた巨岩のそばに腰を下ろして、穀物の粉を棒状に固めたものと干しイチジクをかじり、水筒の水を一口飲む。


 自分の食事を手早く済ませると、イゼットは立ち上がって、馬たちに水をあげる。ルーが唐突に口を開いたのは、その途中だった。


「最後の修行場は、ここから近いはずです」

「そうなの? 正確な場所、わかるの?」


 軽く目をみはって、イゼットは振り返る。ちょうどその時、ルーが小さくうなずいた。彼女は詩文を書き記している石板を袋にしまって、立ち上がる。同時に、ふわりと笑った。


「最後の修行場は、集落の子どもが遊び場にするところなんです」



 予想の斜め上をいく答えをくれたルーの案内に従って、平原を進む。道行の中ですれ違うのは、野生動物ばかりだった。隊商カールヴァーンはおろか、人の一人とさえ出会わない。静かな旅路はしかし、ふしぎな心地よさをもたらしてくれた。


 こまめに休憩をはさみながら馬を走らせること、四日。地平線の先に、なにかの群れが頭を出しているのが見えた。少し速度を落として進んでみると、その頭がすべて岩であることに気づく。背の高い岩が無数に立ち並ぶ光景を見て、イゼットは無意識のうちに息をのんでいた。しかし、ルーは驚いた様子もなく、けろりとした表情で「あ、ここです」と呟いた。彼女がラヴィに前進の合図を出したところで、イゼットも我に返って後を追う。


 奇岩の合間を縫って進む。その先、少し開けた場所に、ひときわ大きな岩がそびえていた。その中心に、大人の男が余裕で入れるほどの穴が開いていて、まるで門のようになっている。


 先に馬を止めたルーが、静かな顔で巨岩を見上げた。青天をあおぎ、大きく息を吸った彼女は、イゼットを振り返る。


「この先に行くと、始まるはずです」

「始まる?」


 イゼットは、眉根を寄せる。いつもと明らかに違う言葉、雰囲気、手順――すべてに違和感を覚えた。しかしルーは違和感をほどく答えをくれない。ただ、大きな瞳でじっと見つめてくる。


 行けばわかるということか。


 その点は、今までの修行場と大差ない。


 腹をくくるしかなさそうだ。イゼットが一度小さくうなずくと、ルーは顔を前に戻して、ラヴィから下りた。岩の門のすぐそば、その孫のような小さな石柱に馬をつなぐ。イゼットもそれに倣った。


 巨岩の穴、その下の空洞をくぐる。反対側にも同じような穴があいていた。歩いて通り抜けると、さえぎられていた陽光が容赦なく照りつける。思わず目を細めたイゼットは、その先に黒い人影があることに気づいた。


 目が慣れてくると、人影に色彩とはっきりした輪郭が浮かび上がってくる。イゼットより少し年上の、まだ青年と呼べる男だ。筋肉質な長身を、アグニヤ氏族ジャーナ特有の赤い衣が覆っている。彼は揺るがず、喋らず、仁王立ちをしていたが、ルーの姿を見ると目を細めたようだった。


 小さく唇がひらく。どしりと響く低い声が、奇岩地帯に流れた。イゼットには耳慣れないクルク族の言語であるから、何を言っているのかはわからない。一方、ルーは明らかに頬をひきつらせた。



     ※



「今日は誰が来るかと思っていたが……まさかルーだとは思わなかったな。なるほど、これだから修行担当は面白い」


 流暢な故郷の言葉と、聞き覚えのある声を聞き、ルーは肩と顔をこわばらせる。ほとんど反射的に拳をにぎってしまい、すぐにその力を抜いた。


「今期のはアンシュなんだ。ボクも、正直、驚いた」

「そうだなあ。『とおの奉納』でかち合った二人が、この修行でも当たるなんて、めったにあることじゃない」


 笑い含みに返すアンシュは、思っていたより穏やかだった。


 ルーの記憶の中にいる彼は、もっと鋭くて、冷ややかで、怖い人だ。目の前のアンシュもなんとなくそっけない感じはあるものの、常にこちらをにらみつけてくることはない。――記憶の中の姿は、『十の奉納』を為せなかったルー自身が、恐怖によって作り上げた幻影だったのかもしれない。


 だからか、ルーは自分の予想より冷静に話題を受け止めることができた。『十の奉納』の件はいわば、人生最大の失敗だ。ひとたびそのことに触れられたら、取り乱してしまうかもしれない、とさえ思っていたのに。


「正直、ルーがここまで来られるとは思っていなかったな」


 ふと、言葉が割り込んでくる。ルーが首をかしげると、先輩の目が四角く膨らんだ袋をとらえた。


「ここへ来たということは、ほかの十四か所をすべて回ったんだろう?」


 詩文を刻み続けた石板と、彼女の思い出が詰まった袋。ルーも視線に誘われて、その表面を指でなぞる。自然と、笑みがこぼれた。


「……ボク一人の力じゃないよ」

「そうらしいな、どうも。――でも、それも立派な修行だ。おまえはきっと、いい前例になる」


 腕組みして笑む青年を見返して、ルーは息をのむ。静かな言葉が、あたたかな記憶と重なった。


『一人でなんでもできる人なんていない。誰かの手を借りることも修行の内じゃないかな』


――それは、初めてルーを揺るがした声。

 二人にとっての、始まりの言葉だ。


「君が、イゼットと同じことを言うとは思わなかった」


 ルーが思わず笑声を立てると、アンシュは怪訝そうに頭を傾けた。



     ※



 イゼットは、二人のやり取りを半ば呆然として見ていた。中身がわからないのだから、話についていきようもない。わずかな表情の変化から読み取れることも限られている。必然的に、置いてきぼりにされることとなった。唯一読み取れたことがあるとすれば、話が進むうちにルーの緊張がほぐれていった、ということくらいだろうか。


「さて」


 青年の声が突然なじみ深い音をつむいだのは、イゼットの困惑が極みに達しようとしていた頃だった。イゼットがあっけにとられたのは当然のこと。ルーも、意外そうに瞠目した。


「いつまでもルーの連れを放っておくわけにはいかないな。そろそろ切り替えていこう」

「アンシュ、ヒルカニア語を話せたんですね」

「当たり前よ」


 アンシュ、と呼ばれた青年は、肩をすくめる。精悍な顔に、悪戯っぽい笑みがかすめた。


「一応ここもヒルカニア領だからな。言葉が話せないと、外の人間と関わらなければならなくなったときに困る。それに――たいていの奴は修行の中で、嫌でも言葉を学ばされるからな」

「あ、なるほど」


 ルーは、ぱん、と手を打った。その様子を見たアンシュは、視線を彼女からイゼットに映す。たくましい狩人はそして、礼を取った。


「初めてお目にかかる。アグニヤ氏族ジャーナのマハーの息子、アンシュと申す。このたびは、同胞がたいへん世話になったようだ。お礼申し上げる」

「いえ。こちらこそ、色々と助けてもらいました」


 苦笑して返してから、イゼットも手短に名乗った。アンシュという通り名を持つ青年は、形式を終えると、軽く目を細めた。それまでの友好的な視線とは違う――戦士の目だ。


「では、ルー。最後の修行を始めよう」

「……はい」

「なんとなくは知っているだろうが、イゼット殿のためにも内容を説明しておく。とは言っても、難しいことはない」


 青年は衣の帯に手を伸ばす。帯に挟まっていた薄い石板を鮮やかな手つきで引き抜き、掲げた。


「詩の最後の一連が記された石板だ。これを俺から奪い取れ」


 声高く告げられた内容に、イゼットはぎょっとする。彼の表情に気づいたのか否か、アンシュは白い歯を見せた。


「最後の詩文にたどり着く条件は、それだけだ。簡単だろう」

「……確かに、簡単ですね。言葉だけなら」


 イゼットとしては、そう返すよりほかにない。クルク族がいかに頼もしい存在で、いかに厄介な相手であるかは、よく知るところだ。


 ふいに、風が吹き、砂ぼこりが舞った。


 アンシュが地を蹴り、跳びあがったためだ。


 イゼットが次にアンシュの姿をとらえたとき、彼は二人の背後の岩のてっぺんに立っていた。


「さあ、来い」


 戦士の叫びがこだまする。


 ひるんでいる間もないらしい。もう一人のクルク族との苦い思い出を噛みしめつつも、覚悟を決める。


 イゼットは、ルーと視線を交わし、うなずきあった。

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