第18話 裂けて割れた道のむこう

 道が、裂けている。


 もののたとえなどではない。浅き緑の生い茂る道に、ばっくりと裂け目が走っているのだ。裂け目は、ひとつではない。奥へ、奥へと続く道、数歩ごとに裂け目はあって、来訪者の歩みを妨げている。


 来訪者、つまりイゼットとルーとカマルは、言葉もなく森の裂け目に見入っていた。この三人にしては長い沈黙。それはややして、空気を震わす音に破られる。長い、長いため息をついたのは、イゼットだった。


「これも『からくり』かな」

「……わかりません」


 ルーが降参とばかりに両手をあげる。さすがに、彼女の表情にも呆れの色がにじんでいた。そして、そのまま歩きだすと、裂け目のふちを指でなぞった。それから、屈んだ姿勢のまま、熱心に裂け目をながめまわす。落ちるかもしれない恐怖などは、微塵も感じられなかった。


 イゼットは内心はらはらしていたが、そこはルーの身体能力を信じることにして、黙って見守った。


「最近できたものみたいです。修行のための仕掛けじゃないですね」


 振り返ったルーが顔をしかめて告げる。イゼットもまた眉をひそめた。


「カマルくん、このあたりで最近、地震がきたとか大雨が降ったとかいうことがあったっけ」

「へぇ?」


 ぼうっとしていたのだろう。ひっくり返った声を上げたカマルは、それからちょっと考えこんで、首を振った。


「ないと思う。雨はちょっと降ったけど、それ以外は特に――」


 カマルは言いながら、大ぶりのナイフで裂いたみたいな裂け目をにらむ。


「なんなんだろうな、これ。こんだけばっくり割れてるとちょっと怖い」

「だよね。それに、どうやってここを渡るかっていう問題もある」


 裂け目の幅は、だいたい歩幅三歩分。イゼットとルーならなんとか渡れないこともないが、その隣にいるカマル少年が問題だ。

 その少年は、籠をぐっとにぎりしめて、イゼットの方へ身を乗り出す。


「おれ、このくらい平気だよ。何がなんでも先に行くんだからな!」


 イゼットは、笑っているとも呆れているともつかない表情で、カマル少年の頭を押さえた。これはいくら言い聞かせても聞かないだろうと思ったが、危険が伴うことには変わりない。

 イゼットは悩んだが、その悩みは間もなく吹き飛ぶことになる。


「大丈夫ですよ。一緒に頑張りましょう」


 ルーがけろりとしてそう言った。彼女は、近くの木の枝に蔓のようなものを巻きつけて、何やら準備を始めている。イゼットは苦笑いしつつも「わかったよ」と答え、カマルの手をとった。


 よし、と呟いたルーが、蔦の先端をにぎる。頭上の枝が軋んだが、ルーは気にすることなく、蔦をにぎったまま数歩後退した。そのまま助走をつけて、裂け目の手前で地を蹴った。少女の体は軽やかに飛んで、裂け目のむこうできれいに着地する。唖然としている二人を振り返ったルーは、この上なく明るい笑顔を見せた。


「ささ。二人とも来てください」


 簡単に言うな。


 イゼットは心の中で悪態をついた。

 それでも毒は心にとどめて、イゼットは近くの木を見上げた。ルーが木の枝に巻きつけた蔓は、すでにちぎれそうになっている。この二人の重量を支えるのは無理だろう。

 イゼットは少し考えて、わくわくした顔で待ちうけているルーの方を見た。


「しょうがないな。――ルー」

「はい!」

「ちゃんと受け取ってね」


 ルーは首をかしげていた。が、ほどなくしてなにかを閃いたように笑みを浮かべる。イゼットは続けて、カマルの体を抱えあげて、持ちあげた。


「うわ、ちょ、何すんの!?」


 少年から当然の抗議が飛んだ。しかしイゼットは、それには答えなかった。代わりに、

「ごめん。危ないから口閉じておいてね」

 と言うと、抱えあげた少年を――文字通り、投げた。


 対岸でルーが体と腕を伸ばす。顔じゅうをひきつらせた少年をしっかり受けとめて、自分の隣にそっと下ろした。

 イゼット自身は、その見事な働きを見届けた後、木に登り、枝をつたって裂け目の先に渡った。ちょうど、先刻、ルーがやったのと同じ芸当だ。


 無事むこう側に着地したとき、彼を出迎えたのは、怒りのこもった涙声だった。


「ひどいやイゼット! あんたがそんなことするなんて思ってなかった!」

「ご、ごめん。とっさに思いつかなくて……」

「せめて、やるならやるって言えー!」

「いや、うん。申し訳ない」


 半泣きで怒るカマルに、イゼットは平謝りする。もう、こればかりは謝るしかない。なんとなく腕が痛いが、当然のむくいと思うことにした。


 ルーは当初、笑いをこらえて二人のやり取りを見ていた。しかし、突然目を細めて振り向くと、すぐさま二人に向き直った。


「二人とも、お静かに」


 二人――主にカマルは、ぴたりと黙りこむ。ルーは変わらず険しい顔で耳を澄ませる。ややあって、彼女は確信した様子で続く道を指さした。


「先の方から人の声がしました」

「本当? なにも聞こえなかったけど……」

「すごく小さな声でしたからね。たぶん、あれは女の人の声です」


 三人は誰からともなく顔を見合わせた。


「どこの誰かはわかりませんけど……」

「行くんだよね」


 イゼットが言うと、少女と少年が同時にうなずいた。


「です」

「あたぼうよ!」


 イゼットは顔をほころばせると、荷物と槍を抱え直して歩きだす。小さな連れが後を追った。声のもとへ向かうために、差し当たって、また割れた大地を飛び越えなくてはいけない。


「投げてもいいけど、今度はちゃんと合図くれ!」

うけたまわりました」


 イゼットはうなずいた。

 この件に関しては、カマルに対して頭が上がらなさそうだ。



「もうちょっと先です」


 何度目かの曲芸、もとい裂け目越えの後、ルーが眉間のしわを増やして言う。さすがにイゼットも疲れてきて、カマルなどは息も絶え絶えといった様子だが、二人ともうなずいた。


 声のもとには確実に近づいている。イゼットの耳にもかすかにだが、聞きとれるようになった。助けを求めているような、か細い女人にょにんの声だった。


 またひとつ、細い裂け目を越えた先で、ルーの眉間のしわがもう三本増えた。その理由はイゼットにもはっきりわかった。悲鳴に近い声が、裂け目の下から聞こえる。


「ボクの声が聞こえますか」


 裂け目の下に向かって、ルーが叫んだ。かすかに声がした。応答があったのだろう、ルーはうなずいてから「そこを動かないでくださいね。今助けます」と続けた。


「本当にルーが行くの?」


 地面に槍を突き立てて、イゼットは問う。


「女の人一人なら、ボクで大丈夫だと思います。それに、ボクが行った方が『彼女』も抵抗がなくていいですよ」

「それはまあ、確かに」


 男は妻以外の女に触れてはいけない――というのが、ヒルカニアやいにしえのペルグの習いだ。その習いを堂々とおかしている二人がここにいるわけだが、裂け目に落ちた彼女も同じ感性の持ち主かはわからない。


 イゼットは荷物から取り出した革ひもを槍の石突いしづき近くに巻き、ひもの先の方ををルーへ投げ渡した。ひもを軽く腕に巻いて強くにぎったルーは、槍を支えるイゼットに向かってをする。


「では、行ってまいります」

「気をつけて」


 ルーはいっさいの抵抗なく裂け目の中へ飛び込む。間もなく何やら会話する声が聞こえたが、地上からではほとんど聞きとれない。イゼットはしばらく槍を支えて黙然と立っていたが、少ししてカマルの方へ目を向けた。彼が、急に目を見開いて息をのんだことに、気がついたからだ。


「カマルくん?」

「……てた」

「え?」


 震える声でなにかをささやくカマルに、イゼットは思わず問いかえす。答えを聞く前に、槍が少し揺れて、ひもがぴんと張った。イゼットは慌てて槍の方へ体重をかけた。


 ほどなくして、「帰りました」という元気な声が響く。槍とひもにかかる力がゆるんだ。


 ルーは、女の人を抱えていた。


 少女というには大人びて、しかし婦人というには若い。娘、という言葉がしっくりきそうなその人は、土ぼこりと傷と痣をやせ細った体のあちこちにつけている。長い黒髪はバサバサで、血色は悪そうだ。けれど、相貌には安堵の色が浮かんでいた。

 娘は両足が地面につくと、ふらつくようにルーのもとから離れる。


「あの、本当にありがとう」

「いえ、いいんですよ。それより少し休憩してください。絶対に消耗してますから、そのまま動くのは危険ですよ」


 ルーが澄まして忠告すると、娘はほほ笑んで「はい」と言った。イゼットは口を挟まずに見ていたが、途中でふしぎな感覚をおぼえて、目を瞬いた。彼女の横顔をなんとなく知っている気がしたのだ。

 見えない手に引き寄せられるように、イゼットは隣を見る。


 どことなく娘に似た雰囲気を持つ少年が、両目をいっぱいに開いて、固まっていた。


「姉ちゃん」


 開かれたままの口から、感激とも動揺ともつかぬ声がこぼれる。

 娘が振り返ったその瞬間、カマルは雷に打たれたように震えて、前のめりになり、そのまま倒れて地面に手をついた。


「サミーラ姉ちゃん!」


 見開かれた両目からにじんだものが粒となってこぼれ落ち、草をぬらす。その先が続かぬ少年と、ただ立ちつくすその姉を、イゼットとルーは呆然として見ているしかなかった。

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