第13話 真心を君に

 なるたびに思い出すものはいくつもある。背中をさする手。たくましい腕のぬくもり。少し冷たい風。足音。かたい寝台の感触。それから――小さな、小さな話し声。


 イゼットがこうなるたび、野の大人たちはいつも、彼を気遣うようにささやきあっていた。


「だーめだわ。どこに誰といても、結果はあんま変わらんらしい」

「そうか……。ってなるとやっぱり、『発症』するには条件があって、その条件っていうのは……」

「発症、ねえ。そもそもこれ、病気なのか?」

「それがわからないから、僕も参ってるんだよ。病気じゃなかったらそれこそ、巫覡シャマンにでも診てもらうしかないな」

「俺ぁ、このへんの巫覡シャマンと関わりたくないんだがなあ。奴ら、高慢ちきでいけねえ」

「この子にとっては、むしろ好都合なんじゃない?」

「どうだかね。悪霊に憑かれてるとか言われてみろや。どんな扱い受けるかわかんねえぞ。――なあ、それでも聖都に行きたいのか、イゼットよ」


 声とともに、太くてごつごつした手が、額に張りついた前髪をかき上げる。その手つきはいつも優しかった。かつて得られなかったぬくもりは、きっとこういうものだろう。そう思うと、苦しいながらもほんの少し嬉しかった。――そのふしぎな感覚を、今でもよく覚えている。



     ※



 記憶にあるより小さな手が、肩をつかむ。そのときイゼットは、しっかりとした地面の上にようやく立てたような気がした。異変が起きた後も、ずっと意識ははっきりしている。まわりの音も、少しぼやけてはいるが、聞こえた。だが、全身が引きちぎられるように痛いせいで、夢とうつつの境にいるようだったのだ。その間の苦痛を思うと、気絶できた方が楽かもしれなかった。


 ルーが何度も名前を呼んでくる。その声が、だんだんと大きくなってきた。


「イゼット! やっぱりどこか悪いんじゃないんですか!?」


 白い相貌に恐慌をはりつけたルーは、おろおろとあたりを見回している。取り乱してはいるが、大声を出すことはなかった。――本当は、イーラムに着く前から、何かあると気づいていたのだろう。


 罪悪感が、イゼットの心を静かに絞める。その一方で、ようやく声が出るようになってきていた。


「ルー」


 今にもちぎれそうな糸のように、細い声で名を呼ぶと、ルーは軽く目をみはった。


「ごめん……どこか、人のいないところ、に」


 そこまで言って、イゼットはまた歯を食いしばる。短い言葉は、ルーにきちんと伝わったらしい。イゼットが手放しそうになっていた槍を右手で持った彼女は、左の腕を彼の脇に回してきた。

 いくらなんでも片腕は無茶だ。

 あせるイゼットをよそに、ルーは片腕で抱え上げるように彼を支えると、「むんっ」と一声上げてから、広場の横の小路めがけて歩きだした。


 騒動の音が遠ざかり、心地よい静寂が喧騒に取って代わる。人っ子一人いない路地。かわりに野良猫がのんびりと散歩する横を、身を寄せ合う二人が行き過ぎる。久しぶりに人を目にしても、猫はいっさい動じない。近くの家の軒先で丸まって、遅めの昼寝を始めた。


 猫ほどのん気でない人間たちは、座れる場所を探してさまよい、閑古鳥の鳴く食堂に行きついた。愛想のない店主に不審げに見られるが、構わず奥へと入る。席について、軽食を注文し、ようやく一息つけた。


「イゼット……」


 ルーが、気づかわしげに呼ぶ。イゼットは、何度も息を吸って吐いた。痛みと痺れが少しずつひいてゆく。火の燃える音と、芳ばしい肉の香りと、土のにおいが、現実を伝えてきた。


「――もう、だいぶ平気」

「なら、いいんですけど」

「ごめん、ルー。驚いたよな」


 ルーは首を横に振ったすぐ後、縦に振った。どちらともいえない曖昧なしぐさに、イゼットは苦笑する。いまだに苦痛の名残がある腕を、軽くなでてみるが、なでても名残は消えなかった。


「修行場での怪我ですか? それとも、なにかほかに……?」


 ためらいながら、少女が問うてくる。イゼットは薄暗い天井をあおいだ後、すぐに彼女の方を見た。

 これからしばらく、行動を共にすることになる。それなら、話しておいた方がいいのだろう。そう思っても、心はなかなか定まらない。揺れ動く中で、それでも彼は、おもむろに口を開いた。


「もう、肩は平気だよ。それとはまったく別のこと」

「別……」

「うん。――たまに、痛くなって、痺れて、感覚がなくなるんだ。なぜか右腕から始まる。少しずつ全身に広がることもあるし、ひどいと熱が出る」

「なにか、病気ですか」


 身構える少女に、イゼットは首を振ってみせた。


「わからない」

「わからない?」

「原因も、そもそも病気かどうかもわからない。何人もの優秀な医者に診てもらって、全員に原因不明と言われたよ。最初に診てくれた人が、今でも調べてくれてるけど、成果はあがってない」


 言葉を切ると、気まずい沈黙が広がる。調理の音だけが合間に割り込んできた。イゼットは、なんとか自分を叱咤して、話を続ける。


「実は、最初に診てもらう前に大けがをしてるんだ。その後遺症じゃないかと疑われたけど、どうも違うらしい。ひとつわかっているのは、自分や自分のまわりで激しい感情が生まれたときに、痛みが出るってこと」


「激しい感情……」ルーが、よくわからない、とばかりに顔をしかめる。しかし、渋面は、理解を含んだ驚きに取って代わった。先ほど広場で何が起きたか、それを思い起こしたのだろう。


「すっごく怒ったり、泣いたり、ってことですか」

「それだけじゃない。恐怖、憎しみ、敵意、疑い……すべての、強い感情。時には喜びや高揚感すら毒になるみたいだ」


 調理の音が、少し小さくなる。かたわらに置かれた槍に、イゼットは手を添える。金属の柄は、ひんやりしていた。


「俺、今は人に文字を教えたり、手紙の代筆をしたりしてお金をもらってるんだ。けど、もともとは違った」

「もしかして……」

「この槍を使った仕事をしていた。人を守る仕事だった」


 ルーが、沈痛な面持ちで黙りこむ。察しのいいだと、イゼットはつくづく感心した。


「でも、今はもう、そういう仕事はできない。敵の前に立つと、槍を振るうどころか、立っていることすらできなくなるから。理由は……わかる?」

「敵は、憎しみや、怒りや、戦うっていう気持ちを強く持っている人が、多いですよね……だから、ですよね。だから」


 うわごとのように繰り返すルーに、イゼットは小さくうなずいた。


 そのとき、注文したものが運ばれてくる。焼いた羊肉のサンドイッチと、冷えた果汁をしぼった水だ。食欲をそそる香りが、顔のすぐ下でふうわりと広がる。二人は、どちらからともなく、互いを見つめた。


「とりあえず、食べましょう。ちょっと疲れたので、休憩です」

「……うん」


 少しの間、二人はサンドイッチを食べることに集中した。人のいない食堂なので、食事もいまいちなのかと思ったが、パンも肉も、そこそこに美味だ。懐かしい味がして、イゼットは顔をほころばせる。


「昔食べたさばのサンドイッチを思い出すな。これは羊だけど」

「え、鯖? 鯖なんて食べたことないです」

「そうなの? 機会があったら食べにいこうか」

「いい鯖紹介してください」


 ルーが真顔で言うものだから、イゼットは思わず吹き出した。


 今日もすがすがしい食べっぷりでサンドイッチを平らげた少女は、短い祈りを終えると、目を伏せる。


「……さっきの話、どうにかならないんでしょうか」


 イゼットは言葉に詰まった。けれど、すぐに彼女が何を言いたいのか気づいて、明るい色の瞳を曇らせる。


「原因と治療法は、今も調べてる最中。手を尽くしてはもらってるし、俺もいろいろ尋ね歩きはするんだけど……なかなか進展はないな」

「そうなんですか」


 白い手が皿をどかす。そうしてあいた空間に、ルーは額をつけてうずくまった。土下座しているように見えなくもない。奇妙な格好をされたものだから、イゼットは目をむいた。


「は……ちょっと、ルー?」


 反応は返らない。そのかわり、少女は小さな手で頭を抱え、短い髪をかき混ぜる。


「ボク、今、とっても腹が立っています」

「え?」

「自分にとっても腹が立っています」


 なんと言ってよいのかわからず、沈黙を選ぶ。イゼットは、独特の痛みを訴える右腕を、そっとなだめるように叩いた。ぽっかり空いた胸の隙間が少し埋まったように感じていた。


「ルー」


 ぶ厚い外套の上から、背中を叩く。ルーは少しだけ顔を上げた。イゼットはほほ笑んだ。


「ありがとう」


 黒に限りなく近い茶色の瞳が、見開かれる。戸惑っている少女に若者は、あえてそれ以上の言葉をかけなかった。



 食堂を出てすぐ、二人は宿に戻った。まだ日没の祈りの刻までは時間があるが、これ以上外をぶらぶらする気力がなかった。次の修行場も控えていることだし、ちょっと休もう、という話になった。


 丸まった猫の旗の下を通ろうとしたとき、イゼットの耳が独特な拍子のついた声をとらえる。何事かと思って見ると、宿のすぐ前で、一組の男女が敷布を広げて座っていた。旅人向けの露店を開いたところらしい。色とりどりの服飾品を並べた彼らは、歌うような呼びこみで、行き過ぎる人々の気をひいていた。


「にぎやかですね」


 ルーが、食い入るように露店の方を見ている。あふれ出る好奇心は、ちっともおさえられていなかった。


「ちょうどいい。少しだけ見ていこうか」

「ふぇ? 何がちょうどいいんですか?」

「いや……実は『石と月光の修行場』のときから気になってたんだけど、ルーの石板、帯で腰に巻きつけてあるだけじゃ落ちそうじゃないか。鞄か袋があるといいかなって」


 ルーは、目を瞬く。


「考えてもみませんでした」

「そんなことだろうと思った」

「ボクも困ってはいたんです。何回か落としたことがあって」

「すでにやらかしてた!」

 よく大事な石板が割れなかったものだ。イゼットは頭を抱えた。


 というわけで、露店に寄って、ルーにちょうどよい袋を選んでもらうことにした。その間、イゼットはそばの品物をなんの気なしにながめていた。途中で、ペルグ人らしき売り子の女に声をかけられる。


「あのお嬢さん、あなたのお連れ様?」


 彼女はペルグ語で問うてきた。イゼットもペルグ語で「そうですよ」と答えて、「あの子がどうかしましたか」と繋いだ。


「ひょっとして、西洋人? それとも……ええと、南の人?」


 思わせぶりな表情での問いかけが続く。イゼットは首をかしげたが、ほどなくして言葉の意味を察し――顎に手を当て、しばし考え込んだ。


 ややしてルーが四角い小袋を選んだので、それを買って宿に戻った。露店の喧騒を背に、ルーが軽く首を傾ける。


「イゼットは、いったい何を買ったんですか」

「ん?……ちょっと待ってね」


 ひそり、とそれだけ言うと、イゼットはますます頭の角度を急にするルーを連れ、部屋へ戻った。安堵の息を吐いた後、彼は買ったものをそっと取り出し、隣にいる少女に差し出した。


「これ。今日、いろいろと迷惑かけたお詫びに」


 淡い黄色のマグナエだ。本来男が買うものではないが、ペルグのひとは気にしていなかった。


「――あ」


 ルーは、ぽかんとした後、はにかんで黄色い布を見つめる。


「い、いいんですか」

「うん。というか、むしろ身に着けておいた方がいいかもしれない」


 イゼットが強い口調でつけたした、その意味をわからないルーではなかった。大まじめにうなずいた彼女は、慎重な手つきでマグナエを受け取る。


「わかりました。それじゃあ、ありがたく……女の子と思われたいときにだけ、着けることにします」

「男の子と思われたいときって、あるのか」

「治安の悪い所に行くときとか、誰かと決闘するときとか」

「なるほど……なるほど?」


 間の抜けたやり取りをして、二人は思わず吹き出した。二人だけの空間に、しばし明るい声が響き渡った。


 ひとしきり笑い転げた後、ルーはマグナエを広げて悩んでいた。どうも着け方がわからないらしかった。気づいたイゼットは、「手伝うよ」と笑って、少女の後ろに回る。

 ルーはされるがままになりながらも、む、と唇をとがらせた。


「イゼット……いやに手際がいいですね」


「あっ」若者は、喉が潰れたみたいな声を上げる。一瞬だけ、布をいじくる手が止まった。


「これはその――前の職場でさ、女の人の相手をしてるとき、知らないうちに覚えてたんだ。それだけ」

「ええ……いったい、どんな職場ですか?」

「そ、それは、えっと、秘密」

「気になりますよー」


 ふざけているのか本気なのかわからない会話は、祈りの刻まで続いたという。

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