第12話 大切な痛み

「うわあ! あれ、なんでしょう」

「お土産屋さんか。そういえば、このあたりは陶磁器が有名なんだっけ」


 イゼットが糧食の買い出しを終えたとき、ルーは通りの別の店を見てはしゃいでいた。店の玄関口を青や黄色の糸を使った織物おりもので飾っているから、より目をひきやすいのだろう。よく見ると、品ぞろえも個性的だ。南国風の動物が描かれた皿に、精霊を模したと思しき小さな像、小瓶に入った用途の分からない粉など、いったい誰が買うのかというものばかり。


 ルーも、見ているぶんには楽しくても買う気はなかったようで、ひととおり楽しむとすぐにイゼットのそばへ戻ってきた。


「これで買い出しは終わりでしたっけ」

「うん。意外と早く終わった」


 満足げに呟いた若者は、連れの少女を見やる。ふと、昨日のやり取りを思い出した。

「まだ時間に余裕があるけど、どうしようか? 行きたいところがあれば、寄っていくけど――」


 イゼットの言葉が終わる前に、ルーはうつむいて真剣に考えこむ。彼女の横を何度も人や騾馬が行き過ぎたあと、顔が上がった。


「礼拝堂!」

「礼拝堂?」


 意外な回答に、イゼットは目を丸くする。しかしルーは気にした様子もなく、黒茶の瞳をきらきらさせて、続けた。


「昨日、聞いたんです。広場の礼拝堂は見ておいた方がいいって」

「あー……そういえば、そんなことを言われたような……」


 こみごみした市場バザールでのことである。イゼットはすぐに思いだして、頬をかいた。ルーがなぜか胸を張る。外套で隠れている銀の腕輪が、袖の裏で繊細な音を立てた。


「それに、ボク、聖教の礼拝堂って遠目からしか見たことないんです。間近で見てみたいなあって、ずっと思ってたんです」

「なるほど……それなら、一緒に行こうか」

「はい、ありがとうございます!」


 興味はあったのだろう。それでも今までは、自分の立場に遠慮して、聖教の建物に近づかなかったのだ。イゼットは、ルーの胸中を思ってなんともいえない気分になった。――だからこそ、そのくらいの望みはかなえてあげたい。ルーは一見クルク族だとはわかりにくい風貌であるし、ここにヒルカニア人が一緒なら余計な心配はしなくていいはずだ。


 相も変わらず活気づくイーラムの道を、手を取り合ってゆく。この街の礼拝堂はかなり立派なもののようで、遠目からでもすでに丸い屋根が見えていた。


 半刻も経たないうちに、目的の広場にたどり着く。広場と、そこに直結する通りだけは石畳が敷かれていて、どこか清廉せいれんな空気が漂っていた。道行く人たちの服装も、布一枚の礼拝用の長衣か、祭司が着るような白い衣ばかりになってきた。イゼットは、頬がひきつるのを感じる。からからにかわいた口の中で、唾をのむ。ルーが、強く手をにぎってきた。


 しかし、礼拝堂の前まで来ると、ルーの表情はほころんだ。半円形にふくらんだ屋根がよく目立つ建物を食い入るように見上げはじめた。熱心な少女の姿に、イゼットも笑みを誘われる。


「あんまり見上げると首が疲れちゃうよ」


 小声で茶化してみると、ルーは少し恥ずかしそうにかぶりを振る。ただ、その直後、彼女はふしぎそうに礼拝堂を――そのむこうを見やった。


「イゼット、イゼット」

「ん?」

「この建物のむこうに、全然違う建物が見えます。あれ、炎の精霊のほこらに、ちょっと似てるんですけど……なんでしょう」


 え、と声を上げながら、イゼットは目をこらす。確かに、様式のまったく違う白い建物が小さく見えるが、細かい形まではわからない。それでも、思い当たる節はあった。


「もしかしたら、昔の神殿かも」

「神殿……かみさまにお祈りするところですか」

「そう。『炎の精霊の祠に似てる』のは、火の神様――つまり炎の精霊を主に祭っていたからかもしれない」


 ほえー、と言ったルーは、礼拝堂よりそちらに興味が移ったようで、つま先立ちになっている。


「あんなに大きなまつは、はじめて見ました。街の人たちは、大きい所でお祈りしてたんですかね」


 イゼットは、感激する少女の横顔を思わず見つめた。そんなに嬉しそうにするとは思っていなかったのだ。しかし考えてみれば、彼女は精霊をあがめることがあたりまえの、クルク族の子だ。精霊信仰の建物に惹かれるのは、当然なのかもしれない。


「もう少し近くで見られるといいけど……さすがに、無理か。礼拝堂の敷地内だし」


 まじめに考えこむ若者に、クルク族の少女はあっけらかんとした笑顔を向ける。


「大丈夫ですよ。ここからでもじゅうぶん見えますし」


 気負いのない声に安堵しつつ、イゼットは曖昧な相槌を打った。


 しばらく二人で礼拝堂の周囲を散策した。ルーはちょっとした装飾や柱の形にもいちいち感動して、立ち止まっていた。彼女の目で神殿が見える場所では、背伸びして神殿の方を観察してもいた。道行く祭司たちに見咎められないか、イゼットは気になったが、誰もかれも旅人には目もくれず歩き去っていったので、密かに胸をなでおろす。


 ひととおり見回って、ついでに物陰でひと休みした後、イゼットは広場をながめている少女に声をかける。


「そろそろ、宿に戻ろうか。荷物の整理しないといけないし」

「あ、そうですね」


 何においても俊敏なルーは、まっさきに走りだそうとする。後ろ姿を追おうとしたイゼットはしかし、その場で右腕を押さえた。危うく槍から手を離しそうになり、慌てて左手を添える。


「またか……」


 また、

 炎熱に似た痛みと、感覚を忘れるほどの痺れに、手指が震えた。


「イゼット?」


 勢いよく踏み出していたルーは、連れが追ってこないことに気づいたのか、怪訝そうに振り向いた。

 同じ時、広場の方から荒々しい声が上がる。ルーが弾かれたように広場の方を見る。


「え? な、なんです?」


 困惑のあまり、彼女の声はひっくり返っていた。状況に対する疑問はもちろん、単純にヒルカニア語が聞きとれなかったのかもしれない。ぎりぎり言葉の形で聞こえてきたのは、公共の場所では滅多に使われない悪口雑言だったので。


 広場の中心で二人の男が言い争っている。二人から見て左側には、洗いざらしの麻の服を着た上背うわぜいの男、右側には、祭司見習いと思しき少年がそれぞれ、仁王立ちしていた。


「おまえ、もう一度言ってみろ」


 少年がえる。間髪入れず、男の意地悪そうな返事が聞こえた。


「何度でも言ってやる。お名前ばかりの聖女様に、いちいち敬意を示す必要性はないだろう、ってんだ」

「この罰あたり! それでも聖教徒か!?」

「俺は生まれてから三十と数年、ずっと聖教徒さ。聖女様の存在そのものを否定しようなんてつもりはない。ただ役立たずな今の聖女様が嫌いなだけだ。おまえも、無条件に尻尾振ってないで、冷静に現実を見た方がいい」

「よくもぬけぬけと……祭司様に言って、おまえが二度と礼拝堂に入れないようにしてやろうか」

「できるもんならやってみろよ。ここの祭司も、今の聖女はお嫌いじゃなかったか?」


 口論は見る間に激しくなり、ルーが目を白黒させている間に、つかみあいにまで発展していた。さすがに見かねた通行人や祭司たちが止めに入っている。

 ルーは相変わらずわけがわからないという様子だが、イゼットの方にも説明をしてあげる余裕はなかった。自分自身の異変に耐えるので精いっぱいだった。


 腕に始まった苦痛が、じわり、じわりと全身に広がってゆく。

 あつい。痛い。

 そう感じるたびに、ざわり、とが騒いだ。


 脅しあいと罵りあいは続いている。

 小さな棘が、どこかに刺さった。

 けれど、もう、涙は出ない。

 涙も出ないくらい――こころも、からだも、ただ痛かった。


 誰かがうめいた。それが自分の声だと、イゼットは少し遅れて気がついた。槍を、しがみつくようにして、にぎる。その両手も頼りない。

 ざわざわと、ひときわ大きな騒ぎ声がした。彼はとうとう、その場にうずくまった。


「イゼット!? 大丈夫――」


 温かい音が、遠い。

 息ができない。

 返事をしようと口を開けても、そのための声は出なかった。かわりに苦痛が強まった。


 その瞬間、目の中に、金銀に光るまるいものが現れて、すぐに消えた。

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