第11話 街の色、人の音

「パーデル湾の貝の揚げ物おひとついかがー。アフワーズから仕入れたやつだよ、美味しいよー」

「今日は夕方からクマーン通りで絨毯市やるよー」

「やあ兄さん、焼き肉になっちゃいそうな陽気だね」


 陽光がぎらぎらと降り注ぐ街に、人々の声が飛んでは返る。合間を縫って笛の音がして、歓声がわいた。笑い声がまた音を打ち消して、騾馬やら馬やらの足音が高く響く。


 大通りはさまざまな色に満ちていた。日干し煉瓦と土壁の茶色、空の青。オレンジの橙色に林檎スイーブの赤。マグナエの白地に桜色の花柄が添えられる。あちらこちらで売っている絨毯の糸色はさまざまで、例えるならば虹色か。人々の衣服の色はもちろんのこと、肌や髪も一人ひとり違う。

 物と人があふれ返り、五感を刺激する何もかもが洪水状態。それがイーラムの日常で、けれどそれを知らぬ人は、この洪水に圧倒され、のまれてゆく。


 イーラムに入り、隊商カールヴァーンと別れた後のルーも、のまれそうになっている一人だった。

「うわぁ……」

 と、小さく言ったきり、口を半開きにしてあたりを見ていた。イゼットはさりげなくルーの左手をつかんでおく。ほほ笑ましい姿だが、はぐれても困るのだった。

 人の熱気の隙間から、香辛料と肉の匂いが漂ってくる。イゼットは、自分が少しばかり空腹なことに気づいたが、ひとまず無視した。ルーが落ちついて宿が確保できるまでは、食事はお預けだろう。


「とりあえず、どこかいい宿がないか聞いてみようか」

「イゼットはどこか知らないんですか?」

「俺も、イーラムに来たのはこれが初めてなんだ」

 見上げてきたルーが、目を瞬く。

「初めてだったんですか。それにしては落ちついてますよね」

「王都に比べれば人混みも音も大したことないから。でも、この雰囲気は好きだな」


 好きだけど――苦手だ。口の中で、小さく呟く。


 当然それを知らないルーは、何やらまた目を輝かせていた。肩をすくめつつ視線の行く先を見たイゼットは、次に目を瞬く。


 少女が見入っていたのは、人目を忍び、建物の軒先で談笑する町娘たちだった。二人のところからでは何を話し、どんな表情をしているのかわからないが、和やかな雰囲気ではある。彼女らは全員、マグナエで髪を隠しているのだが、その色や柄は、イゼットが知るものよりもずいぶんと華やかだった。宗教と慣習を越え、このあたりのマグナエは着飾る道具の一つとなっているようだ。


「へえ、これも地域色ってやつかな」

 しみじみと呟いたイゼットは、歩きだそうとして、ルーが固まったままであることに気づく。軽く背中を叩いてみると、「あ、すみません」と言って振り返り、ついてきた。ついてきたが、時折名残惜しそうに振り返っていた。


 ちょうど今は市場バザールが大々的に開かれる時間らしい。店の多い通りに行くと、さらに人通りが増えた。馬を連れているおかげで人に揉まれることはないが、たまにうっとうしそうな視線を投げかけられるのが辛いところだ。早く宿を確保しよう、と二人はうなずきあう。


 彼らの決意とは裏腹に、歩みはなかなか進まない。混んでいるからというのもあるが、歩みが止まる最大の原因は別にあった。一目で旅の者とわかる二人の姿は、商人たちの目につく。そうなると、あちこちから声がかかるのだ。特に、ルーはよい的のようだ。


「よう坊主! 串焼き肉ケバブは食ったことあるか? ひとつ試食させてやるよ」

「坊や、このあたりに来るのは初めて? 外から来たなら、広場の礼拝堂は一回見ておいた方がいいよ」

「何? シャラクに行く? 小僧っ子二人でか。そりゃえらいこっちゃ。……え、ああ、宿? クマーン通りの北に、安くていい所が何軒かあるぞ」


 次から次へ、情報と言葉が飛びこんでくる。しかも、ルーは徹底的に坊やとか坊主とかと言われている。それでも彼女は、律儀なことに、一つひとつの声がけに言葉を返していた。隣を行くイゼットとしては、時々助け舟を出しながら笑って見ているしかない。


 三十回くらい話しかけられてから、ようやく市場バザールの通りを抜ける。少し人のが少なくなると、二人して長く息を吐いた。馬たちも心なしか疲れたふうである。


「すごかったな」

「すごかったですね」

「でも、さりげなく宿の情報もらえたね」

「ですね。忍耐の勝利です」


 ルーが串焼き肉ケバブを持っていない方の拳をにぎる。


「男に間違われまくったかいがありました」


 続いた言葉に、イゼットは胸をつかまれるような感覚をおぼえた。思わずルーの横顔を見やったが、表情はいつもどおり明るい。そこから本心を読みとることは、できない。結局イゼットは、先の言葉について尋ねるのをやめた。


「じゃあ、寝床を探しにいきますか」

「クマーン通りの北、ですね!」


 人々に道を尋ねながら、イゼットたちは情報のあった区画へやってきた。安くて馬をつないでおける宿屋が何軒かあったが、その中で一人分の個室がもっとも安価だった所を選んだ。丸まった猫が刺繍された旗の下をくぐって中に入ると、心地よい冷気が一瞬、肌を撫ぜる。


 眠そうな顔の主人に手続きをしてもらい、馬を預けて部屋に入る。荷をほどいてすぐ、ルーが飛び跳ねるような勢いでイゼットのもとに駆け寄った。


「イゼット! 次の修行場の話をしてもいいですか!」

「あ、そうだね。話をしよう」


 イゼットはあっさりうなずいて、布団がわりの布の上に腰を下ろす。そのすぐ前に、ルーがお行儀よく座った。


「次の修行場の話、っていうけど……どこまでわかってるの?」

「わかってるのは、名前とおおよその位置です」


 それだけなんですけど、と恥ずかしそうにしたルーは、イゼットがうなずくと言葉を続けた。


「『石と月光の修行場』の次は『木々と幻想の修行場』だと、大人たちが言っていました」

「……また、何かありそうな名前だな」


 イゼットは軽く顔をしかめる。『石と月光の修行場』で割と大変な目にあったことを思い出した。ルーも神妙な面持ちだ。


「それでですね。場所はイーラムの西北西、キールスバードという町のそばらしいです」

「キールスバードか。ちょうど、国境に向かう通り道だ」

「本当ですか? それなら、よかったです」


 ルーは心底ほっとした様子で、少し背中を丸める。イゼットはひとり、頭の中に地図を描きながら頭の中であれこれ計算していた。それが済むと、敷布しきふのしわを手で広げてから、ルーを呼んだ。


「この街で消耗品を少し買い足してから、キールスバードに行こうか」

「はい。お金は大丈夫ですか?」

「まだ大丈夫。アハルでだいぶ貯めたから。マークーのあたりでいったん仕事をしたら、より安心だとは思うけど」


 金銭は多いに越したことはないが、野宿して食料は狩りで調達、ということもできる。ルーがいれば食材集めもよりはかどることだろう。今しばらくは、一つの町に長くとどまる必要はなさそうだった。それを聞いて、ルーは「了解です」と元気そうに言う。一方で部屋の中を楽しげに見回している彼女に、イゼットは何気なく問いかけた。


「ルー、ひょっとしてあまり町に入ったことがないの?」


 ルーは少しふしぎそうにした後、一人で納得したふうにうなずいた。


「入ったとしても長居はしませんでした」

「そうなんだ」

「クルク族がひとりで町にいると騒ぎの元になりますからね。大人たちにも注意されたことですし」


 ルーはさっぱりと言う。ただ、声色は少しかたかった。イゼットはこめかみを指でつついて考えこむ。


「ルーは、街で見てみたいところとか、ある? あれば滞在期間を伸ばしてもいいよ」

「へ?」

 ルーの声が、輝いた。しかし彼女は、んー、と呟いた後に、かぶりを振った。


「いや、いいです。修行もあるし、イゼットも急いでると思うので」

「俺のことは気にしなくても――」

「ボクが気になるのです」


 そう言われると、なにも返せない。イゼットは「そっか」と吐息のような声をこぼす。胸中のもやに気づかないふりをして、笑顔をつくる。


「じゃあ、明日、買い出しついでに見て回る感じにしようか。あまり時間は取れないけど」


 彼がそう付け足すと、ルーはきょとんとした後――弾けんばかりの笑顔を見せた。

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