第9話 西の方(かた)へ向けて

 その晩。アハルに一度戻ったイゼットは、自分が泊まっている宿の一室にルーを呼んだ。というのも、ルーが宿すら確保しておらず、これまでは町の中でも外でも野宿をしていた、という事実が判明したからだ。「食料と水が手に入れば、屋根がなくても構わなかった」そうだが、まわりからはさぞかし奇妙に映っていたことだろう。


 その状況を知って放っておけるイゼットではない。どうせすぐにでもアハルを発つ気でいるので、一夜だけルーを同じ部屋に誘うことにしたのだった。


 ちなみに。ルーを部屋に招くべく宿の主人と交渉した際、主人は二人になにかを警戒するような目つきを向けていた。しかし、本人たちはそれに気づかないままであった。


 イゼットが泊まっている部屋は、比較的安い小さな個室だ。個室といっても仕切りは壁でなく衝立ついたてなので、物音は隣室に丸聞こえだったりする。しかし、現在、両隣の部屋はあいているので問題なかった。床一面に敷かれている円形の絨毯が、殺風景な客室に彩りを添えていた。


 日が西の彼方へ没し、夜が天に黒い翼を悠々と広げた頃、イゼットは食料を広げ、チャイを用意していた。対面で姿勢よく座ったルーが、食べ物の一つひとつを食い入るように観察している。平たいパン、干した肉と果物、チーズなどを並べただけだが、クルク族の少女の目には何やら新鮮に映ったようだった。イゼットがチャイの入った器を差し出すと、嬉しそうにお礼を言って、両手で器を受け取った。


「よし。じゃあ、好きに食べていいよ。四か所目の修行場、達成を祝して――というには、質素だけど」

「いえ、とっても嬉しいです!」


 ルーは満面の笑みを咲かせたあと、急に厳粛げんしゅくな表情になる。耳慣れない言葉で何やら唱えだした。クルク族のお祈りのようなものなのだろう。ルーが祈る間、イゼットも親しんだ慣習に沿って、精霊に食前の祈りを捧げていた。


 互いの祈りが終わると、ささやかな祝宴しゅくえんが始まる。過ぎゆく時は清流のように穏やかだ。


 よっぽどお腹がすいていたのか、ルーはしばらく一心不乱に食べ進めていた。そして、チャイを一口飲んで人心地ついたのか、イゼットを見上げる。


「そういえばイゼットさん、怪我、大丈夫ですか?」

「怪我? ああ、肩のことか」


 イゼットは、石の番人の腕がかすった肩を軽く叩く。鈍い痛みは少しあったが、生活に支障が出るほどではない。そして本人は意識すらしていないが、顔の傷はすでに血がかたまって、ができはじめている。


「大丈夫。たいしたことないよ」

「なら、よかったです。危険なことを任せてすみません」

「気にしないで。言い出したのは俺だし」


 恐縮するルーに対し、イゼットは軽く手を振る。それでもまだルーが心細げな表情なので、若者は思いきって話題を変えた。


「それで、ルーはこれからも修行場を巡るんでしょう」

「あ、はい。あと十一か所です」

「途方もないな……」


 イゼットがうめくと、ルーは声を立てて笑う。それから、大きな目を虚空に向けた。


「これからしばらくは、西に向かっていく感じですね。イェルセリア新王国の方まで、ずっと行きます」


 少女の言葉に、イゼットは目をみはる。食事の手もぴたりと止まった。彼の様子に気づいたルーが、首をひねる。


「どうかしましたか?」

「あ、いや。方向が同じなんだな、って思って」


 イゼットは、危うく落とすところだったパンを持ちなおした。ますますふしぎそうにする少女を見すえる。


「ええとね。俺、今、イェルセリアのシャラクに向かってるところなんだ」

「シャラク? って、せいシャラクですか」

「そう。ロクサーナ聖教の総本山。大きな礼拝堂とか、神聖騎士団の本部とかがある街」


 ルーがふんふんうなずいて「確かに方向が一緒です」と呟く。その後、また首をかしげた。


「あそこに外から行くのって、ほとんどが参拝者や巡礼者だって聞きますけど……イゼットさんもそうなんですか?」

「いや。俺は、人に会いにいくんだ」


 口にした瞬間、ちくりと胸が痛む。イゼットは、パンの欠片を口に放って、その痛みから気をそらした。ルーは彼の胸中に気づいた様子がなく、何やら考えこんでいる。


 イゼットがチャイの器を持ったとき、彼女は「あの」と身を乗り出した。


「あの、もしよければなんですけど……聖都に着くまで、一緒に行ってもらうことは、できませんか」


 イゼットは目を見開いた。明るい色の瞳は、決意をたたえた少女の顔を映し出す。彼女は、どこか熱を帯びた声色こわいろで、言葉を紡いだ。


「この先の修行場でも、今回のようなことがあるかもしれない。そう考えたら、一人じゃまずいって思ったんです。色々な知識があって、かつクルク族ボクらに関わってくれる方と、また出会うとは限らないから。だから、イゼットさんが一緒にいてくれたら、ものすごく心強いです。こんなことをお願いするのは、変かもしれない、ですけど……」


 最初は前のめりになっていたルーが、だんだん後ろに下がって、最後にはうつむいた。黒茶の瞳に、隠しきれない迷いがたゆたう。彼女の葛藤を察したイゼットは、ゆえにこそつとめて穏やかに言いきった。


「いいよ。一緒に修行しよう」


 ルーが弾かれたように顔を上げる。短い髪が、わずかに揺れた。


「い、いいんですか? 本当に?」

「もちろん。また古代文字が出てきたら大変でしょう。肉体労働はあまり手伝えないけど、解読や謎解きはいくらでも協力するよ」


 ルーの顔から少しずつ雲がのいて、最後には晴れ渡る。なにかを言おうとして、けれど言えなかったらしい少女は、小さな手で胸を叩いた。


「じゃ、じゃあ! 狩りといくさはボクが頑張ります! どんと任せてください!」

「お、それは嬉しい。クルク族の同行者がいてくれたら、こっちも心強いよ。――決まりだ」


 二人は互いに礼をとり、相手を見る。


「聖都までよろしくお願いします、イゼットさん」

「よろしく、ルー。あと、俺のことはイゼットでいいよ」

「……はい! イゼット!」


 ルーは、顔をくしゃくしゃにして、明るい声で若者の名を呼ぶ。彼はその声に、いつもどおりのあわい笑みでこたえた。


 その日、二人は小さくにぎやかな祝宴を楽しんでから、沈むように眠って一日を締めくくった。


 翌朝は、日が昇るよりかなり前に起き出して、空気が温まらぬうちに出立の準備を整える。とはいえ荷物は少ないので、準備もすぐに終わった。石板と短剣を慎重に隠すルーを見ながら、イゼットは「かばんか袋を買った方がいいかな」などと考えていた。


 二人が宿を出たとき、そこへ町の人々がやってくる。イゼットが文字を教えていた子どもの親が何人かと、おととい食堂にいた工房の若者、それから町の隅っこで馬の世話をしている老人が一人。


 ふだんなら町の人が起き出すくらいの時間である。当然驚くイゼットに、老人がさらに驚くことを言い出した。馬を二頭、譲ってくれるというのだ。


「い、いいんですか!?」


 驚きひっくり返った、イゼットとルーの声が重なる。当然だ。馬は彼らにとっては、高い金を支払って買うものである。加えて、ルーにいたっては、自分が馬で移動するという発想すらなかった。


 老人は、口をあんぐりと開ける若者たちを見て、豊かなひげを揺らして笑った。


「イゼットは、だいぶ長いこと、子どもたちの面倒を見てくれたじゃろう。そのお礼と思っておくれ。嬢ちゃんにも、おとといの件で、迷惑をかけたことだしの」

「い、いえ、でも……」

「年長者の厚意は、すなおに受け取っておくものじゃ」


 優しくほほ笑みながら、老人はぴしゃりと言う。イゼットとルーは戸惑ったが、結局「厚意」に甘えることにした。立派な馬を譲り受けた二人は、アハルの人々に別れを告げて、西方へと足を向ける。


「ルー、乗馬の経験ある?」

「数年前に一回だけ」

「うーん。じゃあ、まずは馬に乗る訓練からだ」

「がってんです! 頑張ります!」


 こうして、のちに伝説として語られる二人の旅路ものがたりは、緩やかに動きはじめた。

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