【琥珀糖の日2023】パラダイスロスト

 人の記憶を食べてみないか。

 悪魔めいた囁きは夕暮れ。チェーン店で啜る珈琲がぬるくなってきた頃合いだった。

 Aが八重歯を見せて笑うときは大抵ろくなことが起きない。よくよく知っているはずなのに未だに縁を切れずにいる理由を、原稿用紙が何枚あっても説明できる気がしなかった。厄介者、疫病神、好奇心が殺し切れなかった猫。不名誉な陰口をいくら叩かれようとAは気にする素振りも見せなかったし、いつだって俺を気まぐれに振り回す。

 この近くに工房があるんだ。見かけは洒落た喫茶店なんだけどね。

 興味あるだろ? と疑問形の断定口調で言われても、もはや腹が立たない。毛ほども興味がないと抵抗したところで無理やり連れていかれるのは目に見えている。店の場所を問い質すと、にんまり笑ってカップを取った。ハニーカフェオレがたちまち飲み干される。

 行こう。ほんの十分ってところだよ。

 こっちはまだ飲み切っていないのにさっさと立ち上がる。そして当然のように自分の使った食器を置いていく。本当にこいつは、十分どころか三分も隣にいれば友達がいない理由を痛感できる。

 そして、その隣から離れられない自分の愚かさも。

 黒い苦い液体を喉の奥に放り込み、両手にカップを持って立ち上がる。Aは既に店の外にいて、返却台に向かう俺をにかにか笑って見ている。そこになんの疑いも、そして悪意も見て取れなかった。

 人の記憶というのは、甘いのだろうか。甘党のAのことだから。

 そんな考えがもはや甘やかしであるとうっすら気づいているから、舌に残る後味が苦い。顔をしかめて通る自動ドアがやたらと大きな音を立てて、なんだか馬鹿にされているような気がした。

 夕陽を追うように住宅街を西へ進む。こういう場所の常として歩道が狭く、並んで歩くことは早々に諦めた。ぴょこぴょこ揺れるAのポニーテールを眺めながら進む。

 記憶にも鮮度があってね。だけど、単に最近のものであれば良いというわけでもないんだ。

 振り向きもせずAは言う。やたら声が大きいせいで、すれ違う小学生が遠目にこちらを見ながら大きく迂回していく。

 何度も何度も繰り返し、思い出すこと。記憶の鮮度を保つ方法はそれだけなんだ。新鮮でありながら熟成されていく。面白いだろう?

 Aの言うことは大抵妄想か(伝統芸能でないほうの)狂言だと認識される。最初は耳を傾けて面白がる連中もいたが、次第におざなりな苦笑を残して遠ざかっていった。俺だって別に信じてはいない。ただ疑うこともしない。否定も肯定もせず、ただ聴いて、問う。記憶は想起するたび美化されるものだがそれは問題にならないのか。四歩先を行く背中が揺れた。笑っているらしい。

 美化して何が悪いのさ。人の頭のなかは治外法権なんだよ。どれだけ美しくなろうが醜くなろうが誰も咎めない。なら、楽しく美しいほうが良いに決まってる。

 こいつの倫理観にはもはや期待していない。お前は頭のなかどころか存在が治外法権だろと指摘しても、やはり愉快そうにしているだけだ。

 俺のどんな言葉も、Aの心には響かない。

 さあ着いたよ。

 出し抜けに立ち止まったせいで見事Aの背中にぶつかる。ついでに膝蹴りを軽く入れてやった。

 痛いなあ。人は暴力を振るうために生まれてきたんじゃないんだよ。

 すぐこのようなでかい主語を使うところが憎たらしい。じゃあなんのために生まれてきたんだと言い返せば、遠慮なしに袖を引かれた。ぐるりと視界が巡る。

 記憶を食べるためさ。

 向き直ったビルの一階。半地下になった入り口に、その店はあった。

 空間はふたつに分かれているらしい。左手側にはミントグリーンの扉のある入り口、右手側は植木でさりげなく目隠しされているが、辛うじて椅子と机が並んでいるのが見えた。喫茶店と言っていたのは確かだったようだ。

 しかし、人の記憶を加工するような怪しい場所には到底見えない。

 もう少し観察してみたかったが、Aがさっさと扉に手をかけるので断念した。これ以上じろじろ覗いていても不審者扱いされるだけだろう。ため息をついて後を追う。

 こんにちはー。

 驚愕した。

 Aがまともに人に挨拶をするのを見た記憶がない。少なくとも、ここ数年は。

 固まる俺をよそに、白いカーテンの向こうから女性が現れた。

 いらっしゃいませ、お待ちしてましたよ。

 親し気な口調からして、Aとも知り合いらしい。俺に対してもにっこりと笑いかけてくれる。

 人の記憶を食べ物に加工するなどという怪しい事業を営んでいる人物、と言われても納得するのは難しい。ますます不可解だった。

 あれ、できてますか?

 はい。今お持ちしますね。

 あれ、だけで話が通じたらしい。女性は頷いて、再びカーテンの向こうへ消える。どうもそこは厨房のようだ。ひらりと揺れた布越しに調理器具が見えた。

 前からお願いしていたんだよ。特注品なんだ。

 自慢げなAを改めて問い詰める。やばいものじゃないんだろうな。たとえば、持ってるだけで警察に捕まるような。

 これで捕まるようなら、地球上の建物は全部刑務所になるよ。

 なんだその地獄絵図は。ともかく、違法性のあるものではないらしい。犯してしまった罪は罪としてきちんと償うつもりでいるけれど、こいつに巻き込まれる形で、というのは死んでもごめんだ。

 お待たせしました。

 再び現れた女性は、白い紙袋を手にしていた。受け取ったAはちらりと中身を確認して満足げに頷く。

 ありがとうございました。

 それだけ言って、何事もなかったように踵を返す。慌てて引き留めようとしたが遅かった。ひらりと軽い足取りで、Aは扉の向こうへ消えた。

 残された気まずさに、女性へ頭を下げた。すみません。普段からあんな感じなんです、あいつ。しかし女性は気にした風もなく、穏やかに笑う。

 無事お渡しできて良かったです。とても心配していらしたので。

 心配? Aが?

 何か月も前から、たくさんお話ししながら作らせていただきました。大事な贈り物だそうですよ。

 今日は絶句してばかりだ。

 あの傍若無人で、自分勝手で、他人のことなんて何ひとつ省みないAが、贈り物?

 冗談としか思えなかった。

 何してんの。早く行くよ。

 ドアベルが乱暴に鳴る。この態度はいつものAだ。それは間違いない。

 手元のプレゼントさえ目に入らなければ。

 またお越しください。

 女性にも笑って送り出され、俺は疑問符をポケットからぼろぼろこぼしながら扉をくぐったのだった。

 はい。

 私鉄のホームで、差し出された紙袋を俺はしげしげと眺める。贈る相手を間違えていないか角が立たないように尋ねる言葉を探しているあいだに、電車が滑り込んだ。

 持ってってよ。きみのために作ったんだから。

 その言葉で、とっさに手が動いた。見た目以上に重さのある白い袋をそっと捧げ持つ。

 味わって食べな。それきりだからね。

 笑う顔はなぜか清々しい。その理由を尋ねる暇を、特急列車は与えてくれなかった。


 硝子壜が二本。そのどちらにも、色鮮やかな欠片がぎっしり詰まっている。

 深夜の自室、机に並べた贈り物を眺めてまもなく一時間が経つ。

 人を振り回して止まないAと、Aが用意したというこの菓子がどうしても結びつかない。

 ラベルによれば、琥珀糖、と言うらしい。

 原料は砂糖と寒天。例の店は、フルーツピュレやリキュールを使って色と味のバリエーションを増やしているそうだ。ならば不味いということはないと判断し、意を決して蓋を開く。

 立ちのぼる甘い匂い。磨り硝子のようにうっすら透ける。よく見れば、スパンコールのような細かな混ぜ物を含んだものもある。

 真っ青なひと粒を口に入れた。

 噛み締めると儚く砕け、弾ける炭酸の味が――

 夏のことだった。

 プールからの帰り道、独りぼっちの背中にラムネの壜を押し付ける。上擦った悲鳴がおかしくてげらげら笑うと、むくれた顔で壜を奪い取って一気に半分ほど飲み干す。げふう、と派手に吐いた息で顔を見合わせ、今度は揃って笑い転げた。陽射しが眩しかった。見上げた空が、真っ青だった。

 嚙み砕いた琥珀糖を、生唾と一緒にごくりと飲み込む。

 幻覚と言われたほうがまだ信じられる。

 今度は真っ赤なひと粒をつまんで、勢い余って口に含んだ指ごと噛んでしまう。

 甘さと血の味が混じり合う――

 冬のことだった。

 校庭の隅で、汚れた体育着を拾う。教科書の破れたページを丁寧にかき集める。前日から降り続いた雪が積もり、掘り返す手の関節はひび割れている。その手は昨日、沈んだ上履きを助け出すために凍った中庭の池を割っていた。薄い氷は容赦なく指を切り裂いて、頬に貼られたのと同じ色の絆創膏がそこに巻かれた。熱い缶珈琲を渡したきり何も言えなかった。啜ったひと口が苦しいくらいに甘かった。滲む血が、真っ赤だった。

 向日葵の迷路の黄。雨上がりの街路樹の緑。帰り道を覆った夕暮れの紫。道に迷い途方に暮れて見ていた海の紺。

 どれを食べても、Aと俺は隣にいた。

 ――それきりだからね。

 壜にはまだまだ、たくさんの欠片が残っている。

 手離した記憶の数だけ。

 美化し過ぎだ、馬鹿野郎。

 繰り返し繰り返し思い出したせいでひどく美しくなってしまった記憶を、あいつはいとも簡単に手離した。何か月ものあいだ、あの店でひとつひとつを語って聞かせながら。

 他人から見れば他愛もない日常を。思い出にすら至らない些細な出来事を。

 抱きしめてきた記憶を、残らず砂糖菓子に変えて、こんな小さな壜に詰めて。

 ただそばにいただけの、俺のために。

 ――きみのために作ったんだから。

 いつものように電車の窓越しに笑って、さよならも言わないで。


 嗚咽を漏らしても、枕に拳を叩きつけても、携帯電話を掴んでも、もう遅い。

 

 あの店にもう一度出向く気になったのは、数週間が経ってからだった。

 同じ夕方、出迎えてくれた同じ女性にAがいなくなったことを短く告げる。

 どなたにお渡しするのかは、最後まで教えていただけなかったんです。

 あなただったのですね、と静かな表情で女性は言い添えた。

 なぜ止めなかったのかと責める気持ちがないわけではない。あの琥珀糖さえ作らなければ、何も失われなかったはずだ。

 それでも。

 空になった壜は二本、今も机のうえに並んでいる。

 どうしても、その方に渡したいとおっしゃっていました。自分はそれしか残せないから、と。

 どこまでも気障で鬱陶しくて、独りよがりなやつだった。それしか残せない? 笑わせるな。

 俺の記憶にだって、いつもお前がいたというのに。

 振り回され迷惑をかけられ、腹立たしくて、それなりに楽しい毎日だった。いつまでも続くと思っていた。

 こんなに儚く、甘く、解けるように失われるなんて。

 罵倒も泣き言も飲み込んで、また来てもいいですか、と尋ねる。

 はい。いつでもお待ちしております。

 微笑みに小さくドアベルを鳴らして応え、店を出る。青い夕闇をふらふら駅へ向かいながら考える。俺の記憶を琥珀糖にしたら、どんな色になるだろう。どんな味がするだろう。

 この先に待つ長い一人の時間は、それを考えることに当てようと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シャララ舎にまつわる一空想 此瀬 朔真 @konosesakuma

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ