【琥珀糖の日2021】蛍石一夜
夜更けは人を子供に変え、夜明けは人を大人にする。
そのあわいをゆく友へ贈る。
夢の場面が起から承へ至り、やっと枕も頭に馴染み、睡魔との蜜月を満喫すべくいま一度深く閉じた目を、無粋な電子音がこじ開ける。
初手は無視、しかし先方の追及は鋭く、二度三度とチャイムは繰り返しついに毛布を蹴ることとなった。不明瞭な視界に廊下は果てしなく長く映るが、果たして玄関ドアを開けたところに立っていたのはいつもこの界隈を持ち場としているらしい、勝手な感想としては足の随分と速そうな顔馴染みの配達員だった。
苦悶する蚯蚓の這いずった跡よりさらに惨い署名と引き換えに受け取ったのは薄い段ボールの箱、見た目に反してずしりと重い。どうにかそれを抱えて自室へ這い戻り、カーテンの隙間から漏れる光を頼りにスマートフォンを手探れば、液晶画面に映る時刻は午前十時。
箱の表面に目を凝らし、そこにでかでかと書かれた午前指定の文字を見ても憤慨する気力は湧かず、そのまま寝台へ倒れ込む。臍を曲げた睡魔の強引さは大したもので、一時停止の機能を持たないためにその続きを見られなかった夢を惜しむ間もなく意識は泥濘に引きずり込まれていく。
眠りは波のように深浅を繰り返すという。無意識の大海に揺られながら快晴の土曜日を浪費し、夢とも記憶ともつかない断片化した映像をいくつも拾い集めて辿り着いたのは午後六時。剥がれ落ちた疲れをシーツに残し、窓を開くと今日の勤めを終えた太陽が西の稜線へ今にも沈んでいこうとしている。重たい体を揺らして通り過ぎるバスの窓に百貨店の紙袋のロゴが覗く。出汁と醤油と味醂の煮込まれる香りが漂う。
怠惰と寝汗の滲むTシャツが風にはためいて、ここは紛うことなき夕時だった。
深呼吸をふたつ、大きく伸びをひとつ、あくびをひとつして浴室へ入る。輪郭のぼやけた頭を熱い湯と気に入りのシャンプーで洗い上げ、新しい服に着替えた。冷たい水をグラスに一杯飲み干しタオルで髪をかき回しながら部屋を見渡すと先ほどの荷物が目に入る。ベッドに置いたまま眠ったのに奇跡的に落下せず、今は枕と角を寄せ合う形で安置されていた。
白地に黄色い縁取り、大手宅配業者の手になる箱の縁をミシン目に沿ってべりべりと剥がす。ぎっしり詰まった緩衝材を取り除くと白い筒が一本。そして箱の底、パンドラの伝説に言うところの希望にあたる一枚の封筒が入っていた。宛名はない。開ければわかると言わんばかりの薄青い封筒を開くと、真っ白な便箋にブルーブラックの見事な筆跡でたった三行、書かれていた。
「馬鹿野郎」
署名のない便箋を脇にやり、改めて箱の送り状を確認した私は、憎まれ口代わりに悪態をつく。
切っても切れない腐れ縁にして、現在行方不明である男の名がそこにあった。
テレビを眺め、メールを返し、締め切りまでもう間もないのに空白の目立つ原稿をひたすらに埋めて合間に適当な食事を摂る。自宅に籠もってばかりだから大して腹は減らない。キーボードを叩いては呻く。叩いては唸る。また叩いてはここまで書いた部分をごっそり消す。嫌になってパソコンの電源を落とす。何かひらめいてまた電源を入れる。またキーボードを叩いては、ため息をつく。
テキストを三重にバックアップし、二度放置した包みにいい加減手を伸ばす。
白い筒と見えたのは、高さ十センチあまりのガラス壜だった。中身はカラフルな正八面体、半透明と淡い黄色と紫。イリノイと記したラベルが貼ってある。
イリノイはアメリカの州名だが、なんの関連があるのかはわからない。同じく傍らに放り出していた便箋をもう一度開く。
うつくしき
短い手紙はそう締め括られている。明確に食べろと書いてあるし、壜と箱のラベルもそれを裏切らないような内容だった。
優雅な玉部をふたつ、そして結晶を連想させる糖の字を冠する菓子。
綺麗で奇妙な贈り物を眺めつつ、夜の十時を迎える。
蛍石、英語名フローライト。鉱物の一種。劈開という性質により、正八面体に割れる。アメリカイリノイ州は産出地として有名。
琥珀糖。寒天を煮溶かし、砂糖と色素で味付け、着色を施した和菓子。
検索エンジンはそのように概要を伝える。
日付変更までもう間もない。少しだけ迷って、壜を取り上げる。羽織ったパーカーのポケットに放り込んで、家を出た。
夜通し車で走る癖を、いつ身に着けたかもう覚えていない。
多分、本当は夜が苦手なのだと思う。なんというか神経が過敏になる。本来なら取るに足らないことでひどく傷ついたり、思い出したくない記憶がいくつも浮かんできて頭を掻きむしってしまう。そんな状態で眠れるわけもなく、とにかく外へ出る必要があった。外へ出て、近所のコンビニではなく、もっと遠くへ行く必要が。
適当なところまで走り、珈琲の一杯でもしたためて、気が済んだら帰る。それだけを毎晩繰り返している。意味のない行為と言われれば、確かにそうだ。時間と金の浪費と指摘されても頷くしかない。
私のやることなど大体がそのようなものだと、放り出してきた原稿を思い返す。
誰にも書けと命じられていない。
だから書けないと言って責められはしないが、書いたと言って褒められることもない。何かしらの反応があることは前提にならない。使命感や責任感や達成感といった感情に関しては全部が自給自足だ。自己満足のループのなかで完結している。
そのためなぜ書くのかとしばしば訊かれる。その質問にはもちろん伏せられた冒頭があって、多少バリエーションはあるものの大抵は「意味がないのに」といった文句に集約される。稀に出くわす冒頭を伏せない輩は相当な悪意があるか純粋な疑問を持つかで、もちろん面倒だから毎回どちらかなんて判断はしない。
等間隔の照明灯、追い越していったミニバンのテールランプ、照らされて浮かび上がる案内標識。
アクセルをほんの少し、踏み込む。
金にならないことを、意味のないことを、してはいけないのだろうか。
長いカーブの外へ引き寄せられる。傷んだアスファルトに揺さぶられる。
ハンドルを握り締める。後続のいない道路を、ひた走る。
なめらかな道をまっすぐに、最短距離で、燃費良く、目的地へ辿り着く。そんな生きかたにしか価値はないのか。
――そうかもしんないね
耳に馴染んだ呑気な声に、はっとする。
標識にはティーカップ、残り五百メートル。踏んだきりのアクセルを少しずつ弱めていく。ブレーキを使う必要はない。そのまま、ゆっくり減速する。
頑なに運転免許を持とうとしなかったあの男を、一度だけ助手席に乗せて夜じゅう走ったことがあった。憎たらしいほど長い足のためにいっぱいに座席を下げて、愉快そうに車窓を眺めながら、ちょうど今のように眉間に皺を寄せる私に話しかけた。
あれは確か、夜明け間近のこと。
――でもお前は、書くのも走るのもやめられないだろ。それが必要なんだから、変わるなんて無理だ。無理って言うとお前は怒るだろうけど
横目で睨んでも、滑り込んだパーキングエリアでしらじらと光る自販機のように涼しく笑って取り合おうとしなかった。
――変えられないものをどうにかするより、そのまま生きてく方法を考えたほうが、少しは楽になれるんじゃないの
エンジンを切った車内に急に静けさが満ちて、その重さでハンドルに顔を伏せる。ぐっと顎に力がこもり、背中を丸める。
――俺は、自分の生きかたを探すことには価値があると思う。それに
しゃらん、と足元に何かが落ちる。
澄んだ音に呼ばれた気がして、のろのろと腕を伸ばす。片手に収まる冷たさ。指先に当たるラベルの縁の感触。
蛍石の小瓶【イリノイ】。
栓を引き抜き、中身を少しだけ手のひらにあけた。白み始めた空にかざして磨りガラスのような表面を眺める。
時刻はまもなく、午前五時。夜は終わり、明けて、朝になる。
食い縛った奥歯を緩め、噛み締めた唇を解く。舌のうえでさくりとほどけた鉱石の、薬草と花とリキュールの甘さが清々しく、香り高い。
――自分の生きかたを自分で探す人を、大人と呼ぶんじゃないのかな
早朝のパーキングエリアで、琥珀糖を次々口に含むなんてまったく意味のない行為だ。さっさと帰って眠って、もっと栄養のあるものを食べて、日の出ているうちに起き出して、何か有益なことをしたほうがいいに決まっている。
だけど、この時間が私には必要だ。やめることも、変えることもできない。
私には、かけがえのないものだから。
最後の欠片を飲み込む。空になった壜を包むように握って、スマートフォンを取り出した。もうきっと、忘れたくても一生忘れられない番号を叩く。
呼び出し音が二度、三度、四度鳴って、途切れた。
「おはよう」
「今、どこにいる?」
「迎えに行くよ」
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