鉱石たちの夜

 バックスペースキーを叩くのにも飽きて、新しいテキストファイルを開いた。

 深まっていく夜は私に力を貸してくれるでもなく、三センチほど開いたままのカーテンの隙間からただこちらを見ている。その黒色があまりにみずみずしくて、原稿なんて放り出して散歩に行きたくなる。

 ため息をひとつ。ジーンズに足を突っ込む代わりに、テキストエディタをウェブブラウザに切り替えた。Twitter のページを表示して、マウスホイールをがりがり回しながらタイムラインを遡る。寿司が食べたいとかにゃーんとか、この時間になると人間はそんなことしか言えなくなるらしい。

 すっかり冷めたお茶を啜る。ピントを限りなく遠くに合わせたまま、流れる画面を見ていた目が三つの単語に反応した。

 シャララ舎。

 時計荘。

 個展。

 まばたきをひとつ。焦点を目の前の画面に引き戻す。

 鉱石オブジェ作家の時計荘といえば、界隈では有名過ぎるほど有名だ。私の部屋にもいくつかコレクションがある。ガラス壜や古いアクセサリーボックスに封じ込められた、鉱石のある風景。物語の湧く泉からそのまますくって来たような一瞬の永遠。寄り添う人形たちには一様に顔がなく、百の言葉より雄弁な沈黙は見る者に一切の雑音を許さない。

 その作品たちは日頃からシャララ舎に展示されているが、個展となれば数はその比ではないだろう。店じゅうに並べられたジオラマ、珈琲の立てる湯気、半地下の喫茶室に射し込む光、誰かの口に運ばれた琥珀糖が崩れるかすかな音。

 

 ノートパソコンとふたつの目のあいだの空間に、ふわふわとイメージが立ちのぼる。ここにないものが現れる。記憶と空想のカクテルが不可視のグラスに注がれる。私はそれを飲み、ほうっと深く息をつく。そしてしばし、酔って、夢を見る。


 真綿のしじま。

 柔らかいけれど、鼓動すら飲み込まれるような圧迫感を覚える。詰まりそうな胸で震える息を吸えば、薄闇に浮かび上がる景色に見覚えがあることに気づく。決して来客同士の目が合わないように配置された机。整然と並ぶ古い本。蔦の絡まる目隠し。かすかに艶をまとい始めた床。柱に掛けられたランプ。

 静寂のシェルター。サンクチュアリの森。都市の中庭。ここは、シャララ舎の喫茶室だ。

 知っている場所だとほっとしたのは、けれど束の間だった。

 わずかな灯りのなかに目を凝らす。見知った場所に渦巻く違和感。何かが違う。何が違う? 私はいっそう目を開き、耳を澄ます。感覚を晒してしまうことがどんなに危ういか気づきもせずに。

 そして、このやさしく絡みつくような静けさの正体に気づいたとき、ついに胸の奥が軋んだ。

 埋め尽くされる空白。執拗なほどの密集。あらゆる隙間に詰め込まれた「それ」の、なめらかな曲面が影のなかでぼんやり光る。

 机のうえに、戸棚のなかに、入りきらないものは床にまで、大小を問わず並んだ無数のガラス壜。そこに閉じ込められた鉱石たちが、ひっそりと息づく。

 見下ろした足元の、今にも爪先に触れそうな近さで、水晶がまばたきのように光る。

 喫茶室は、ジオラマの巣になっていた。

 喉が引き攣る。心臓が暴れる。耳の奥が痺れ始める。身体のどこか、深いところに暗い渦が生まれる。意識ごとそこに引きずり込まれそうになって足がふらつく。頬を伝う汗の冷たさに皮膚が粟立った。

 溺れてしまう、と頭のなかで誰かが言う。

 早くここから逃げなければ、溺れてしまう。飲み込まれて、溶けて、消えてなくなってしまう。

 そうわかっているのに、足は床に貼り付いたまま動かない。それどころか気を緩めればたちまち膝から崩れ落ちてしまいそうだ。

 死んで冷え切った空気が、鉱石たちがとよもす沈黙が、顔のない人形たちの、あるはずのない視線が、身体じゅうに絡みついていく。姿の見えない誰かに背後から抱き竦められる。首筋に触れるぬるい吐息の、髪を揺らし皮膚に沁み込む様さえありありと想像できる。

 助けを求めて、縋るものを探して、唯一自由な目だけを彷徨わせる。天井も床もジオラマで埋め尽くされた部屋のなかを視線で辿っていく。逃げ出す隙間が、抜け出す空隙がどこかにあるはずだと、悲鳴のように信じながら。

 もちろん、鉱石たちがそれを無視するはずはなかった。

 最初に「目が合った」のは、透けるほどに青い石。首を傾げるように、頬を緩めるように煌めいてみせる。表情どころか人の形すら持たない鉱石が、たしかに私に向けて、笑った。

 ぐらりと、視界が傾く。

 呼んでいる。呼ばれている。こちらへおいでと手招きしている。あなたの欲しいものはここにあると囁いている。探してごらん、見つけてごらんと。

 強張っていた体が嘘のように動いた。熱に浮かされた手を伸ばして、凍える壜に触れる。指先の痺れがさざ波になって全身を巡り、心の奥深くを鎖していた錠が音もなく外れた。

 さながら夢遊病、あるいは狂人。鉱石たちの誘いのままに部屋を徘徊する。既に恐怖は感じなかった。深い恍惚が逃げろと叫ぶ声を消し去っていく。紫水晶、雲母、琥珀、蛍石、方解石、魚眼石、柘榴石、煙水晶、黄鉄鉱、玉髄――ひとつとして同じ色のない、無二の輝きがさらに深い陶酔へ導く。

 どれも惑うほどに美しい。けれど、どれも違う。これでもない、あれでもない。私の、私だけのジオラマは。薄暗く閉ざされた、冷たい香りの立ち込めるこの部屋にあるはずの、私のためだけの物語は、いったいどこに。

 焦燥のあまりに喘ぐ。熱の塊になった身体を強く抱く。食い込む指の痛みさえいまや甘美な檻だった。もうジオラマを見つけたいのか、見つけたくないのかすらわからなかった。身体も魂も朽ちてしまうまで、私のすべてを鉱石たちに食い尽くされるまで、永遠にここで溺れていたかった。

 耳元の空気が小さく震える。忍び笑いが聞こえる。

 見つけてごらん、

 見つけてごらん……


 見えたのは白。

 丸いLEDライトから下がる紐はそよとも動かない。

 じんわり濡れた背中を引き剥がす。緩慢に起き上がり見渡せば、いつも通り床に積まれた本とベース、

 何も変わらない、いつも通りの自室だった。

 開いたままのノートパソコンは静かに画面を暗転させている。いつの間にか、机を離れてベッドに潜り込んでしまっていたらしい。

 私は古典的な方法で、目の前の景色が現実であることを確かめる。つまりそれは自分の頬に平手で打撃を加えるというものなのだが、あまりに動揺していたせいか力加減を間違えた。目の前に星が散り、私は呻きながら再びベッドに倒れ込む。

 痛む頬を押さえて、再び白い天井を見上げる。

 久しぶりの、混じりけ無しの悪夢だった。

 締め切りが近いから時計荘さんの個展に行けないなあ、シャララ舎さんにもまた足を運びたいなあ、と思ったのは事実だ。けれど、それが無意識にまで作用するとはさすがに予想していなかった。百歩譲って夢のなかで個展に行くのはいいだろう、だからってあんな……

 痛んでいないほうの頬まで熱くなってきて、ぶんぶん頭を振った。汗に濡れた髪をかき回し、ついでに顔を覆って大きく息を吐く。

 思い返すだけで頭のなかがざわついてくる。とても人には言えない、あまりに生々しい夢。どうしてあんなものを見たのだろう。静かな喫茶室も、美しい鉱石ジオラマも、どちらも大切で大好きなのに、どうしてあんなに――

 怖くて、夢を。

 ため息をもうひとつ。深呼吸をふたつ。

 とにかく、帰ってこられてよかった。しかも手ぶらで。あの部屋にあったジオラマを現実に持って帰ってきてしまおうものなら、それこそ何が起こるかわからない。私という自意識を介している以上、夢と現実の境界はどこまでも薄くなる。

 自意識。

 多分、逃げろと叫んだのはその声なのだと思う。それはさながら、私という存在の輪郭を常に周囲から切り出すナイフだ。世界に対し目を開けと、耳を澄ませと常に要求する観察者。溶け合うことを拒否し、独立であろうとするベクトル。

 そいつが、あの夢を許すはずがない。

 所詮は夢だと、そいつは言う。ただのイメージであり、妄想。動揺する暇があるなら、その想像力でもって原稿に臨め。締め切りになど追われるからそのストレスでろくでもない夢を見るのだ。

 相変わらずの冷たい物言いに呆れながらも、私はそれに是と答える。たしかにそうだ、おっしゃる通り。あれはただの夢。現実問題として、私に何かができるわけではない。ただの夢。ただの、夢だ。

 そう自分に言い聞かせ、まだ肩のあたりにまとわりつく夢の残滓を振り払うために、そいつに倣って唱える。

「悪夢にしちゃあ、なかなか甘いじゃん」

 嘲りの文法で呟いたはずなのに、私の声はひどく震えていた。

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