シャララ舎にまつわる一空想
此瀬 朔真
薬舗の思い出
八面体劈開蛍石【イリノイ産風】。先日東京に出かけたときに買い求めた。
もちろん、本物の鉱石としての蛍石ではない。ガラスの小壜に詰められたきらきらたちは、鉱石を象って作られた琥珀糖だ。
ラベルを見ると、「ベルガモットとスミレとガリアーノ キリシュワッサーの琥珀糖」とある。
ベルガモットは紅茶にも使う柑橘、スミレはお馴染みの、あの可憐な紫の花。キリシュワッサーはさくらんぼから作った蒸留酒。そこまでは知っているけれど、「ガリアーノ」とはなんだろう。がりあーの、という音の響きはとても好みだけれど。
調べてみたところ、これはイタリア産のリキュールらしい。各種スパイスを浸した蒸留酒をブレンドしたものだそうだ。スパイスのなかには、ジンに使われるジュニパーベリーも含まれている。
このような材料を使った琥珀糖は、はっきり言ってやや癖のある味をしている。広く馴染みのある、甘いフルーツやラムネやミントといったフレーバーに比べて、おそらく好き嫌いが分かれるだろう。
抑えた色味をまとう、香り高い琥珀糖。ただ甘いだけではないこれは、お菓子というよりは、薬に近い。
ノートパソコンとふたつの目のあいだの空間に、ふわふわとイメージが立ちのぼる。ここにないものが現れる。記憶と空想のカクテルが不可視のグラスに注がれる。私はそれを飲み、ほうっと深く息をつく。そしてしばし、酔って、夢を見る。
京王線の駅から続く、住宅街を貫く通りはそれなりに人通りがある。日没までもうまもなくの、長い影を引きずって私は歩く。ときどき大型トラックが重そうに体を揺らして通り過ぎていく。人の生活の匂いがする道。けれどミントグリーンの扉をくぐった途端、そのざわめきはすっと遠のく。ガラスの向こうには確かに先ほどまで見ていた景色があるのに、やわらかい結界のなかにいるみたいに。
カウンターの向こうには、穏やかな笑みを浮かべた女性が一人立っている。私は彼女に一礼し、ぽつぽつと話し始める。
眠れないこと、ずっと体が重いこと、朝の光が憂鬱なこと。大好きな小説を読んでも、美しい絵を見ても、心がちっとも踊らないこと。誰にも会いたくなくて、けれど一人きりにも耐えられなくて、どうしようもなくてここへ来たこと。
女性はやわらかく頷き、カウンターから出てくる。壁に設えた陳列棚から、小さな壜を取り上げる。
――では、こちらをどうぞ
壜のなかには、濃淡の違う紫と蜂蜜色、それから乳白色の結晶が詰められている。他の結晶たちよりもずっと控えめな色合い。深く、静謐で、まるでこの「薬舗」に満ちる空気のようだった。
私は小壜を買い求め、隣の喫茶室を指差す。
――珈琲をいただいても、いいですか
――ええ、もちろんです
手渡されたメニューを開くと、結わえた鈴が、ちりん、と呟いた。
喫茶室は多くの言葉を必要としない。だから、過度の会話は禁物だ。実際のところ、室内は鞄を置く音さえ気になるほどの静寂に包まれていて、しかもそれは理屈抜きに侵しがたい。教会や、神社仏閣にある静けさに近かった。窓際の、ここが半地下であるとよくわかる席に腰かける。既に日は沈んでいて、外は太陽の残響みたいな光がゆっくり薄らいでいくところだった。
薄いガラスを一枚隔てて、こちらへ入り込んでくるのは景色だけ。すぐそこに車が停まってもエンジン音はひどく遠い。地続きなのに、隔たれている。そんなゆるやかに囲われた空間がここにはあった。
室内に視線を巡らせる。客同士の目が合わないよう絶妙に配置された席と、目隠し代わりの戸棚。そこには壜詰めのジオラマが並ぶ。古めかしい顕微鏡、真鍮の皿と天秤、振り子時計が立てる、規則正しい足音。白熱灯の光のした、それらは冷たい手触りを携えた幻影としてそこにある。
かすかに、しゅう、と湯気の立つ音。そちらに目をやれば、寡黙な男性が一人厨房から出てくるところだった。葉擦れのような声で、お待たせしました、と言う。私の目の前にそっとグラスを置く。男性は、手間を惜しまず地道な作業を愛する職人の指をしていて、思わず口元が緩んでしまう。
グラスをそっと傾けると、やわらかなクリームがまず唇に当たる。そのあとに熱くて甘い珈琲がやってくる。ずっしりと重たい飲み物が喉を伝っていくのが、枯れた井戸みたいにすかすかだった心に沁みていくのが、そして自分の体がどれだけ冷えていたのか、はっきりとわかる。
しばらく待つと、体が温まってくる。光の照り返しみたいに、珈琲の熱に応えるように。肩にのしかかっていた重さが和らぎ、不自由に軋んでいた関節が緩む。俯いていた顔が自然と上を向く。
静寂のシェルター。サンクチュアリの森。都市の中庭。ここは、そういう場所だった。
疲れ切った人々がやってきては、結晶を買い求める。ときには沈黙のなかで一服を味わう。そして、結晶を収めた小壜を大切に抱えて帰っていく。言葉の代わりに、安堵のため息を積もらせる。
溜まった澱を吐き出すように、細く、長く息を吐く。そしてまた一口、珈琲を啜る。
いつかは誰もが、現実に戻っていかなくてはいけない。私たちの生きる場所も、人生の置き場も、現実にしかないから。
けれど生きていれば、吹き付ける風があまりに冷たいときも、一人で歩く夜があまりに寒いときもある。
そんなときにそっと寄り添って、あたためてくれるような夢のような場所もまた、必要だ。
熱く甘い珈琲が、静寂の窓辺が、噛み締めればしゃららと溶けていく結晶が、いつでも私を待ってくれている。
栓を捻れば、ぽん、と小壜の蓋が開く。小気味良い音で夢が弾け、辺りの景色は私の部屋に戻っている。
小壜を傾ける。ひときわ大粒の八面体が手のひらに落ち、美しい「劈開」が硬質な輝きを見せる。口に含めばかすかに甘く、噛み砕けば豊かに香る。鮮やかに鼻に抜ける芳香をゆっくりと楽しむ。これじゃまるで、アルコールを嗜んでいるようだ。
夢は覚めても、酔いは醒めない。心地良い酩酊は続く。空想の結晶は、まだまだゆっくり味わえそうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます