第19話 つばめ荘「おばちゃん亭」
モズのキチキチキチという高鳴きで目覚めた朝、にゃんたとユキが外に出たそうに部屋の窓をカリカリと催促していた。
「じゃあ2匹とも連れてお散歩へ行くの?」
「えぇ。どうせ暇なんで」
どうせ暇なんで。
毎日暇なんで。
心の中で呟き、つるりとしたなめこのお味噌汁を飲んだ。
「そういえばまりさん、仕事どうですか?」
「すごく楽しいですよ。まぁ、お客さんも大して来ないので暇なんですけどね。でも本に囲まれてるだけでもワクワクするし、店主のおじさんが面白い人で、一日中笑ってますよ。何だか仕事っていうより遊びにいってる感じです」
「素敵じゃない。そんな職場に就けるなんてそうあったことじゃないわよ」
雅美はそう言うと「よかったわねぇ」とにこやかに湯飲みに口をつけた。
秋の空は高く、心まで軽やかになる。
道の脇に咲く愛らしい色のコスモス達は風にゆらぎ、その花はまるでヒマワリのように太陽に顔を向けている。
思っていたよりすんなりとハーネスを着けさせてくれたユキは、にゃんたに足取りを揃えるようにしてひょこひょこと歩いていた。
何十歩かに1度、何故か同じタイミングでこちらを見上げる2匹が面白いものだから、さち子もその度に目を合わせてはクスクスと笑ってしまった。
「おや。猫のお散歩か」
首にタオルを掛けた滝じぃが店から出てきた。
「えぇ。滝じぃはお出かけですか?」
「あぁ。それがね、今日は引っ越して来る人の手伝いなんだよ」
「へぇ!越してきた方ですか!良いですねぇ。でも、そんなお手伝いまでするんですか?」
「あぁ。越してくる時に持ってきたは良いけど、やっぱり要らなかったなんてものがあるからね。引き取るついでに邪魔にならん程度に手伝おうと思って。なんだ、変わり者の女の子だったよ。人の少ないこの街が気に入ったんだと。お宅の事も宣伝しておくよ」
そう言うとガラガラと荷台を押して、並ぶ細い路地へと歩いていった。
さち子が立ち止まれば2匹も立ち止まり、また気になるものが見えた気がして引き返しても素直に着いてきてくれるにゃんたとユキに、ペット以上の愛着が深まる。
レトロな喫茶店の前にやって来た。
【喫茶 うみねこ】
重そうな木のドアに、背筋をしなやかに反らすように胸を張って座る猫の置物。
外壁に取り付けられたランタンが、とてもいい味を出している。
珈琲の芳ばしい香りが鼻をくすぐる。
中の様子を見ようと、そっと窓に近付いた時、カランカランとドアのベルが鳴り、にゃんたがその場で小さく飛び上がった。
「おや、こんにちは。初めまして、ここのマスターです」
襟元に蝶ネクタイを着け、灰色の髭を蓄えたお爺さんが出て来てゆっくりと丁寧に頭を下げた。
「あ、これはこれは・・・初めまして。花村と言います。すみません、どんなお店なのかなぁって思ってしまって」
「そうでしたか。いやはや、何だか猫の気配を感じましてね。昔から動物が好きなもので、姿が見えなくても何となく近くに居るのがわかるのですよ。そうかぁ、君たちだったか」
馴れている様子でにゃんたとユキが、しゃがみこんだマスターの足元にゴロンとお腹を見せて転がってみせた。
「この子達ね、時々うちに遊びに来てたんですよ。白猫の方は暫く痩せていたけど、またふっくらしてきたねぇ」
マスターは「よしよしよし」と2匹のお腹を撫でては幸せそうに笑っていた。
喫茶うみねこのマスターと別れ、商店街を進む。
マスターの珈琲を飲んで見たい気持ちは山々だったが、流石ににゃんたとユキを連れては入れない。
「まぁ、どうせなら雅美さんとまりさんも誘ってから来よう」
たまには洒落た店で女3人、ゆっくりするのも良いだろう。
マスターもおばちゃん亭に来てくれると言っていたので、またこの夕凪町に友人が出来たことが、さち子にとっては嬉しいことだった。
「あら、さち子!お散歩?優雅ねぇ」
2匹の猫を連れて歩くさち子に声を掛けたのは、豆腐屋の百合子だ。
「ねねっ。これ、持って帰ってよ。豆乳プリン。3つ入ってるから皆さんで食べてみて」
「えっ。いいわよ、いくら?お金払わなきゃ」
「良いの良いの。試食みたいなもんよ。美味しかったらまた買ってって。新作なのよ、自信あるんだから。ね?ほらほら」
百合子は半ば強引にビニール袋を握らせ「あ、他に何か買っていく?」と慌てて店へと戻った。
「じゃあ、油揚げと厚揚げで。ゆりちゃんの厚揚げ美味しいのよね。大根おろしに青じそ乗っけて醤油垂らすのがお気に入り」
「でしょー?豆腐屋ってのも毎日大変なんだから。でもそうやって言って貰えたら嬉しいのよねぇ。健太郎は跡継ぎは嫌みたいだけど」
「まぁ、まだ中学生でしょ。私たちの子供の頃より魅力的な事が多くて、夢ややりたい事の幅も広いだろうし、仕方ないわよ」
「そうなのよ。ま、私も特に次の代にーってこだわってないから、本人がやりたい事に向かって頑張ってくれるのが1番だと思うのよ。はい、油揚げと厚揚げ」
袋を受け取り、代金を支払ってから「ありがとう」と、豆乳プリンの袋も一緒に掲げて礼をし、店を後にした。
さち子がこの町に住みたいと思った最初のきっかけは、この海だ。
砂浜にはゴミも無いこの綺麗な海辺は、長年都会で育ち、文字通り会社に身を捧げてくたびれ果てたさち子の心を、洗い流してくれた場所だった。
頭上をピュー ヒョロロロロとトンビが飛んでいる。
ザッと砂をさらうように打ち寄せては引いていく波を見つめては過去を思い出し、果てしない海を見渡しては、自分の視野の狭さにハッとさせられる。
砂浜に足を投げ出して座り、膝ににゃんたとユキを乗せて目を閉じて深く息を吸って、ゆっくりゆっくりと吐き出す。
「今までの人生は苦労もあったけど、今この生活を幸せだと感じられて、この景色を何よりも美しいと感謝できるのは、これまで頑張ってきたおかげかもしれないわねぇ」
人生の転機はどこで訪れるかわからない。
今がツラくても、行動1つで人生は大きく動くことがある。
「本当に、ここに引っ越してきて良かった」
にゃんたの耳の付け根あたりをうにうにと撫でると、笑ったように目を細めていた。
今日も、つばめ荘「おばちゃん亭」には夕凪町の住人がやって来ていた。
鈴虫が涼しげに鳴く夜、縁側からの過ごしやすい秋の風が部屋を満たしていた。
今夜は百合子の家族、滝じぃ、三隅、喫茶うみねこのマスター、まりの本屋の店主も揃って夕飯を楽しむことにしたのだ。
新しく越してきた「すず」と名乗る女性も途中参加でやって来た。
「よ、宜しくお願い致します・・・」
かしこまって小声を必死で振り絞る彼女の姿に、その場にいたさち子達の心が緩む。
「いやぁねぇ、そんな丁寧な言葉遣いしなきゃいけない相手なんてここには居ないわよ。ね、気楽に。せっかくのご飯も味がわかんなくなっちゃうわよ」
百合子が彼女の背中をトントンと叩いて元気付けた。
「そうよ。気なんか張らないで。ここで知り合えたのも縁なんだから」
さち子はすずのコップに麦茶を注ぎ、雅美はお皿とお箸を手渡した。
「ほら、ここには猫が2匹も居るんですよ」
まりがにゃんたとユキを抱き抱えて見せると、すずの目がふにゃりと垂れ、柔らかい笑顔になった。
「可愛い・・・!猫大好きです」
「ここに来たらいつでも遊べるわよ。だからいつでもいらっしゃい。縁側でごろ寝するでも、本読むでも、私たちとお喋りするでも、なーんでも良いのよ。おばちゃん亭は、皆がゆったり過ごせる憩いの場だから」
さち子はそう言って、肉じゃがのじゃがいもを大きな口で頬張った。
つばめ荘「おばちゃん亭」 如月 凜 @rin-kisaragi
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