戀文

胤田一成

戀文

拝啓


 筆まめなあなたのことです。

 きっとお手紙を一つ差し上げるのにも、時候の御挨拶から始めるのが礼儀だ、と仰りたいのでしょう。

 でも、おあいにくさま。私にはもう折に触れて季節の美しさを愛でることも、それに誰かに思いを馳せたりすることもできはしないの。それはあなたも重々、ご存知のことでしょう。

 これをあなたが読んでいるということは、私の姉さんがあなたにこのお手紙を託したということになるのでしょうね。私の姉さんは美人でしょう。あの人は私の自慢の姉よ。変な気を起こさないで頂戴ね。あの人には真っ当な人生を歩んで欲しいと常々、願っているの。私やあなたと違ってね。皮肉に聞こえてしまったのなら謝るわ。私はあなたほど多くの言葉を持ち合わせてはいないのよ。

 ああ、文を書くということは難しいのね。あなたは人一倍、文章を愛していたから、お手紙を一つしたためるのにも一苦労だわ。言葉を選び、想いを乗せることの辛さを、こうして筆を執ってみて、初めてしみじみと感じているわ。不思議ね。今になって、ようやく本当のあなたに触れているような気さえするの。

 あなたはきっと私のことを恨んでいるのでしょうね。それもしようのないことだわ。私は傷ついたあなたを冷徹にも見捨てたのだから。逃げ口上なんてしないつもりよ。私ははっきりと認めるわ。私はあなたを見捨てたの。でも後悔はしてないわ。だってあのとき、あなたを見限らなければ、私も一緒に倒れてしまっていたに違いないもの。

 あなたは優しい人ね。むかし、私が心を蝕まれて倒れそうになったとき、あなたが颯爽と現れて、力強く、死の淵から救ってくれた。そのことは今でも感謝している。でもね、私はあなたほど優しくはないし、強くもなえなかったの。あなたが倒れてしまいそうなとき、あなたの傍らで支えてあげられるほどの余裕はなかったし、今でも同じ選択をすると確信しているわ。我儘な女だと思ってくれても一向に構わない。私は私自身を救うのにいつだって精一杯なの。

 覚えているかしら。いつかの夜、あなたは私のお臍を撫ぜながら、ある神話のお話をしてくれたわね。プラトンの『饗宴』だったかしら。アリストパネスの演説よ。あの時のこと、私は今でも鮮明に覚えているわ。

 人間は元、完全な円形をした動物であったのを、ゼウスの怒りに触れて半分に割かれてしまった。それ以来、人間はかつての完璧な姿を取り戻すために、男女が互いを求めあうようになったというお話。

 あなたはアリストパネスの言葉を借りて、嬉々として愛の在り方を囁いたつもりかもしれないけれど、私にはそうは見えなかったわ。あのとき、あなたは私を抱きながら、他のなにかを見詰めていたのよ。だってそうでしょう。もし、私があなたの忘れ去られた半身だと確信していたのなら、あなたはわざわざ、アリストパネスを引用してまで私にそんな話をしたかしら。何も言わずに強く抱きしめてくれるだけで充分だったはずよ。或いは私はただそれだけを待ち望んでいたとも思うの。いずれにせよ、私はあの晩からあなたの愛を疑うようになったのは確かよ。

 分かっているわ。あなたは炎のような人。きっと悪気があってそんな話をしたわけでは決してない。それどころか、アリストパネスの言葉を心の底から信じて止まず、自分の愛こそがこの世で唯一、確かなものだと情熱的に盲信しようと自分でも知らないままに努めていたに違いないわ。でもね、あなたの射るような鋭い眼差しは私には向けられていなかった。あなたの関心はいつだって愛の在り方について向けられていた。あなたは私を腕に抱きながら、私ではなくて愛の源泉について考えを巡らせていたのよ。あなたは一際、愛を信じていたいがあまりに、誰よりも愛を疑っていた。アリストパネスの演説さえ、あなたは本心では疑っていたのかもしれない。あなたは愛を手放しには信じられない悲しい人なの。あなたはそれに気づいているかしら。気づいていないのなら気づくべきだわ。


 月暈の我が身優しく包む影

 愛しあなたのたなごころかな


 あなたのお誕生日に詠んだ短歌よ。あなたは炎のような人。でもその光は太陽のように全てを等しく明るく照らすものではない。月の暈のように冷たく、むしろ目にしてはならないものまで明るみにするような死んだ光だったの。知っているかしら、月の明かりとはね、太陽に照らされてようやく光ってみせる、間接的な照明に過ぎないのよ。あの時はそれを知る由もなかったけれど、あなたと一緒に過ごした日々がそれを教えてくれたわ。もしかしたら、あの時、既に私は直感的にあなたの本質を見て取っていたのかもしれないわね。

いずれにせよ、あなたが私に照らして見せてくれた世界は恐ろしいまでに荒涼とした大地だったわ。何かを信じたいがあまりに何もかもを疑ってかからなければならない寂しい世界。あなたはそんな凍てつくような地に素足で佇むようにして必死にきりきり舞いをする孤独な人なのね。あの歌を詠んだとき、それを思うと胸を締めつけられるように愛しくて、あなたを傍で支えてあげたいと思わずにはいられなかったのよ。これは本当よ。だけど、今にして思えば、あなたが耳元で囁いてくれた愛の言葉は全て、私にとっての呪いの言葉も同然だったのね。あなたが照らしてくれた世界は、私にはあまりに重く、寂しいものだった。私はあなたの生きる世界では共に生きていける気がしなかったの。

 あなたは私のために仕事を見つけ、傷つきながらもお金を稼いでくれたわ。でもね、そのお金は私にとって鉛のように重く、硝子のように繊細だった。残念だけど、あなたには車輪の一部になり、自分を抑える素質が備わっていないのよ。あなたはあなたの荒涼とした大地で生きるほか、道がないのかもしれない。そのことを思うと今でもあなたに同情せずにはいられないの。

 

 思い返せば、私とあなたは恋人というより、先生と生徒の関係に近かったのかもしれない。あなたと出逢って、救われてから様々なことを学んだわ。初めのうちはあなたと世界が共有されていくのを楽しんでさえいたわ。だけども次第に時間が過ぎ去っていき、世界が交じり合っていくにつれて、それは痛みを伴うようになってきた。時には気が付かなければ良いことにも、目が行くようになっていった。愛についてがそれよ。あなたと出逢う以前は純粋に信じて止まなかったものが、急に冷めて空々しいものになっていった。アリストパネスの演説なんて聞かなければ、あなたの愛の囁きに耳を貸さなければ、とも思ったけれど、気が付いたときにはもう手遅れになっていた。私も素足で切り立った氷の上に立つようにして生きねばならないのかと考え、人知れず眠れない夜を明かしたこともあったわ。

 あなたは優秀な先生よ。でもね、あなたは多くのことを教え過ぎたのよ。私は私自身の世界を取り戻すためにも、あなたを見捨てなければならなかった。あなたとの共有された寒々しい大地から脱出するためにも、そうする必要があったということを理解して頂戴。

 あなたとの愛の睦言は確かに熱烈なものだったわ。それだけにあなたの口をついて出た言葉の数々は、いまだに私を捉えて止まないの。あなたの下を去ってから、もう何年になるのかしら。まだ私は私自身の世界を完全には取り戻せていないわ。あなたの荒廃した世界が恨めしそうに、私の新たな光に満ちた世界を侵食してくるのよ。心得違いをしないで欲しいのは、私がそれを迷惑とは思っていないということ。あなたは月の光よ。その灯火は必ずしも暖かいものだけを照らし出してくれる明かりではなかったけれど、私をある意味で成長させてくれたのも事実だもの。

 先刻、あなたと私の関係は先生と生徒のそれによく似ていると書き綴ったわよね。そしてあなたが優秀な先生だとも。私があなたを見捨てなければならなかったのもそれが理由の一つ。あなたは確かに才能ある先生だったわ。そしてその先生の一番、傍にいたのが私。自慢じゃないけれど、私は私なりに優秀な生徒であろうと努めていたし、その自負もあったのよ。私はあなたに心酔さえしていたわ。でも思ってもみて頂戴、そこまでして着いてきた先生が社会に揉まれてズタズタに引き裂かれていく様を直視していたいと思う生徒なんていないはずよ。私はあなたが傷ついて、精神的に摩耗していく姿を見ていたくはなかった。だから、目を逸らすようにしてあなたの下を去ったの。あなたは優秀な先生だから、生徒の気持ちもきっと理解してくれると思うわ。いいえ、一度でも耳を貸してしまったのなら、あなたは理解しようとせずにはいられないはずよ。あなたはこの上なく優しい人でもあるのだから。


 あなたは静かに燃える炎のような人。たとえ私が億万の言葉を書き綴っても、あなたはきっと私のことを赦しては下さらないでしょう。でもそれは同時に、決して私という存在を忘れないということでもあるわ。今、私はあなたの憎しみと関心を一身に浴びている気がするの。思うに、この関心こそが愛なのではないかしら。だってあなたは私と一緒にいるとき、一度だって、私にその眼差しを向けてはくれなかったのだから。

 あなたの愛をより一層、惹きつけるために、私はあなたに告白することにするわ。

 あなたはこれを読んでしまったら、生涯かけて私を忘れはしないでしょう。それは私にも分かっているわ。忘れないで、私はあなたの優秀な生徒の一人だったのよ。


 私はあなたの子を身籠っていました。


 私があなたを見捨てようと決心したときのことよ。

 あのとき、既に私はあなたの子を授かっていたの。妊娠二ケ月とお医者様には診断されたわ。私はそれを聞いて、一も二もなく、あなたのことを試験せずにはいられなかったの。あのとき、父親としての責務をあなたが全うすることができるかどうか、私は冷静な視線で観察していたのよ。でも、残念ながら、あなたはその密かに行われた試練に打ち勝つことができなかった。あなたのどこを切り取って見ても、父親としてはおろか、大人としての責任に耐えうる要素は見当たらなかった。あなたのあずかり知らぬ場所で、私も身を引き裂かれるような想いを痛感していたのよ。あなたは自分のことで手一杯になっていて、決して気づくことはなかったようだけれど、あのとき、私も涙を流していたのよ。

 あなたには決して分からないと思うわ。薄汚れた街の婦人科の待合室で自分の名が呼ばれるまでの孤独な時間も、分娩室で脚を広げさせられて性器を掻き回される屈辱も、お医者様から滔々と説かれる繰り言も。このことだけは、私とあなたは分かち合えないと確信しているの。それでも理解すべきよ。罪のない子を私とあなたは殺したの。このことだけは墓場まで持っていこうと決めていたのだけれど、私一人が背負い込むにはあまりに重く、残酷な事実でもあったことをあなたへ訴えるわ。

 あなたの知らない幕の裏で、私も独りで奮闘していたのよ。あなたは確かに孤独な人。でもね、人は生きている以上、誰しもが多かれ少なかれ空虚を抱えているものなのよ。

 私とあなたはあまりにも、ひ弱な存在だった。そうしてその二人が寄り添い合ったことで、罪のない一人の子が命を落とした。あの日、出逢ったときから、いずれ私達は瓦解することを宿命づけられていたのかもしれないわね。辛いことだけれど、もう一度ここに記すわ。それはきっとなかったことにしてはいけないことだと思うから。


私とあなたは罪のない人の子を殺したの。


 理解して頂戴。心に刻みつけて頂戴。そうして、決して私を忘れないで頂戴。

 愛について、世界に全てについてあなたはもっと寛容になるべきよ。いつまでも冷たい大地に佇んでいては駄目なの。人は誰しもが孤独に苛まれて生きているわ。だけどね、人は孤独なままには生きていけないものでもあるの。あなたの身体には溶岩のような熱く滾る血潮が流れている。決して屈してはいけないわ。私には備わっていないものがあなたにはあるのだもの。それを忘れないで下さい。そして、それをあなたに教えた愚かな生徒が一人いたということもできれば忘れないで下さい。


                                    敬具


 追伸


このお手紙があなたを苦しめる枷になってしまったのなら謝るわ。ごめんなさい。

 でもどうしても、最期になって少しでもあなたに誠実な胸の内を見せてあげたかったの。

 天国であなたの子と共に、あなたが闘う姿を見守っているわ。

 




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戀文 胤田一成 @gonchunagon

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