9/平常心

 翌日、事件のことはニュースとなり、猟奇事件の被害者として伊達の名前が全国に知れ渡った。

 眼球は鋭利なもので貫かれ、両手は手首から指まで骨が粉々に砕かれて指先は切断、舌も根元から切り取られて言葉を交わすことすらままならないと報道された。

 また、指先と舌の切断面や裂傷部位に重度の火傷痕があり、〝焼灼止血法〟を用いていることから、犯人は医療に精通した者ではないかといわれている。

 焼灼止血法とは〝蛋白質の熱凝固作用を利用した止血法〟で、出血面を焼いて傷を塞ぐ。

 犯人がこの止血法を用いなければ、伊達は出血多量による出血性ショック死になっていても過言ではないとされ、犯人は伊達を殺すのではなく、生かして苦しめることを目的としているのではないかと専門家は見ているようだ。

 思わず目を背けたくなるような姿となってしまった上に、会話をすることもできない。

 それは、誰にも相手にされないのと同じだ。

 今の伊達はまるで──透明人間だった頃の〝僕そのもの〟だった。

 怨恨による動機が有力として考えられ、僕と水見さん、そしてその家族が被疑者として挙げられた。特に執拗に〝手〟が破壊されていることから、水見さんの指の骨折に対しての復讐ではないか、と疑われていたわけだ。

 しかし、二ヶ月三ヶ月経っても証拠不十分で捜査は難航し、未解決事件になるのではないかと世間で騒がれている。

 いずれにせよ犯人が逮捕されようがされまいが、後味の悪いものであることに違いはなかった。


 平成二十八年五月。

 進学する高校は水見さんと同じ学校を選んだ。たまたま徹も同じ学校に入学したようで、中学生活が上手くいっていなかっただけに、知り合いが二人もいたことが僕にとっては心強く感じた。

 また、美丘先生は高校教員免許も取得していたようで、僕が通う高校で臨時職員として再会した。

 半年が経っても犯人は未だ逮捕されておらず、物的証拠がないことから事件は迷走し、犯人は計画性のない通り魔ではないかという根拠のない噂だけが一人歩きしているようだ。


「ねぇ、優くん。お父さんから赤いペンキを買ってきてって頼まれてるんだけど、これから一緒にホームセンターに行かない?」


 今日の授業が全部終わり、下校の準備をしていると水見さんが話しかけてきた。


「んー、ごめんね。今日は徹と二人で帰る約束が──」

「いーじゃん! 三人で行こうぜ!」


 僕が断ろうとすると、徹は僕と肩を組んで笑いながらそう言った。同じ中学に通っていただけあって、僕たち三人はすぐに打ち解けることができた。


「──ところで、赤ペンキは何に使うの?」

「んー、私もよくわかんない。頼まれただけだし……」


 水見さんは首をかしげて口をへの字に曲げる。


「郵便ポストでも塗るんじゃね?」


 徹は笑いながら水見さんを茶化すと、彼女も釣られて笑った。


「もぉー。私の家に赤いポストなんてないからね!」


 こうして二人の笑顔を見れることが僕はなにより嬉しかった。

 モノクロの世界を彩るのは、いつも二人の笑顔だ。

 三人で教室を出て1階に降りると、遠くでピアノと弦楽器の音が聞こえた。

 ──器楽部、かな。

 僕は横目で水見さんの様子を伺おうとしたが、徹の方を向いていて表情を確認することはできなかった。


「なぁ、水見。もうピアノはやらないの?」

「んー? 一応、家でやってるよ。……でも、やっぱり指がうまく動かなくてさ」


 徹が聞くと、水見さんはそう答えた。

「リハビリも兼ねてちょっとくらい!」と彼女は笑った。

 その笑い声が──逆に痛々しかった。


「そっかぁー。前みたいにコンクールで演奏出来るといいな!」

「……うん」


 少し間を置いて、水見さんは相槌を打つ。うつむいて微笑む彼女の表情が、僕にはどこか悲しそうに見えた。

 徹もそれに気付いたようで、水見さんから視線を逸らして爪を噛んだ。


「あ、今噛くんったら! 爪噛むとか、なんだか子供みたいだよぉ?」

「あはは、徹は何かに失敗すると、すぐその癖が出るよね」


 僕と水見さんが徹を茶化す。


「うっせー! ほっとけ!」


 彼自身は無意識だからか、その癖にあまり気付いていなかったようだ。爪を噛んだのは、自分の発言が水見さんの心を傷付けたのではないかと察したからだろう。


「そういやさ。お前、部活やんないの?」


 突然の問いに、僕は言葉が出なかった。

 理由は至ってシンプルだ。

 でも、面と向かって言葉に出すのは、少し恥ずかしかった。


「──えぇと、ほら。部活始めたら、みんなで帰れないから……」


 実は、三人とも帰宅部である。

 僕は特に入りたい部活はなかったし、水見さんも器楽部や吹奏楽部のように楽譜を見なければならないものを避けているように見えた。


「お前なぁ……。なんだよそれ!」


 徹は僕の背中を叩くと、「それじゃ、理由は俺と一緒じゃねぇか」と笑った。

 校舎を背にして校門を通る頃、皮肉にもピアノがノクターンを奏でていた。

 徹と笑いながら会話をしていた水見さんだったが、どんな気持ちであの曲を聴いていたのかと考えるだけで、僕は胸が苦しくなった。


「ねぇ、水見さん。たしかホームセンターにクレープ屋あったよね? 先にそっち寄らない?」

「……あっ、うん! ごめんね、ボーっとしてた!」


 水見さんはまた笑って誤魔化すと、「そうだね、いこっか!」とこころよく頷いてくれた。

 しかし、その空元気なところが余計に心配だった。

 僕を庇って大怪我をさせてしまった罪悪感が、それに拍車を掛ける。

 ホームセンターに着くと、まずは最初に移動販売車のクレープを三人で食べることにした。

 僕はチョコ生クリーム、水見さんと徹はストロベリー生クリームだ。

 僕も皆と同じものにしたかったが、彼女と同じものにするのはなんだか気が引けてしまった。


「──優くん」


 クレープを頬張ろうとしたところで話しかけられたので、僕は口を開けたまま水見さんの方を向いた。僕のその間抜けな姿を見て、彼女は笑う。


「ごめんね、気を利かせてくれて。……ありがと」


 ふいに水見さんはそう言った。


「何のこと?」

「……ほら。ノクターンの曲が流れてすぐにクレープ食べようって誘ってくれたから。……そういうことかなって」


 ──相変わらず、水見さんは鋭い。


「いや、別にそんなんじゃ……ないよ」


 突然の指摘に、僕は鼻をこすって視線を逸らした。


「──あはは。優くんも嘘が下手だよね。嘘つく時ね、すぐ手の甲で鼻をこするんだよ?」


 実は、徹の癖を見抜いたのも水見さんだった。洞察力が鋭いというか、水見さんは人を見抜く力が人一倍強い気がする。

 水見さんと僕は二人で笑い合った。


「……あのぉー」


 間に割って入ったのは徹だ。


「イチャついてるところ悪いんですけどォ! 俺がいるの忘れてないかねェ?」


 腕を組んで徹はこちらを睨んでいる。


「──ッ! い、イチャついてないてないよッ!」


 赤面する僕の反応が余程面白かったのか水見さんと徹は腹を抱えて笑い転げた。

 そうこうしているうちにクレープも食べ終わり、目的の品を購入するために僕たちはホームセンターの中に入ることにした。


「よしっ! 優くん。今噛くん。すぐ買ってくるから待っててね!」


 水見さんはそう言いながら手を振り、店の奥にある〝塗料コーナー〟に急いだ。

 かかっても十分、長くても十五分くらいだろうし、僕と徹は店内でうろうろしながら待つことにした。


「水見、元気そうだな」

「そう──だといいけど……」


 僕も仮面をつけていたからわかる。彼女の明るさは、きっと──。

 目を閉じ、仰ぐ。すると、頭の中で様々な思考が駆け巡った。


 ──いや、考えすぎ……か。


 目的もなく店内を歩く。

 園芸コーナー、特売コーナー、興味のない場所は素通りだった。

 しばらく奥に進んだところに、子供連れの家族が買い物をしていた。

 子供はまだ小さい男の子だ。父親の肩に乗り、キャッキャと笑いながらはしゃいでいる。隣には買い物かごを持った母親が寄り添い、子供をあやしながら笑顔で歩いていた。


 ──父さんがいたらきっと、僕もあんな風に……。


 それは嫉妬ではなく〝憧れ〟だ。

 黒く歪んだ感情よりも、温かい光が心を照らす──そんな感覚だった。


「ん? どうした?」


 突然の言葉に我に返る。どうやら僕は無意識に立ち止まっていたようだ。

 いつの間にか僕は、あの家族の幸せそうな姿に見惚れていた。


「あ、いや。……家族っていいなぁ、って思って──」


 苦笑いをしながら視線を逸らし、頭を掻いた。


 ──それに、僕には母さんがいる。


「……そうだな。家族って、いい──よな」


 僕の言葉に徹はぎこちなく笑った。

 そんなやりとりをしているうちに水見さんが戻ってきたので、そのまま家に帰ることになった。

 僕と徹の帰り道は母校へ続く道を通らねばならず、事件のことを思い出し、複雑な気持ちでその分岐点を後にした。

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