8/ない、ない、ない
翌日、僕は自宅の電話の呼び出し音で目が覚めた。
部屋は暗く、太陽の光は何かに遮られている。ザァーという低いノイズ音が耳に残り、窓の隙間から入る冷気が頬を刺す。
ふと目覚まし時計を見ると、時計の針は設定したアラームの時間から三十分以上過ぎていた。
「──しまった! アラームつけ忘れた……ッ!」
ベッドから慌てて起き上がり、カーテンに手を伸ばす。
カーテンを開けるとバケツをひっくり返したような雨が一面に広がっており、低いノイズ音が豪雨によるものであることはすぐに想像がついた。
光を遮っていたのは、雨雲だ。
「徹の言う通り──か」
窓を見ながら意識を外に向けていると、一階で電話をしている母さんが突然声を荒げた。
──何かあったのかな。
急いで階段を降りると、母さんはリビングを行ったり来たりしている。
「おはよ、母さん。……どうしたの?」
僕の声を聞くと、母さんの身体が跳ね上がった。どうやら、僕が1階に降りてきたことに気付かなかったようだ。
「……今、電話があってね。今日からしばらく、学校閉鎖みたい」
「えっ? なんでまた突然──」
母さんは、僕と目を合わせてくれない。
「担任の先生からの電話だったの。出勤したら伊達くんが──校門前に座り込んでたんだって。その……うまく言えないんだけど──」
右に、左に、そしてまた右に、母さんの瞳が泳ぐ。
何かよくないことがあったのはすぐに察しがついた。
「母さん、それじゃわからないよ。──話してみて?」
「……ユウくん、落ち着いて聞いてね? ……伊達くん、校門前で大怪我してて病院に搬送されたんだって」
伊達が大怪我をしたと聞いて、特に心が乱れることはなかった。出席停止でフラストレーションがたまり、外で何か悪いことでもしたんじゃないかとすら思った。
「他校の生徒と喧嘩でもしたんじゃないの?」
「違うの。目も……指もなくて、言葉が喋れないんだって……」
──目も、指も……ない?
「……ちょっと待って。母さん、それってどういう──」
その時、また電話が鳴った。
母さんが慌てて受話器を取ると、その相手は美丘先生だったようだ。母さんが何度か相槌を打つと、受話器を僕に渡した。どうやら、用があるのは僕らしい。
「……お電話代わりました。過咲です」
『過咲くん、おはようございます。美丘です。伊達くんのことは、お母さまから聞いたかしら?』
「はい。あと、学校閉鎖のことも──」
やっとクラスメイトとも打ち解けてきたところからの学校閉鎖だからか、残念な気持ちは隠しきれなかった。
『……そう。ゴメンなさいね、せっかく楽しそうに通学できるようになったのに』
「──いえ」
──別に、先生が謝ることじゃないのに。
『ところで、昨日は下校した後はどこか寄り道したりしたかしら? あと、誰かと一緒に帰った?』
「昨日ですか? 水見さんのお見舞いに行きました。あとは病院の近くのスーパーに。めずらしく今噛くんが一緒に帰ろうと誘ってきたので、途中までは二人でしたが」
『……そう』
先生は不自然に間を空けてから返事をした。
──疑われて……いる?
『たぶん警察が事情聴取をしに来ると思うから、今のことを正直に話してね。それ以外は──余計なことは言わないように』
──警察? なぜ僕のところに?
「……余計なことというと、たとえば? もしかして疑われてるんでしょうか」
『いいえ、全生徒に回るはずよ。過咲君はいじめのこともあるし、誘導尋問もありうると思うの。だから、いじめられたことに対して恨みがあっての犯行と言わせるために圧力をかける可能性もなくはないわ』
たしかに動機としては充分かもしれない。でも、僕だって人を簡単に傷付けるほど愚かじゃない。
『それに〝学生を狙った通り魔〟の可能性もあるから、犯人が逮捕されるまではなるべく家の外に出てはダメよ?』
「──はい。わかりました。わざわざありがとうございます」
僕は「失礼します」と言ってから電話を切った。
「ユウくん、先生はなんて?」
「事情聴取。警察が家に事情聴取に来るかもだって」
母さんは〝警察〟という言葉を聞いて顔が蒼白になった。
「……なにもしてないんでしょ?」
「当たり前だよ! 母さんは……信じてくれないの?」
「もちろん、ユウくんを信じてるわよ!」
母さんは「人を
しかし、不謹慎にも僕は〝母と子の信頼関係〟よりも〝伊達の目と指がどうなっているのか〟の方が気になっていた。
午後一時。
玄関のチャイムが鳴った。
ドアホンのディスプレイ越しに体格のいい男が立っている。
『過咲さんのお宅でよろしかったでしょうか? 警察の者ですが──』
ドアホンの受話器を取ると、刑事ドラマで聞いたことのあるようなお決まりの台詞が聞こえた。最初から僕を疑っていたのか、その日のうちに自宅に訪問してきたのだ。
母さんが玄関のチェーンを外すと、有無を言わさず刑事が扉を開けた。
「えー、過咲──優くんのご自宅で間違いないですね? あぁ、息子さんと二人で話をしたいので、席を外していただいてもよろしいです?」
母さんは「わかりました」と頷き、奥の部屋に入っていった。
刑事と二人きりになると、男の威圧感はより強さを増した。
「今朝の事件のことは知っているね?」
刑事の問いに僕は頷く。その声は母さんが隣にいた時よりも低く、ゆっくりとした口調だ。
ゴクリ、と鳴らす喉の音が自分でも聞こえた。
「それじゃ過咲くん。単刀直入に聞くけど、君は事件に関与しているのかな?」
「──!」
余計な言い回しは必要ないとばかりに、刑事は強気な態度で質問する。あまりにもストレートすぎて、僕は言葉を詰まらせてしまった。
「……いえ、僕は何もやっていません」
「あはは。みんなそう言うんだよね」
刑事は僕を嘲笑う。
「じゃあ仮にそうだとして、どんな事件なのか知ってるかな?」
「え、えぇと。クラスメイトの伊達くんが校門前で大怪我をして座り込んでいたと美丘先生に……」
「ほぅ? 大怪我ですか。どのようなものかもご存知で?」
「──目と指がなくなっていたと聞きました」
「目と指──ですか。それは本当に担任教師が教えてくれたのかな? 教師たるもの、非人道的な真実は伝えず〝大怪我をした〟だけで済ますと思うけど?」
「たしかに美丘先生から聞いたんですが……」
──母さんが美丘先生から電話で聞いたって言ってたし……。
「──本当は、君がやったんじゃないの?」
「ま、待ってください……!」
「先生に聞いたよ? いじめられてたんだってね。──実は、仕返しにヤっちゃったんでしょ?」
まるで茶化すように刑事は言う。
この刑事は、あることないことでっち上げて僕を犯人にするつもりだろうか。
「やってません! 僕は人を恨んだり、殺したりするようなことは絶対にやりません!」
感情を露にする。
その声に呼応するように、背後から母さんが駆け寄ってくる足音が聞こえた。
しかし、刑事は手を広げて前に出し、母さんに無言で「待て」と命じた。
「……そう? じゃあ他の生徒さんにも聞いてからまた来ますよ。最後にもう一度聞くけど──」
そう言って、少し身を乗り出した。
「──本当に、やってないんだね?」
僕が力強く頷くと、刑事は突然僕の頭を優しく撫でた。
「……わかりました。怖い想いをさせてすまないね」
その言葉を言うと、男は優しい表情に変わった。
「実は担任教師から過咲くんの昨日の行動を聞いていてね。午前中は、水見心音さんに君が見舞いに来ていたかどうか本人に確認しに行っていたんだ。昨日出勤だった最寄りのスーパーの店員にもね」
刑事は「家族の証言は、アリバイの証明にはならないから」と言うと、続けて会話を進めた。
「君のアリバイは確認済みだが、犯行動機は君だけ充分すぎるんだ。入院中の彼女の怨恨もなくはないけど、あの怪我じゃ不可能だろう?」
圧力をかけて自白させるつもりだったのだろうか。それにしても、随分と荒っぽいやり方だ。
「それじゃあ、過咲さんの奥さん。今日はこれで失礼します」
刑事は「ご協力ありがとうございます」と一礼し、母さんは刑事を見送った。
扉を開けて外に出ると、刑事は顔だけ軽く振り向いた。
「……さすが、血は争えませんな? 正義感がある、いい子だ」
「刑事さん、息子の前でその話は……」
「……失礼」
バタン、と扉が閉まる。
──血? 何のことだ。
しかし、その疑問に答えてくれる者は誰もいなかった。母さんもきっと答えないだろうし、それを知って僕の中で何かが変わるわけでもなかった。
「────」
やはり、母さんは黙ったままだ。
「……あ、もう一時だね。お腹減っちゃったから、早く食べよう?」
一生懸命に笑って、僕はダイニングテーブルに向かって歩く。
僕にとっての家族は母さんだけだと言い聞かせながら────。
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