5/5分に満たない僕だけの場所
「とう……さん──」
目を開けると、僕は保健室の天井に手を突き上げていた。頬を伝い、耳のくぼみに感情の雨が溜まる。視界に映り込む腕は、紛れもなく僕のものだった。
「──夢……か」
脱力し、腕をベッドに叩きつけるようにして下ろす。
時計の針はちょうど昼休みの時刻を指していた。
チャイムが無情に鳴り響き、校庭に向かって廊下を走る同級生達の足音が聞こえた。しばらくすると廊下の足音が消え、僕はそれを見計らって保健室を出た。
僕を心配して保健室に入ってくる人間が誰一人としていないことが、少しだけ──少しだけ淋しいと感じながら。
廊下を歩き、突き当りを右に曲がって階段を上がる。
目的地は二階の教室ではなく、四階の音楽室だ。
三階を過ぎると、上の階からピアノが奏でる音色が聞こえてきた。
子守唄のようなやさしい音色。耳を撫でるように波打つ減衰音。
──ショパンのノクターンだ。
音楽室の前にたどり着くと、厚い木製の防音扉を背にして床に座り込んだ。
ピアノと僕を
──僕の居場所は、ここしかないのだ。
この時間、この場所でノクターンを聴くことが、僕が学校に登校するただ一つの理由だった。
演奏者が誰なのかは知っている。
同じクラスの学級委員である
彼女は唯一、僕の味方をしてくれている女の子だった。
伊達の圧力とクラス全体の精神的萎縮によって彼女の力は弱くなってしまったけれど、それでもなんとかしようとしている彼女の気持ちがとても嬉しかった。
僕は目を瞑る。視覚を閉じ、呼吸を静かにして、聴覚だけに意識を向けた。
不可視の波が感情を伝う。彼女が奏でる右手のトリルが〝焦燥〟を連想させる。
学級委員としての立場と、個人の感情との〝葛藤〟。
──いいんだ。一人じゃないって思えるなら、僕はそれだけで──。
ピアノを通して聞こえる声に心の中で応える。
僕だけがクラスから剥離した日々と、行き場のない父親への感情。
それすら忘れさせてくれる時間だった。
──そろそろ保健室に戻らないと。
重い腰を上げる。誰かに見つかったらそれはそれで面倒だ。
四分半という短い時間だったが、僕にとっては有意義な時間だった。
急いで階段を駆け下り、保健室に戻った。
「あっ、過咲くん! どこ行ってたのよー」
部屋に入ると、保健室の先生が椅子に座って待っていた。
「……すみません、ちょっとトイレに行ってました」
ごめんなさい、と頭を下げる。
とっさに出た嘘が、少しだけ息苦しさを感じさせた。
「どう? 体調は?」
「はい、だいぶいい感じです」
そう言って、僕はスクールバッグを取りにベッドに向かう。
「すみません。それじゃ、早退させてもらいます。……ありがとうございました」
授業も受けず、何のために学校に来たのかわからない。
しかし、きっと登校することに意味がある──そんな気がしていた。
もっとも、僕は水見さんのノクターンを聴きに学校に来ているのだけれど。
「ねぇ、過咲くん──」
保健室の出口に向かって少し歩くと、先生に呼び止められた。
「──学校……つらくない?」
その言葉を聞いて、心臓に重く大きな杭を打たれたような感覚が走る。的を射たような問いに僕は一瞬動きが止まり、呼吸をすることすら忘れてしまった。
「────」
僕自身が目を背けていた答え。それでも、僕は──。
下唇を噛み締めて、笑顔を作る。
「……いえ、ちょっと体調が悪いだけで。……楽しいです」
僕は振り返り、先生に言った。
「……そう」
先生は複雑な顔をしている。まるで本心を見抜いているようだった。
──でもね、先生。僕はそうやって気にかけてくれるだけで、嬉しいんだよ。
言葉には、出さなかった。
「……ねぇ、ちょっとだけ私の話聞いていかない?」
怪我のことで何か話があるのだろうか。いじめのことで話したいことがあるのだろうか。僕は恐る恐る頷いた。
「──はい」
そう言うと、先生は「こっちこっち」と椅子の方に手を向けて僕を誘導する。言われたとおり椅子に座ると先生は嬉しそうに笑った。
「あの、お話って……?」
「えっとね、クマバチのお話。ほら、あの大きい蜂のことなんだけど……知ってるでしょ?」
大きい蜂というと「ぶーん」と大きな音を立てて飛ぶあの蜂のことだろう。
「クマンバチのことですか?」
「そうそう! 全身が真っ黒で、胸周りが黄色の大きな蜂よ」
僕が連想していたのは尻尾が黄色と黒の縞になっている大きな蜂だ。
たしか、顔も黄色だった気がする。
しかしそれは間違っていたようで、「あっ、それはスズメバチ!」と先生は教えてくれた。どうやら〝クマバチ〟は花の蜜を集めるハナバチの大型種である〝キムネクマバチ〟のことらしい。
非常に温厚な性格で、めったに人を刺すことがない。そもそも『クマンバチ』という言い方も、地域によってはスズメバチを指すことから、キムネクマバチを指す〝クマバチ〟と混同してしまっているようだ。
名前を間違えられてしまうなんて、不憫な蜂だ。
でも、透明人間の僕も、人のこと言えない────か。
「それでね、体がずんぐりむっくりなのに小さい
「──?」
僕は話の意図が読み取れなかった。
「えっと……それがどうしかしたんですか?」
「つまり、体の大きさに見合う翅の大きさじゃないから飛べないはずなのに、クマバチは飛べるの」
先生の目は真剣だ。
「まだ過咲くんは中学生だし航空力学とかの理論は理解できないと思うけど、理論上ではクマバチは身体の形状的に飛行不可能なのよ」
ヘリコプターで例えるなら〝回転翼の長さを半分にしたようなもの〟と付け加えた。
──蜂なのに飛べない? でも、現に彼らは飛んでいるけど……。
僕が疑問を問いかける前に、先生は話の続きを話した。
「クマバチは自分が飛べないことを知らない。でも、自分は飛べると信じているから飛べる──」
先生は言葉を続ける。
「──つまりね? 〝できない〟と決め付けずに〝できる〟と信じて行動すれば、それは必ず達成できるのよ」
「……えぇと。はい、なんとなくわかります」
とりあえず返事をしたものの、正直なところ、よくわからない。
「でもそれは一昔前のお話でね? 今は理論的に証明されてるのよ。……えぇと。なんだったかな。レイノ……いや、レイナルズだったかな? ちょっと待ってて」
先生はポケットからスマートフォンを取り出す。
察するに、その『理論上の証明』について調べているのだろう。それを調べ上げて、先生はコホンと咳払いをした。
「……んーとね、レイノルズ数っていう流体力学の〝空気の粘度〟を計算に入れることで、現在はクマバチの飛行可能であることは証明されてるのよ!」
先生は苦笑いをする。
「──っていう、ちょっと素敵な話を過咲くんに聞かせたかったの。……以上!」
大真面目な顔から一転、先生はいつもの笑みに戻った。「話がまとまってなくて、カッコつかないわねぇー」と間の抜けた台詞を先生が言った。
「過咲くん、あなたはきっと強くなれる。だから、自分を信じてあげて」
「……はい、ありがとうございます」
話が終わり、僕は椅子から立ち上がった。
扉を開けて保健室を出ると、先生は微笑みながら手を振って見送ってくれた。
下駄箱に置かれた靴に履き替えて外に出る。息が詰まる校内から解放され、両手を思いきり伸ばして身体の緊張をほどいた。
校庭で同級生達が走り回っている。そこは僕の手の届かない場所であり、踏み入れてはいけない場所だった。
「……できないと決めつけずに──か」
傷付くのが怖くて目を背けるのは、改善ではなく改悪なのかもしれない。
受け流すだけじゃダメなんだ。現実を受け入れ、それを噛み砕いて前に進まないといけない。
──立ち向かわなきゃ、ダメなんだ。
その時、校舎の上の方から不協和音が響く。ひどく攻撃的で、フェードアウトする減衰音。まるでハンマーで叩いたようなそれは、正真正銘ピアノの音だった。
痛々しい女の子の悲鳴が校舎の中に響き渡る。
校庭を走り回る同級生も異常に気付いたようで、全員が上を見上げていた。
「……水見──さん?」
叫び声、罵声、不協和音、破壊音────。
繰り返される、耳を割くような乱暴な音。
風の音を聴覚が捉える。
景色が色を失う。
手に、足に、背筋に、悪寒が走る。
──そして、静寂。
僕は──ただ、立ち尽くしていた。
周りにいる生徒たちがざわつき始め、職員室に駆けていく。
──僕も、何かしなきゃ。助けなきゃ。水見さんがそうしてくれたように。
校舎に向かって一歩踏み出そうとするが、思ったように動かない。
息がうまくできない。
心臓が──激しく脈打つ。
足が、震えている。
水見さんが大変だっていうのに──今度は、僕が助けられるかもしれないのに。
僕にいったい、何ができる──?
──行かなきゃ。
──巻き添えになるだけかもしれない。
──逃げちゃダメだ。
──こわい。
──立ち向かうって決めたじゃないか。
──僕は無関係なんだから、無関心で構わないはずだ。
……助けなきゃ──。
水見さんが、僕にそうしてくれたように──。
僕は握りこぶしを作り、動かない太ももを強く殴りつけ──一歩、踏み出した。
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