6/始まり
「おはよ」
翌日、いつものように母さんと挨拶を交わす。
咳き込むたび背中に痛みが走る。──原因は、考えるのすら億劫だった。
「ねぇ、母さん。今日も遅くまで仕事なの?」
「そうね。本当はもっと早く帰りたいのだけれど──」
母さんは苦笑いをする。
「うぅん、仕方ないよ。……仕事だし」
「ゴメンね。あ、おかずは昨日のうちに作っておいたから、冷蔵庫から出して食べてね?」
僕が頷くと「はい、これ」と昼ご飯の弁当を渡してくれた。
母さんは優しい。それに、愚痴の一つも言ったことすらない。
──逆に、それが心配なのだけど。
僕は朝食を母さんと済ませて、重い足取りで家を出た。
今日も遅刻間際に登校すると、いつもと違う出来事が下駄箱で起きていた。
「──あれ? 今日は、入ってない……」
毎日上履きに仕込まれていた画鋲が、今日は入っていなかったのだ。
校内は不気味なほどに静かで、かすかに聞こえる隙間風の唸り声が耳に残る。
昨日の早退した際に何があったか僕は知らない。大きな音と声に怯え、そのまま逃げるように帰ってしまった。
──結局、僕はあのまま〝逃げること〟を選んでしまった。
いずれにせよ、教室に行けば何があったかわかるはずだ。僕は無心に階段を上がることにした。
──恐怖心を振り払え。
一歩一歩、力を込めて足を前に出す。
できないと決めつけずに、できると信じて──。
いつものような息切れは感じない。足枷をつけられたような重量感はなく、不思議なくらいに簡単に二階に上がることができた。
「……ハハッ」
たしかな手応えを感じ、僕は小さく小さくガッツボーズをした。
しかし、第二関門は教室の扉。教室の扉に手をかけると、ゴクリと喉が鳴った。
──美丘先生が来るまで待った方がいいかな?
そもそも中にクラスメイト達がいるのか疑問になるくらい静かで、教室に生気を感じない。僕は意を決して、呼吸を失った部屋の扉を開けることにした。
なるべく音を立てないように開ける。
皆が一斉にこちらを見ると、「なんだ、お前か」とでも言いた気にすぐに視線を逸らした。
室内を見渡すと、着席が済んでいない机は3台あった。僕のクラスは十人クラスで、僕、伊達、水見さん、他7人の生徒で形成されている。
昨日の昼休みの件もあったので、僕はすぐに水見さんを探した。しかし、教室に彼女の姿はなく、罵声を浴びせてくる伊達の姿も見当たらない。
つまり、まだ着席していないのは僕と水見さんであり、もう一人は伊達だった。
「……あ……あの、さ。……水見さん、きょうは……来てないの?」
扉のすぐ近くの席のクラスメイトと目が合ったので、たどたどしい口調で水見さんのことを尋ねる。
しかし、返事はなかった。
「……ご、ごめん。話しかけないように、するね……」
無言の解答に対して謝罪すると、また重い沈黙が始まる。やはり、勇気を出して発した言葉はクラスメイトに届く事はない。
僕が自分の席に着くと、机の上は 落書きでほとんど黒に染まっていた。
大きさは違えど、文字の癖はどれも同じだった。
クラス全員でやっているのではない。伊達一人で書いている証拠だ。
──なぜ先生はこれを放っておくのだろう。
担任なら気付かないはずがないのだ。それなのに、何も声を掛けてくれない。
──先生は、僕が助けを乞うのを待っている……?
いや、きっと面倒なだけなのだろう。
──違う、違う……違う!
筆箱から消しゴムを取り出し、僕は机全体をこすった。シャーペンの落書きの下には油性ペンで書かれたものもあり、消すことは困難を極める。
黒鉛が右手の親指を黒く汚し、文句の一つも言えない自分が情けなく感じた。
しばらくするとチャイムが鳴り、それと同時に美丘先生が教室に入ってくる。
教壇に立つと、先生は大きくため息をついて朝の挨拶を始めた。
「……おはようございます」
チラッと視線を僕に向ける。先生の表情はどこか冷たさを感じた。
「昨日の件ですが、水見さんは外科手術後に入院となりました。私はこれからお見舞いに行きますので、午前中は自習となります」
教室がざわつく。やはり、被害者は水見さんだったようだ。
「水見さんもピアノの発表会間近での手首と指の骨折で落ち込んでると思うので、皆で励ましてあげましょう」
お見舞いを希望する人は申し出てください、と先生は言った。
「それから──」
次に、先生は伊達のことを話した。水見さんに怪我を負わせたのは、やはり伊達らしい。
通常、義務教育に〝停学〟というものは存在しない。
しかし、今回の件で生徒に傷害と精神的苦痛を与えたことから、保護者を学校に呼び出し、『自宅学習』という名の〝出席停止〟を教育委員会が指示したそうだ。
即日で出席停止が命じられるのは極めて異例だそうで、水見さんの件だけでなく僕へのいじめも理由の一つとして含まれているらしい。
僕へのいじめが発覚したのは今回の事件後に水見さんが全てを先生に話してくれたからだろう。
クラスメイト達は伊達への恐怖心から頑なに口を閉ざしているし、美丘先生がいじめを見抜いたとも考えづらい。
あるいは、保健室の先生か──。
難しいことはわからないが、二人の被害者が出た以上、教育委員会も動かざるを得なかったのかもしれない。
その時、クラスメイトの男子の一人が手を挙げた。なぜ伊達が水見さんを怪我させたのか、どのように怪我させたのかを質問していた。
「ピアノの鍵盤蓋で手と指を何度も叩きつけるようにして挟まれたらしいわ。理由は──」
先生はそう答えると、一瞬──冷たく僕の方を見た気がした。
理由は、どうやら僕へのいじめをやめるよう伊達に注意したからだそうだ。
「ピアノの発表会を控えているのを知っていたから手を潰した」と伊達は自白しているようで、嫌がらせで今回の事件にまで発展してしまったようだ。
クラス全員がギロリと僕の方を見る。
──ということは、僕のせいで大怪我したようなものじゃないか……。
視線に耐え切れず、僕は汚れた机に隠れるようにして顔を伏せた。
「よく聞いてください。〝見て見ぬ振り〟は加害者と同じです。水見さん一人ではなく、皆で協力していれば今回の事件は起きずに済んだと思いませんか」
先生は言葉に力を入れて話した。たしかにそれは正論だ。しかし──。
──先生だって〝それ〟をしてたよね。
僕は心の中で、ドス黒い感情を吐き出した。
「先生に言ってくれれば力になります。いじめをこのクラスからなくせるよう、皆で努力しましょう」
先生は「それでもなくならない場合は、先生自身が対処します」という言葉で締めくくり、水見さんの入院する病院に向かった。
その後、自習の時間が始まった。
しかし、監視する先生がいない教室で自習をする生徒など誰一人としていない。
漫画を読む生徒、スマートフォンをいじる生徒、友達と会話ばかりしている生徒──十人十色だ。僕はただただ、自責の念にとらわれていた。
お見舞いを終えた美丘先生が教室に戻ったのは午後一時。
先生の話では水見さんの怪我は全治6ヶ月、入院は一ヶ月だそうだ。
「──以前のようにピアノを弾くのは、難しいそうよ」
美丘先生の言葉が刺さる。
──僕のせいで、水見さんが……。
有刺鉄線で身体をぐるぐる巻きにされ、少しでも動こうものならそれが皮膚を突き破る。僕の身体は、そんな錯覚さえ覚えた。
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