3/誰もが冷たいわけじゃない

「はいっ。これでよし、っと」


 伊達に叩きつけられた時の額の傷に、保健室の先生が応急処置をしてくれた。

 どうやらあの後、たまたま通りかかった先生が保健室まで運んでくれたようだ。


「どう? 振り向いたり首を横に倒したりして、背中とかに痛みとか出ない?」


 首の動作を確認しても、特に痛みはない。


「いえ、特には……」


 身体の痛みよりも、人と会話が出来ることがなにより嬉しく感じた。

 校内でまず会話を交わすのは、決まって伊達だからだ。


「んー。でも、この後ちゃんと病院に行かなきゃ駄目よ?」


 そう言って、先生は僕のことを優しく叱る。


「────」


 目が合うと、恥ずかしくなって僕は視線を逸らした。


「……本当に、大丈夫ですから」

「そ? でも、全身打撲で頭も打ってるんだから病院で診察受けなきゃダーメ!」


 先生は人差し指で僕の額を優しく突く。

 そして、セミロングの髪を左の耳に掛けて微笑んだ。

 エアコンの暖房の風が鼻をくすぐる──やさしい石鹸の香りだった。


「それじゃ、お母さんに連絡しておくね? 担任の先生にも──」

「待ってください」


 先生の『お母さん』の言葉を聞いて、僕は言葉を遮った。


「母に連絡しないでください」

「…… でもね、怪我をした際の親御さんへの連絡は養護教諭の義務なのよ」


 先生は困った顔をしている。

 母さんに連絡されたくない理由は、父親がいないからいじめられたのではないかと疑われるのが悲しかったからだ。

 母さんが自分を責める姿を──もう見たくはなかった。


「……わかりました。学校、終わったらちゃんと行きますから。その代わり、母に連絡しないでください」

「んー……。それだと私が職務怠慢になってしまうのだけど──何か事情があるのかな? まぁ、そういうことなら……今回だけね?」


 着丈長い白衣のポケットに左手を入れて、先生は右手で軽く頭を掻いた。


「それじゃ、とりあえず担任の先生に伝えてくるね」


 僕は黙って頷くと、先生は職員室に行くために保健室の出口の扉に向かって歩いた。


「……あの」


 扉の引き手に手を掛けようとしたところで、僕は声をかける。


「──?」


 先生は振り返った。

 僕は生唾を飲み込んで、しばらく下唇を噛みながら立ち尽くす。昔から自分の意思を伝えるのがひどく苦手だったのだ。


 ──言葉に詰まる。


 僕は口をモゴモゴさせるだけで、うまく声が出なかった。


「ん? どうしたの?」


 先生は微笑みながら言葉を待っている。


「……えっ、と。……早退するとしたら、昼休みが終わってから……がいいです」

「──? うん、いいと思うよ?」


 先生は少し首を傾けてから頷くと、扉を開けて保健室から出た。

 パタパタとスリッパが廊下を蹴る音が聞こえる。


「……ふぅ」


 僕は椅子に座り、肩の力を抜いてうなだれた。

 保健室に一人残され、頬が熱くなっているのを感じる。


 ──きっと、エアコンのせいだ。


 久々に感じる心臓の鼓動がとても心地よかった。

 椅子から立ち上がり、身体を休めるためにベッドに向かう。

 すると、開けっ放しにされた扉の隙間から先生が顔を覗かせていた。


「過咲くん、ちゃんと寝てなきゃダメよー?」

「……はい」


 笑顔で僕に手を振ってから、先生は足音とともに職員室に向かった。


「────」


 スクールバッグをベッドの下に置き、先生に言われた通り横になることにした。

 枕元には頭部を冷やすようにタオルで巻かれたアイスノンが置いてある。部屋で一人きりになると、空気を伝って感じた石鹸の香りは既に姿を消していた。


 ──やっぱり、さっきのは……。


 得体の知れない感情が顔を熱くさせる。

 僕が出来ることといったら、目を閉じ、思考を強制停止させるくらいだ。

 視界に黒幕が降りる。

 鼻を刺す消毒液の匂いと、遠くで聞こえるかすかなこえ

 意識を繋ぎとめるように、嗅覚と聴覚だけが僕の名を呼ぶ。


 徐々に弱まる引力はやがて意識を手放し、僕は眠りについた。

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