2/受け入れた日常

 午前七時。

 カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。

 ひどい倦怠感に襲われながら、僕はベッドから身体を起こす。パン、と両手で頬を叩いて立ち上がり、階段を下りると、母さんが朝食の用意を済ませて待っていた。


「おはよ」


 僕の家庭には父親がいない。

 母さんが言うには、僕が物心つく前に死んだそうだ。

 しかし、家に仏壇はなく、僕は父親の顔すら確認できずにいた。

 うまく隠しているつもりなのだろうが、おそらく離婚だと思う。

 しかし、それを追求して自分が傷付くのが嫌で、あえて触れないようにしていた。


「……学校は、うまくいってる?」

「うん、大丈夫。下級生がいないから少し寂しい学校だけど、ちゃんと楽しくやってるよ」


 僕は笑顔を作って嘘をついた。

 母さんはホッとした顔をしている。

 たぶん、あの人なりに心配しているのだろう。

 父親がいなくていじめられていないか──と。


 しかし、僕の学校生活の流れはクラスメイトにこの事実を知られた時点で決していた。

 感受性の強い思春期の子供は、僕も含めて〝人と違うこと〟や〝社会一般的に違うこと〟に敏感だ。

 今の家庭環境が友達と異なっていることに気付いたのは小学生の時。それを母さんに聞いた時にひどく悲しい顔をされたのを見て、これは聞いてはいけない事なのだと子供なりに理解した。


 ──僕は人より劣っている存在。


 誰にも話せない苦悩が心に空洞をはらみ、友達とも一線を引くようになった。

 この悩みは、一度だけ保健室の先生に打ち明けたことがある。

 すると、先生は「そんなことないよ」と僕を抱きしめてくれた。「育った環境で人の価値は決まるわけじゃないの。人の価値は優劣をつけちゃいけないし、それぞれが輝いているんだよ」と教えてくれた。

 しかし、頭で理解できても、僕は心で理解することはできなかった。


「……ごちそうさま」


 朝食を済ませ、自室に戻ってブレザーを着る。

 どんなにひどい『いじめ』をされても僕が登校する理由は学校にあった。


 それは好きな人がいるとか──そういうことじゃない。

 僕の存在をゆるしてくれるような──そんな居場所が学校にあるからだ。


 午前八時。

 擦り切れて穴が空いてしまったネイビーのスクールバッグを肩に掛け、階段を降りてから母さんに上辺だけの笑みを見せた。そして僕はそのまま玄関に向かい、ボロボロになったローファーを履いて家を出ることにした。

 ここから学校まで徒歩で二十分はかかる。自転車通学可の区間だったけれど、悪戯をされるのが嫌で歩いて登校するようにしているのだ。

 遅刻ギリギリに登校するのは、なるべく誰とも顔を合わせたくなかったから。そしてなにより、伊達とだけは遭遇したくなかったからだ。

 学校の正門に通り、下駄箱に靴を入れると同時に予鈴が鳴った。


 ──本鈴まで、あと十分だ。


 上履きを取り出すと、中にはいつものように画鋲が入っていた。茶色のインクを垂らしたような踵部分の小さな黒染みは、画鋲が入っている事を知らずに思いっきり踏んでしまった時の名残である。

 少し遠い場所で視線を感じると、それは廊下を歩く小さな音を残して逃げていった。


 ──たぶん、伊達だろう。


 僕は手馴れた手付きで画鋲を取り出し、玄関の端の掲示物のコーナーに刺した。


「……入ってるのがわかってて履くほど、僕だってバカじゃない」


 履いた上履きがまるで足枷のような重量感を錯覚させる。涙はとうの昔に枯れてしまったようで、無心で重くなった足を教室に向かわせた。

 僕のクラスは二階だ。最後の在校生という事で、三階と四階は「音楽室」「美術室」「理科室」などの『特別教室』以外は使用禁止となっている。また、封鎖された教室は生徒と教員が逢引する際に開放されるという噂を聞いたことがあった。

 しかし、酸素不足の金魚のように水面に口を出して息をするのがやっとである僕にとって、そんな噂話は正直どうでもよかった。

 階段の手前、目を瞑って深呼吸をする。

 一歩踏み出す僕の足音が、眩暈と反響音を残した。


 ──トン、トン。

 教室が近付くにつれて、世界が歪んでゆく。


 ──トン、トン。

 息苦しさとともに、身体が綻んでゆくのを感じて──。


 ──トン、トン。

 眩暈……が。


 ──トン……トン。

 視点はいつの間にか足元に向けられ、ピントが合わない一眼レフのように視界の映像はぼやけていった。そして息すら──できなかった。


「──ッ」


 意志に反して脱力し、ガクンと落ちる膝を両手で抑える。

 悪寒が走り、冷や汗が頬を伝い落ちた。


「──くる……しぃ……」


 なんとか肺に酸素を取り入れようと、呼吸が深く早くなってゆく。

 次第に膝を支える手や唇、足にまで痺れが侵食する。


 それは、精神的不安が引き金となる過呼吸〝過換気症候群〟の症状だった。

 なんらかの要因で呼吸が早くなると血液中の二酸化炭素の排出が必要量を超え、血液がアルカリ性に傾いて息苦しくなる。

 すると、反射的に二酸化炭素の排出量を減らそうと脳の延髄が無意識に呼吸停止の指令を出すのだが、大脳の神経細胞は呼吸が停止したことを異常と認識し、酸素を求めて肺の換気機能を促進させる。──この悪循環が過呼吸の正体だ


 両手の力だけでは上体を支えきれず、僕は四つん這いになるような形で倒れこんでしまった。


「よォ、過咲すぎさきィ。大丈夫かァ?」


 聞き覚えのある声だった。

 力を振り絞って階段を見上げる。

 地面を這う蟻を睨みつけるような目でこちらを見ている男は──伊達理だった。


 ──目ノ前ニ、イルノ…… ハ、伊達、ダ。


 身体が硬直した。一年間の苦痛が走馬灯のように蘇り、瞬間的にその全てを再体験する。


「────」

「……ンだよ、つれねェな。朝の挨拶もできねェのかよ」


 左の脇の下に伊達の頭が入り込み、成されるがままに肩を組む形になって階段を上がり始める。

 僕は驚いた。

 彼が過呼吸を起こした僕を教室まで運ぶことは今までなかったからだ。


 ──きっと何か企んでいる。


 すぐにそう直感した。伊達が善意で僕に対して手を貸すなんて、たとえ天と地がひっくり返ったとしてもあり得ないからだ。


「ほら、遅刻すンぞ。急げ」


 過呼吸でまともに呼吸ができないのを知っているのに無理を言う。仮に呼吸が正常だったとしても、砂を噛むような味気ない会話を交わしたところで僕の中の本質が変わるわけではないのだ。


「────」


 情けなくて仕方なかった。

 自分の足があるというのに、前に一歩踏み出せないこの非力さが──。

 着席の時間まであとわずかだった。

 担任の美丘みおか先生が階段を上がってくる足音が聞こえると、一瞬、伊達の口角が上がったように見えた。


「あら、過咲君と伊達君じゃない。二人ともおはよう。もう本鈴鳴っちゃうよ?」

「あ、おはよーございます。過咲クンがちょっと体調悪そうなンでー、肩貸してあげてるトコでーっす」


 間延びした声で伊達は言う。


「そう、助け合いはいい事だわ。でもね、伊達君。過咲君は過呼吸を起こしているみたいだから保健室で休ませてあげて」


 僕が過呼吸を起こすことは毎日のことだった。そのせいか、美丘先生はあまり過呼吸を起こした僕を見ても慌てる様子はない。


 ──理解してくれている?

 特別扱いせずに、他の生徒と同等に僕を見てくれているんだ。


 ──関心がない?

 だから、過呼吸を起こした僕を助けようとしてくれない。


 ──見下している?

 父親がいないから、先生も僕のことが嫌いなんだ。


 ──伊達と仲良しだと勘違いしている?


 本当は、本当は、ほんとうは、ホントウは、ホントウハホントウハホントウハホントウハホントウハホントウハホントウハホントウハホントウハ──!


 肯定と否定の感情が交差する中、僕は──何も言えなかった。


「それじゃ過咲君のことを任せていいかな? 2人とも遅刻扱いにはしないから」

「ハーイ、あざーす」


 美丘先生は二階の教室に吸い込まれるように入っていった。

 呼吸はまだ正常なリズムに戻っておらず、悔しいけれど、僕は伊達の肩に寄りかかるしかなかった。


「……遅刻にならないとさ。よかったなァ」


 先生が見えなくなったのを確認すると、伊達は無理矢理肩を解いた。もちろん、足に力が入らない僕は転倒した。


「あー、だりィ。保健室に行くなら一人で行けっての」


 やはり、この男に善意などなかった。本性は──悪意そのものだ。

 倒れこんだ僕に手を貸してくれたのも、先生の評価を上げるための気まぐれに過ぎない。


「それともアレか? パパがいねェと何もできねェってか?」


 苦しむ姿には目もくれず、伊達は僕に罵声を浴びせる。

 それに、何もできないのは父親がいないからではない。

 原因は──僕自身の〝弱さ〟だ。

 ──大丈夫、大丈夫だ。

 そう言い聞かせ、恐怖心を拭うことだけに神経を注ぐ。

 血液中の二酸化炭素量を正常にするためにゆっくり息を吐いてから息を止め、また息を吸った。


「……できる。じぶんで、できるよ……」


 そう。誰も助けてくれないなら、自分の足で立ち上がるしかないのだ。


「じゃあ、さっさと行けよ!」


 立ち上がる動作をした僕を、伊達は容赦なく押し蹴る。

 ぐるんぐるんと身体を回転させ、僕は段差の角に身体をぶつけながら階段を転げ落ちた。

 ──頭を。

 ──腕を。

 ──肩を。

 ──腰を。

 ──脚を。

 全身をバットで殴られるような衝撃が走る。

 そして、僕はうつ伏せになって倒れこんだ。

 方向感覚を失う。

 どちらが天井だ? どちらが床だ? 僕は今、仰向けなのか? うつ伏せなのか?

 そんなものはどうでもよかった。今は、ただ──。


「──いたくなんか、ない」


 その言葉は空を切り、痛覚すら噛み砕いて、感情が──歪んだ。

 呼吸のリズムはいつの間にか落ち着きを取り戻し、僕は睨みつけることもなく、微笑んで伊達を見上げる。

〝恨んでなどいない〟という精一杯の誠意のつもりだったが、それが逆に伊達の神経を逆撫でしてしまったようだ。

 伊達はグシャグシャと髪を掻きながら舌打ちをした。


「──チッ! お前には〝闘争心〟ってモンがねェのかよ」


 上から伊達が下りてくる。


「ナヨナヨしやがって。一番ムカつくンだよ、そういうの」


 目の前に立つと僕の髪を掴み、不気味なほど静かな声で僕の耳元に囁いた。


「──もう教室に入ってくンじゃねェ」


 それは罵声を浴びるよりも深く、深く僕の心に〝恐怖〟を刻み込む。


 ──教室に入ってくるな。教室ニ入ッテクルナ。

 キョウシツニ、ハイッテクルナ──。


 耳と脳裏で反響し、残響を繰り返す否定的言動。伊達が僕に命令し、僕は自身に命令する。

 そして、伊達は髪を掴んだまま床に頭を叩きつけ、背中を思い切り踏みつけた。

 そう──何度も、何度も。


「──ッ。もう……やめ──」


 そう言うと、伊達は最後に脇腹を蹴り上げた。

 痛みに悶えながら身体を回して仰向けになると、額が腫れ上がっているのを感じた。たぶん、さっき床に叩きつけられたせいだろう。

 伊達はそれを確認すると、階段を上がって教室に向かった。


「────」


 そして──僕はそのまま意識を失った。

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