木崎玲子の日記

おとーふ

2019年4月1日

 こんにちは。


 これは、私、木崎玲子が書く日記です。


 恐らくあなたは、私の数世代先の方でしょう。あるいは、数十世代かも知れません。しかし、私の与り知るところではありません。あなたがこれを読んでいるときに日本語の表記が変わっていないように祈りながら、この日記を書いています。


 話が逸れました。


 なぜこの日記を書いているのか。そこを説明しておかないといけませんね。後世に謎を残したら、いつ謎解き系テレビ番組で紹介されてしまうか分かりません。もっとも、あなたが読んでいる時点でそんなものがあるかどうかは分かりませんが。


 今の時刻は、夜11時21分。東京都板橋区の低層マンションの2階の私の家の、ダイニングキッチンで鉛筆を動かしています。およそ20分前、隣にあるコンビニの駐車場で、私はひとりの老人と出会いました。




 彼との出会いが、私の心に安らぎを与えてくれました。




 私は、俗に言う社畜と呼ばれる人間です。朝から晩まで一日中仕事漬けになり、自分の生き甲斐が会社第一になってしまった者です。それが事務作業であったり、建設現場であったり、バスドライバーであったり、様々な職種があります。が、私の場合は、東京都の郊外にある、ある大企業の発注先である零細企業に勤めています。


 というより、経営しています。


 父のコネでその自動車会社と契約を結べたものの、社会に出たばかりの小娘のもとで働きたい、というモノ好きは現れませんでした。


 工場の立地も影響したのでしょう、私は社長兼社員の身となりました。


 その頃から私の人生に幕が下された感覚がつきまとっていました。




 今日も、電車を乗り継いで無感情に家へと向かっていました。最寄駅から歩いて10分ほどの立地にある私のマンションは、一昔前の高度経済成長期の直後に、私の父が破格の値段で購入したものでした。


 そうそう、私の父の名前は恐らくあなたの時代まで語り継がれているでしょう。なんといっても、木崎家を一気に大資本家の一族にしたバケモノですから。その代わり、その娘が設立した零細下請け企業のことは露ほども知らないと思います。


 自宅まで一本道だったので、そこそこの目抜き通りの歩道をひとりで歩いていました。夜も更けており、歩行者はもちろん自動車もあまり通っていなかったのを覚えています。


 そんな中、毎日の日課として丁度駅と自宅の中間地点ぐらいにあるコンビニは異様なほどの蛍光灯の明かりで輝いていました。


 私は、軽く手で目をまもりながらコンビニのドアをあけました。今になって言えることですが、その時はまだ、あのご老人は車止めに座ってはいませんでした。




 コンビニの扉を開けると、打てば響く鐘のような店員の応対が耳に入ってきました。毎晩顔を合わせてすっかり顔見知りになった彼女に軽く会釈をして、一番奥の通路まで進みました。


 通路の入り口付近右側に陳列されているカフェオレを手に取り、ついでに隣に置かれていた100円おにぎりも購入することにしました。


 そのまま180度身を翻し、先程の女性店員のレジへ向かいました。この時間帯だと夜勤は彼女しかいないのか、レジは彼女のところしか空いていませんでした。もっとも、時間が時間ですからあまり売り上げは見込んでいないのでしょう。


 会釈はするが、かといって雑談をするような間柄でもないため、彼女が会計をすませると私は少しだけ笑みを浮かべながらコンビニのドアを押しました。


 車止めに、痩せ細ったご老人がいました。


 こんな時間にいるのは変ですし、もしかしたら夢遊病の方かも、と思い、大丈夫ですかと軽く声をかけてみました。ご老人はこちらに気づいていなかったらしく、驚いたような表情をしてこちらに向きました。


「お嬢さん、こんな時間に何を?」


 ご老人はそう言いました。しわがれていましたが、それでいてどこか野太い声でした。私は、不思議と答えを返していました。


「仕事帰りです。あなたは?」


 変に個人情報などを見せびらかすのも危険なので、その時は概要を伝えるに留めておきました。すると、ご老人が目を細めて、


「美しいお嬢さんがこんな夜まで仕事とは。旦那さんは何をしているのかね?」


 いきなり爆弾発言をぶち込んできました。もっとも、私はそのような類の質問にはすでに慣れていたので、あまり動揺はせずに言いました。


「私は、独身です。あまり、恋愛というものに興味がないので」


「そうなのか、失礼した」


 ご老人は、素早く自らの言動を撤回しました。


「いいですよ、慣れてますから」


 事実だったので、特に感情を込めるでもなく、そう言いました。


「ときにお嬢さん。儂、何歳に見えるかね?」


 すると、ご老人がいたずらっ子のような目で私を見てきました。こういう場合は見た目より少し下目を狙って答えるのが相場となっていますが、疲れていた私は一般常識を忘れてこう口走りました。


「80歳ぐらいですか?」


「ホッホッホ、ありがたいの。本当は、94歳じゃ」


 それを聞いたとき、私は心底驚きました。痩せ細っているとはいえまだまだ健康そうな体つきに、よく通る声。健康に暮らしていらっしゃるのでしょうか。


「そうなんですか。かなりお若く見えますよ」


 これは私の本音でした。


「ありがとう。しかし、儂はこれじゃから」


 そう言ってご老人は、右手を差し出してきました。


 そこにあるはずの手がなく、手首あたりで皮膚が途切れていました。


「あ……」


 そう言って、私は言葉が続かなくなりました。


「……ああ。儂は右手を手榴弾によって失った。そして傷痍軍人として、同胞達を戦地に置き去りにしてのこのこと帰ってきた」


 太平洋戦争で戦われたのでしょう。ご老人の顔には、やりきれない後悔の念が表れていました。


 いつしか、私はご老人の話に聞き入っていました。ご老人の隣にある車止めに腰を下ろし、体をご老人の方向へとなおしました。


「帰ってきた儂を待っていたのは、無慈悲な現実じゃった。愛しい妻と可愛い娘を護るために出兵したというのに、疎開先で爆撃にあったそうじゃ」


 悲しい事実に、はっと息を呑みました。自分は傷つき、大切な人も失うなんて、この方はどれだけの思いを胸にしているのか、と考えました。


「しかし、悲しみに暮れていた儂を、近所の人達が元気付けてくれた。彼らだって食糧難のはずなのに儂に食べ物を分けてくれた。衣服の補給も来ないのに、儂に合う服をくれた。そして、国の士官によって取り立てられた金属を隠し持っていて、その金の腕時計をわしにくれた」


 そう言って、ご老人は左手に巻かれたボロボロの腕時計を見せてくれました。金の塗装は剥がれ落ち、バンドのところもほつれた箇所がいくつも見当たりました。しかし、時計は動いていました。


「儂は、その時初めて人間の美しさ、助け合いの大切さを知った。それまで、人間なんか所詮お互いを殺しあって自己満足するだけのものだと思っていたのにな」


 一語一句を噛みしめるように、ご老人は言いました。


「そうなんですか……」


 私も、思うところがありました。


 マンションの隣の部屋に住む、気の良い女性です。実家から仕送りが来たと言って、わざわざ毎回私にお裾分けをくれました。純粋な優しさに溢れたその行為は、数少ない私の心が潤む瞬間でした。


「ま、ボケた老人のただの雑談だと思ってくれ」


 今までとは打って変わって軽い口調で、ご老人が言いました。そして、コンビニの脇の道へ向かって歩き始めました。


「いいえ、心を打たれる話でした。もしご縁があれば、また明日の夜もここでお待ちしています」


 ゆっくりと去っていくご老人の背中に、私はそう声をかけました。


 ご老人は、手のなくなった右手を上げるだけで、何も言わずに暗闇に溶けていきました。


「……」


 私は、その場で少々立ち尽くしていました。


 ご老人の言葉が、まだ脳内でこだましていました。




 こんな事があり、私は帰り着いた矢先テーブルに陣取りました。そして、この日記を書き始めました。


 今の時代、少なくとも私の時代では、近頃インターネットが急速に普及しています。他人と顔を合わせずに交流できるようになり、その分じかに交わる時間が減ってしまいました。あなたの時代でこの社会問題が解決されているか、それとも悪化しているか、私の知る余地ではないです。


 しかし、もし悪化していると感じるならば、このような心で他人に接してください。そうすれば少なくとも、私のように仕事に囚われて人生の本質を見失い、心が荒んでいくような方が減るはずです。それが、この一夜限りの日記の願いです。


 あなたが、社会を変える原点になってくれることを願っています。




 2019年4月1日

 木崎玲子

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