始まりの夏休み

浅井基希

第1話

(1)

 雲行きが怪しい。

 籐野望月ふじのみづきは、悪戦苦闘していた物理のテストから窓の外へ視線を移す。

 青く澄んだ空に、暑い夏の日独特の入道雲が多い被さろうとしていた。


 望月が待ち焦がれていた夏休みだというのに、その初日に学校で追試のテストを受けている。他の生徒は一人もいない。担任の柚木崎紗奈ゆきざきさなと二人きりだ。

 それというのも望月がテストの時期に夏風邪をひいて休んでいた為である。


 望月が悪戦苦闘している理由は二つある。

 一つ目の理由として、望月は元々物理が得意ではない。二つ目の理由は、追試対策として友人にテスト問題を教えてもらい、答えをほぼ暗記して完全に油断をしていたためだ。

 今までの追試の話を聞くに、テスト問題がそのまま使い回されるというのが常だったのだが、今回は、全く違う問題のプリントを渡されたのである。

 この辺り、教師という人種は抜け目がないと思う望月だった。もっとも、抜け目がないのは、紗奈に限ってのことかもしれないけれど――


 しばらくの間望月は雲行きの怪しい空を見ていた。


「ふーじのー、手が留守になってる」

 紗奈が教壇の椅子、ではなく机の方に腰をかけ、足を組んだままの偉そうな姿勢で目ざとく指摘をする。行儀の悪い格好だが不思議と様になっている。

 それというのも高校生の時に、若手の女優として活躍していた名残なのだろう。

 続々と映画の主役にも決まり、女優としてのステップを順調に上るであろうと期待もされていたが、ある大作映画を最後の作品だと引退をして、当時それなりに話題になったそうだ。

 芸名で活動していたので、今、紗奈が教師になっていることはあまり知られていないが、今でもネットでその芸名を検索すると、ファンサイトや画像がヒットする。


 普段はスーツなどのしっかりとした服に身を包んでいるが、夏休みということもあってかジーンズに長袖の青いボタンダウンのシャツといったラフな格好をしている。

 シンプルな服装ゆえにスタイルの良さが一段と際立っていた。


「急に暗くなったから気になって見てたんだよ」

 もしゲリラ豪雨でも降れば、望月は傘を持っていないし、帰りが困ると思ったのだと続ける。

「降ったら車で送ってあげるわよ」

 紗奈は少し思案した後、呆れ気味に肩をすくめていた。

「ホント!? ラッキー」

「だから、早く問題解いてね。先生も早く帰りたい」

 そう言うと紗奈は満面の笑みで望月を見る。

 その笑顔に嫌みは全くない、同性の望月でさえ見とれてしまいそうなくらい魅力的だ。

「女優の微笑みか……」

 ぽつりと呟いた望月の一言に紗奈は痛いところを突かれたといった表情で望月を見る。

「……十何年も前の話を持ってこない」

「高校生の時だったんでしょ? どうして辞めたの? もったいないよね」

 紗奈は今でもそのまま芸能活動をしていても何らおかしくない容姿をしている。

 年齢も三十歳を超えたようには見えないし、スタイルも良い。美少女が大人になってメイクをすれば――それほどしなくても――美人になるのが自然の摂理なのだろう。と望月は思う。

 紗奈はそれだけではなく、内面からも綺麗な人だけど――多分。

 本人はあの頃より太ったとは言っているが、望月から見る分には全く問題のないスタイルをしているし、順調にキャリアを重ねていた中での突然の引退だって、望月には不思議に思える。

「訊きたいの?」

 望月はテストそっちのけで頷く。

「――大事な人との約束」

 紗奈は少し考えた後で、答えていた。

「誰? 恋人とか?」

「そっか……まだだった」

 望月の言葉に、紗奈がそう呟いた。

「まだ?」

「あー、こっちの話。さあ、早く問題解いて早く帰ろう。はーやーくー、はーやーくー」

 望月を急かすように、紗奈が手拍子を打つ。

「先生。早く解くから問題のヒントちょうだい」

「それは駄目でしょ」

「だってわからないもん」

 望月が口を尖らせる。紗奈は望月が物理が苦手なのを知っているのに――

「実際のテストより簡単にしたんだけどなあ……他の子に内緒にしてくれたら解説してあげる」

 溜息を一つ吐いた後で、紗奈が机から飛び降りて望月の机に近付いてくる。

「やった! だから先生好きー!」

 望月は両手を挙げて紗奈を歓迎していた。

「はいはい。気軽に好きとか言わないの」

 大人になると「好き」の重さが違うんだから――紗奈はそう続けている。

 望月の「好き」も結構大事なほうの「好き」に入るのだけど、それは言わないことにした。

 憧れに少し近くて、恋よりは少し遠い――望月はそんな感情を紗奈に抱いているのだ。

 でも多分、一時の感情で終わる。それもわかっていた。


(2)

 無事に追試も終わり、紗奈がその場で採点して、一応パスできた。その頃には窓の外が一気にかき曇って、雨が降り出していた。遠くに雷鳴も聞こえる。

「先生、車で送ってね」

 望月は帰り支度をして、職員室まで紗奈と歩きながら、期待に満ちた目で紗奈を見た。

「わかった。約束したもんね」

 紗奈はそう言って職員室に入ってしばらく――自分の荷物を持って、出て来る。

 職員室にはまだ他の先生たちが居るようだ。


「先生っていつも車通勤だっけ?」

 職員室から玄関口まで、ゆっくりと階段を降りながら、望月が紗奈に尋ねる。

「夏休みだけ。普段は電車だよ」

「逆のほうがラッシュ避けられるんじゃない?」

「そうかもね――あれ、車の鍵忘れてきちゃった。ちょっと待ってて」

 紗奈がジーンズのポケットをしばらく探って、職員室へと踵を返した。

「しっかりしてよーって私もロッカーにスマホ忘れた。取ってくる」

 望月の学校はスマートフォンなどの電子機器の類いは、基本的には持ち込みOKなのだが、テスト中には教室の鍵付のロッカーに入れておくという決まりがあった。

「しっかりしてよー」

 自分の教室があるフロアに駆け上がる望月の後ろ姿に、紗奈が笑いながら声をかける。

「先生がそれ言う?」

 自分だって車の鍵忘れたじゃない――望月はそう言いながら階段を昇っていった。

「ついでに車も回して来るから、ゆっくり取っておいで」

 優しい紗奈の声だった。


「――うわぁ!」

 望月が自分の教室に着いた頃には、とても近くで雷が鳴り始めていた。

 突然の稲光と、激しい雷鳴に、望月は思わず身をすくめる。

 屋内なので自分に落ちてくる訳でもないのだけれど、怖い――少しだけ――ものは仕方ない。

 望月はロッカーから素早く自分のスマートフォンを取り出して、教室を後にしていた。

 紗奈にはゆっくり取ってこいと言われたけれど――階段を降りる望月の足は、近付く雷鳴と共に徐々に早くなっていく。

 一際大きな雷の音と、鋭い稲光が望月の身体を包むように鳴り響いた。

 瞬間――何か黒い靄に吸い込まれるように、望月は階段から足を滑らせていた。


(3)

「痛……」

 階段から滑り落ちた望月は、肩の辺りを床にぶつけていた。

 腕が痛いけれど、頭を打たなかっただけマシだろう。それでも痛みでしばらく動けなかった。

「あの……大丈夫?」

 望月の目の前に手が差し伸べられる。この声は、紗奈だ。望月はその手を掴んだ。

 ――のは良いが、その姿を見て、望月が驚きの声を上げていた。

「せ、先生!?」

 目の前の紗奈は何処か若くなってるし、メイクもしていない。

 しかも望月と同じ制服を着ている。

「なんで先生が制服着てるの?」

 望月は痛みと謎の姿をした紗奈に混乱して、思わず立ち上がっていた。

「先生って……大丈夫? 保健室に行く? 養護の先生居るかな?」

 紗奈は珍しいものを見るかのような目で、望月を見ていた。

「だって柚木崎先生……だよね?」

「確かに私は柚木崎だけど。大丈夫? 頭でも打った?」

「どうして先生が制服着てるの? ってかなんか若い……」

 望月は目の前の事態を全く飲み込めていない。というか飲み込める訳がない。

「うーん。大丈夫かな……」

 紗奈は何か考えている様子で、首のチョーカーをさわっている。

「やっぱり保健室行こう。歩ける?」

 チョーカーを触る手を止めて、紗奈が望月の手を取った。

「……わかった」

 望月には何が何だかわからないけれど、頭を打ったのかもしれない。だから紗奈がこんな姿に見えているに違いない。素直に言うことを聞いて保健室へと向かった。


「って――なんか外、暗くない?」

 保健室までの道程で、紗奈が窓の外を見て、そう言った。

「だって大雨で雷も鳴ってて……」

 それに驚いて足を滑らせた――望月はそう続ける。

「だからって、暗すぎない?」

 紗奈は外に視線を移したままだった。

「ホントだ……」

 窓の外は暗い。目をこらしても何も見えない。何処までも闇が続いている。

 校舎内は明るいのに、窓一枚隔てた外には何も見えないのだ。

 感じたのは、恐怖――それしかなかった。


(4)

「養護の先生居ない……っていうかここに来るまでも誰も居なかった。おかしいよね?」

 とりあえず座ってて――紗奈はそう言って望月を椅子に座らせていた。

 保健室も何か、紗奈が見ている保健室と感じが違う――置いてある備品が何処か古いデザインのものばかりだった。

「あれ? 今って二〇一五年の七月だよね?」

 保健室の壁に掛けられているカレンダーは、一九九九年七月になっていた。

「何を言ってるの? 今は一九九九年の七月」

 紗奈が何かを探しながら、そう答える。

「ええ? それじゃあ私まだ生まれてない……」

 望月は一九九九年八月生まれだ。

 言いながら望月は心の中で「そんな馬鹿なことがあるか」とツッコんでいた。

 だけど、此処が本当に一九九九年なのだとしたら――望月が居るのは十六年前の学校だ。

「生まれてないって――ああ、もういいや。変な人なのはわかった。あなた、名前は?」

 紗奈は棚から湿布を取り出して、痛いところに貼って、と望月に投げ渡す。

「え? 名前――?」

 知っているはずなのに、なんで今更そんなことを訊くのだろう。

 受け取った湿布の袋に書いてある有効期限を見ても、一九九九年と書いてあった。

「あなたは私を知ってるけど、私はあなたを知らないの。名前くらいは教えて欲しいでしょ」

 もっともな――だけど何処か腑に落ちない紗奈の言葉にやりきれない何かを感じる。

「藤野望月ね。覚えておく。で、どっか痛いところとかないの?」

 言われて望月は自分の身体に注意を向けるが、さっき打ち付けた肩の辺りはもう痛みが引いている。他にぶつけたところもないみたいだし、大丈夫だと答えていた。


「そうだ、連絡――って、圏外だ……」

 望月はスマートフォンを取り出して画面を見たが、圏外の表示とあり得ない時間を差したデジタル時計が映し出されていた。足を滑らせた時に壊れたのだろうか。

「なにそれ?」

 紗奈は望月が手に持っているスマートフォンを不思議そうに見ている。

「え? スマホだけど」

「スマホ?」

「携帯電話だよ」

「携帯ってこういうのでしょ。そんなの見たこと無い」

 紗奈は制服のポケットから小さな液晶画面の携帯電話を取り出した。

 望月が幼い頃にぼんやりと見たような覚えがあるものだった。

「ええと十六年後にはこんな機種が一般的で……そうだ! これ、先生だよ」

 校外学習で紗奈――先生のほうの――と一緒に撮った写真を思い出し目の前の紗奈に見せた。

 壊れているならまともに動くはずがないのに、通信以外の操作はスムーズだった。

「十六年後……で、これが私って言いたい訳?」

 紗奈は画面をじっくりと見ている。

「そうだよ。物理の先生してる。さっきも追試で、帰りに車で送ってくれるって言って……」

「ふーん……あなたの話、本当みたいね」

「――信じてなかったの?」

「まだ生まれてないとか言っちゃう人を簡単に信じられる訳ないじゃない」

 紗奈はそう言うと、自分の荷物を持って保健室を出て行こうとする。

「先生、待ってよ」

 望月は慌てて呼び止める。こんなところに一人で置き去りにされるのは怖い。

「その先生ってのやめて。紗奈で良いから」

「わかった。紗奈、ね。何処に行くの?」

 一緒に行く――と、望月は椅子から立ち上がる。

「他の人が居ないか探しに行く。外は暗いままだし、何かおかしなことになってるみたい」

「誰も、居なかったら?」

 そんなこと、想像するだけで怖いけれど――訊かずにはいられなかった。

「その時はその時考える」

 度胸があるのだろうか、紗奈は軽く言い捨てていた。


(5)

「職員室にも誰も居ない……絶対おかしい」

 そう言って紗奈が溜息を吐いていた。

 あれから、校舎内で誰かが居そうな場所へと足を運んでみたのだが、何処も空振り――人の気配すらなかった。

「窓の外もまだ暗いままだよ」

 望月は試しに窓を開けて外に手を伸ばしてみるが、自分の指先が見えなくなってしまうほどの闇に飲まれてしまう。

「……何、これ」

 このまま、この暗闇に飲み込まれてしまいそうな――途端、紗奈に身体を強く引き戻された。

「よくわからないけど、危ないと思った」

 外には期待できない――紗奈はそう言いながら、窓を閉めている。

「えっと、ありがとう……」

 あのままだと、多分望月はあの闇に飲まれていたと思う。命拾い――なのだろうか。

「とりあえず、保健室に戻ってから考えよう。ベッドがあるから休めるし」

 紗奈が不思議なほど冷静に、そんな提案をしていた。

「――うん。ってなんでそんなに落ち着いてるの?」

 紗奈は何故、こんな訳のわからない状況で、どうして淡々としていられるのだろうか――

「なんでって訊かれても。元々そういう性分なんじゃない?」

「そんな他人事みたいな」

「他人事みたいなものだよ――ああ、これが頭にあったからかも。流行ってるよ。読む?」

 そう言って紗奈は自分のスクールバッグの中から一冊の本を取り出して望月に手渡す。

「なにこれ? ノス……トラ、ダムス? 予言?」

 ぼんやり聞いたことがあるような、ないような――望月は首を傾げていた。

「ノストラダムスの大予言――今月で世界が終わるんだって。そんなの馬鹿らしいと思ってたけど、この状況じゃあ信じちゃうかもね」

 外は何も見えないし、校舎には望月と紗奈以外の人の気配がない。物音一つしない。

 全ての時間が止まったような感覚とはこういうものなのだろうか――

「校舎の中だけが無事……なのかな」

 望月は保健室までの道を恐る恐る進んでいた。

「わからない――だけど、とりあえず私たち二人はこうして生きてる」

 紗奈は対照的に最初は早足で歩いていたが、望月の様子を見て歩調を合わせてくれる。

「そうだよね……」

 何故、紗奈がこんな姿なのかわからないし、望月のことも憶えていないようだけれど、目の前に居るのが十六年前の紗奈なら、それも筋が通る。

 望月は、どういうわけか過去に来てしまった――

 ぼんやりと――確信したくない事実が徐々に強く濃くなっていく。

「藤野さん――」

 名前を呼ばれて、思考が引き戻された。

「望月で良いよ。なんかこっちだけ名前呼び捨てしてるの不公平」

 自分の置かれている状況だけでも望月は精一杯のはずなのに、紗奈と会話している時だけは、得体の知れない恐怖から逃れられていた。

 何故なのかわからないけれど、紗奈の存在がとても心強かった。

「じゃあ望月。これからどうする?」

「え、えっと、どうしよう……」

「とりあえず色んな話は保健室に戻ってからにしよう」

 答えの出せない望月を見て、紗奈がそう言った。


(6)

「――で、私は何故か芸能界を辞めて、先生になってるって訳だ」

 保健室に戻り、一時間ほど――望月が紗奈に自分がさっきまで居た学校の話をしていた。

 スマートフォンの中に残っていた画像やメッセージの履歴を見せながら、自分が二〇一五年の人間だと本当に信用してもらえるように。

「そう。信じてくれる?」

「望月の言ってることが本当だったら――ってもそのスマホ? だけでも十分謎だけど、芸能界を辞めてるってのがもっと謎」

 チョーカーを触りながら、紗奈がもっともな答えを返していた。

 全てが順調で、この後のスケジュールも再来年まで決まっていると紗奈は言う。

「だって、大事な人と約束したって言ってたよ?」

 ついさっきまで、望月と紗奈――先生の――は、あの追試の時間にそんな話をしていた。

「そんな人、何処にも居ないのに?」

 目の前の紗奈は、望月が見たことのない冷めた微笑みでそう返した。

「でも……」

 それなりに知っているはずの人なのに、紗奈がとても遠い人に思えてしまう。

 一人で取り残されたみたいで、とても心細い――

「なんで泣きそうになってるの?」

 望月の感情が顔に出ていたのか、紗奈が軽い調子でそれを吹き消すようにしていた。

「だって、大好きな先生なのに、知らない人みたいなんだもん」

 望月にとっては紗奈は憧れで、優しくて、大好きな先生だ。それなのに――

「先生はやめて――って、そうだね。私は望月を知らない。だけど望月は私を知ってる。その大事な人っていうのも、これから出て来るのかもしれない。だから泣くのだけはやめて」

 どうしたら良いかわからない――紗奈はそう続けていた。 


「……ずっとこのままだったら、どうしよう」

 数十分、いや数分だろうか――二人の間には沈黙が流れていた。

 その空気を破って、望月が不安を口にしていた。他に何か話題はなかったのかとも思うけど、今の状態ではそれが一番の問題だった。

「少なくとも餓死はしないんじゃない?」

 紗奈はまた短く、サラッと返していた。

「どうして?」

「さっきから何時間経ってるのかわからないけど、喉も渇かないし、お腹も空かないから」

「ホントだ……」

 校舎内だけだが、結構な距離を歩いているので、それなりに汗をかくはずなのにそれもない。

「……もしかして、もう死後の世界とか言わないよね?」

 望月は考えていた一つの可能性を口にした。

 こんなこと積極的には考えたくはないけれど――不意に、紗奈が望月の手首を持つ。

「脈はあるけど? これ痛い?」

 紗奈は望月の脈を測ってから、頬をつねる。

「――痛いよ」

 望月は紗奈の手から逃れながら返事をした。

「じゃあ、生きてる。簡単に死ぬとか死んだとか言わない。もう目の前で死なれるのは沢山」

「ごめんなさい……目の前?」

 目の前で――紗奈のその言葉が望月に引っかかった。

「――あの時、助けられなかった人たちを思い出す」

 そう話す紗奈は、苦痛に耐えているような表情だった。

「あの時……」

「四年前――一九九五年、何があったか知ってる?」

「ええっと……」

「阪神淡路大震災。二〇一五年になったらもう忘れられてるかも」

 二〇一五年を生きている望月からすれば、二十年前のことになる。

 紗奈はその時、近しい家族を失ったと、また他人事のように話していた。

 目の前で次々に運び出される家族を、ただ見ているだけの、無力な自分を思い知らされたと。

 その後、遠縁の親戚の家に引っ越して来て、たまたまスカウトされて芸能界に入ったそうだ。

「授業で聞いたことある。だけど、その後にも沢山大きな震災があって……」

 今でも大変な思いをしている人が沢山居る――望月はそう続ける。

「そう――そっか。未来ってそういうものか」

 紗奈は寂しそうに笑っていた。

「……ごめんなさい」

 忘れ去られているわけではないけれど、過ぎていく日々の中でそういった記憶が薄れていくのも仕方のないこと――それくらいは望月にだってわかるのだが、何処かやりきれない。

「どうして謝るの?」

「先生がそんなに大変だったの、全然知らなかった」

「別に、私一人だけが大変な訳じゃないし――って、先生じゃないからね?」

 紗奈は沈んでいた空気を打ち消すように明るく返していた。

「ごめんなさい」

「望月は謝ってばっかり。でも、ありがとう、心配してくれて。優しいね」

 紗奈が微笑んだ。その面影は、望月が知っている紗奈の笑顔と同じだった。


(7)

「私の携帯も駄目だ。全然繋がらない」

 そう言って紗奈が携帯電話のフラップを閉じる。

 あれから何度も、大体の時間――体感での――を計っては携帯電話の電波状況を見たり、二人で校舎内を誰か居ないか探索したりしていた。

 その度に手持ちのノートに回数をメモしていたが、不思議なことに探索が百回を超えても、身体には疲れは全く出なかった。

 残念なことに、誰か他の人の気配もなかった。

 二人の携帯電話のバッテリーも全く減っていない。

 通常、圏外なら携帯電話のバッテリーは早く減るものなのに――

「もう二日くらい経ってる……よね?」

 体感ではそのくらいのはずだけど、眠気が来ないので一体今がいつなのかわからない。

 望月は保健室のベッドに寝転びながら、メモしているノートを読み返していた。

「多分……」

 隣のベッドの紗奈も短く答える。この状態は体力的には辛くはないけれど、精神的には辛い。


「このまま……どうなるんだろう」

 望月は何度目になったかもわからない愚痴をこぼす。こんなことを言ってもどうにもならないし、紗奈まで不安にさせるかもしれないのに――

「――望月のところには先生の私が居るワケだよね? だったらいつかは戻れるんじゃない?」

 望月の不安など知らないといった風に、あっけらかんと紗奈が返す。

「そんな簡単に……」

「だって事実でしょ。望月のところには私が居る」

「う……そうだけど」

 もしも自分だけが取り残されるのだとしたら――悪い想像はどんどん膨らむ。

「大丈夫、戻れるよ。だから泣きそうな顔しないで。放っておけなくなる」

 泣かれると弱い――紗奈が困ったように呟いていた。

「ごめんなさい……」

 此処で紗奈を困らせても何もならない。望月は大きく深呼吸をして気分を持ち直した。


「ホント、望月は謝ってばっかり。いつもそんな感じ?」

 ベッドの上で紗奈が望月のほうに向いて寝返りを打ち、そう尋ねる。

「いつもは違う……でも、先生の紗奈も困らせてるかも……」

 実際、憧れの紗奈に構って欲しくて、大した用事もないのに職員室や理科準備室に色々話をしに行ったりしている。

「私、そんなに優しい先生になってるんだ?」

 想像が出来ない――紗奈はそう溢していた。

「優しいよ? 楽しいし、綺麗だし、憧れる。だから大好きな先生」

「可愛いね。そういう生徒なんだ。だったら私も構ってあげたくなってるんだろうな」

 まだ見ぬ自分を想像しているのか、紗奈は楽しそうだった。

「なんか変だね、私はまだ先生――紗奈を知らなかったのに懐いてたとか」

「まあ、私の魅力からしたらそうなるよね。一応人気女優だし」

「……自分で言う?」

 随分大胆で自信に満ちた――でも何処か紗奈らしいと望月は思った。

「それくらいじゃないと芸能界なんてやっていけない」

「芸能界も大変なんだ?」

「まあね。セクハラとかめっちゃあるし」

 サラッと話した紗奈の言葉は、少し関西のほうのアクセントだった。

「え、許せない」

「でしょ、未来の私によく我慢したって言っといて」

「うん。言っとく」

 元に戻れる保証は何処にもないけれど、その取り留めのない雑談は、紗奈が少しでも望月を楽しくさせようとしてくれていたのがわかる優しいものだった。

 この辺りは未来の紗奈も、過去の紗奈も、同じくらい優しいと思う。


 数分だろうか――紗奈とグダグダと話しながらだったが、望月はいつの間にか寝入っていた。

 身体は全く疲れていないはずだけど、脳がこれ以上は限界だったのかもしれない。

 目を覚ますと、隣のベッドには紗奈が居なかった。毛布は綺麗に折りたたまれている。

「……え」

 落ち着いて周囲を見渡す――窓の外はまだ闇に包まれたままだった。

 しかし紗奈の姿がない。まさか自分一人だけ此処に取り残された――のだろうか。

 紗奈と話をしていた時からどれくらい経ったのかもわからない。

 途端に望月の不安が大きくなる。

 こんなところに――こんなところで――たった一人だなんて、どうすれば―― 

「なんで……」

 呼吸が早くなる。動悸もする。このまま、潰れてしまうのではないかという恐怖が襲う。

 紗奈を探しに行くべきか――だけど、それで誰も居なかったら、本当に独りぼっちだ。


 保健室のドアが開いたような音がした。望月は慌ててドアに駆け寄っていた。

 携帯電話を片手に持った紗奈が、そこに居た。

「あ、起きてた? 携帯、やっぱり校内のどこも駄目だった――わっ」

 望月は堪らず、戻ってきた紗奈に抱き付いていた。

「――どうしたの?」

 紗奈は避けることもなく、ただ望月を受け止めて、困惑している。

「い、居なくなったのかと思った……」

 望月は泣きながら紗奈に抱き付いたまま、その体温を確認していた。

 幻ではなく、本当の紗奈の体温が其処にあった。

「あ、メモ置いてたけど、ごめん。――ちょっと泣かないでってば」

「だって……だって……」

 紗奈の姿が確認できなかったのは、ほんの数分だったと思うが、本当に誰も居ないところに一人で投げ出されてしまったように感じたのだ。

「電波が入るところがないかって探しに行ってただけだよ。黙って離れてごめん」

 紗奈は望月を落ち着かせるように、背中に手を回して軽くさすってくれていた。


「――もう、望月ってなんか放っておけないなあ」

 望月が泣き止んだのを確認して、紗奈は身体を離す。望月の顔を覗き込んで、そんなことを言いながら、望月の頭をクシャクシャと少し乱暴に撫でていた。

「ごめんなさい」

 言いながら望月はまた泣きそうだ。

 人の体温がこんなに温かい物だなんて、望月は知らなかった。

「謝らなくて良いから。私も悪かった。だから泣くのは出来れば我慢して」

 目の前で泣かれるとどうしても情が移る――ポケットティッシュを差し出しながら紗奈は困ったように話していた。

「――気を付ける」

 望月はティッシュを受け取って、まだ少し目に残っていた涙を拭く。

「なら、良し。私も望月を一人にしないように気を付ける」

 泣かれるのはもうごめん――紗奈は冗談交じりでそう続ける。

「うん――ありがとう」

 紗奈は、望月が落ち着くまでずっと傍に居てくれていた。


(8)

「さて、これからまた何処か――今度は人じゃなくて、出口みたいなものを探してみない?」

 あれから何時間経ったのだろう――たっぷりと休憩した後で紗奈が立ち上がる。

「でも何処にも……」

 どの出入り口らしきところを見たって、外には何も見えない闇しかない。

「入口――があるとしたら、出口も何処かにはあるで――」

 紗奈の言葉を遮って、にわかに雷鳴のようなものが響いた。

「何の音? 雷?」

 周囲を見渡して、紗奈が呟く。稲光はないけれど、雷の音に限りなく近い音だった。

「……そういえば、大雨で雷がどうとか言ってなかった?」

 望月が最初に言ったことを、紗奈はしっかりと憶えてくれていた。

「うん。階段を降りてて、そこで凄い音と光で――」

「その階段は何処?」

「あっちの真ん中の――」

「行こう」

 紗奈が望月の手を取って、引っ張るように駆け出した。


 階段に辿り着くと、足を滑らせた辺りが黒い靄で歪んで見えていた。

「……何、あれ」

 階段も周囲の風景も全てが歪んで見える。

「あの時と一緒だ……」

 記憶が確かなら、望月が包み込まれた、あの黒い靄――それに違いなかった。

「――もしかしたら元の場所に戻れるかもしれない」

 紗奈が言う。

「そうかもしれないけど、元に戻れるとは限らないじゃない!」

「絶対に戻れるよ」

「どうして?」

「だって、望月の所には未来の私がいるんでしょう?」

 だから大丈夫だと紗奈は笑っている。

「でも、でもっ……!」

 こんなところに居るのも嫌だけど、紗奈と離れるのも嫌だ――

「泣かない――約束する。会いに行く。だから、これ、預かってて」

 紗奈は身に着けていたチョーカーを引きちぎり、望月に手渡した。

「大事な形見だから。絶対返して貰うからね」

 望月を指差して、そんな忠告をしていた。

「行くよ――」

 紗奈の合図で飛び込む――途端、黒い靄が、二人を包み込んでいた。


(9)

「──痛っ」

 望月の身体に衝撃が走るが、少し柔らかいクッションが痛みを軽減してくれていた。

「いたたた」

 声がする身体の下を見ると、紗奈が下敷きになっている。

「紗奈! ……先生」

 望月は慌てて飛び退いた。

「その取って付けたような『先生』は何?」

 打ち付けたであろう腕を押さえながら、紗奈が恨みがましい目で望月を見ていた。

「ごめんなさい」

「急に上から降ってきて、私が居なかったらどうなってたか」

「だって、さっきまで階段のところで……って紗奈が先生だ」

 そこに居たのはさっきまでの制服姿ではない、ジーンズに青いボタンダウンのシャツ――先生のほうの紗奈だった。

「……大丈夫? 保健室に行く? 夏休みだから養護の先生は居ないけど」

 そう言って紗奈は望月の顔を覗き込む。

「あ、え……このやり取りさっきもした。なんで……?」

 どうなっているのかわからない。そんな望月を見て紗奈が笑った。

「それ、望月の?」

 紗奈に言われて、ついさっき、制服姿の紗奈から渡されたチョーカーを強く握りしめていたことに気付く。

「え……?」

 紗奈はいつものように、平然と会話を続けている。あれは、ただの白昼夢だったのか。

 ならばどうしてこのチョーカーが望月の手元に有るのだろう。

 それに、紗奈がいつもの「藤野」ではなく「望月」と名前で呼んだ。

「なーんて、ね」

「え?」

 何が「なんて」なのだろう――望月は事態が飲み込めない。

「ありがとう。お守り代わりだったから、長い間心細かった」

 紗奈はチョーカーを握りしめている望月の手に、自分の手を重ねる。

「……紗奈、なの?」

 まさか――本当に、目の前に居るのがあの時の紗奈なのか。

「そう。名前知らなかったっけ?」

「知ってるよ! 私が言いたいのは──」

「あの時の柚木崎紗奈かどうか」

 その言葉で確信が持てた。此処に居るのはあの時の紗奈だ。

「もう答えは出てる――よね?」

「……紗奈!」

 望月は力の限りで紗奈に抱きついた。

「──ちゃんと約束守ったでしょ?」

 紗奈は望月をしっかりと受け止めている。

「もっと早くに話してくれてたら良かったのに」

「まだ昔の私と会ってないのに信じられないでしょうが」

「そうだけど――紗奈はずっと、あれから……どうしてたの?」

 自分はこうして元の場所に戻れたけれど、紗奈は何処に戻ったのだろう――そして、どうやって今まで暮らしてきたのだろう――訊きたいことは沢山ある。

「――車の中で、あれからの私の話をしてあげる」

 車の鍵をクルクルと回しながら、紗奈が笑っている。

「うん。沢山聞かせて欲しい」

「でも、一時間程度じゃ済まないかもなあ」

 沢山ありすぎて、何から話せば良いかわからない――紗奈はそう続けた。

「だったら、これからずっと。いつでも聞かせてよ」

「じゃあ、とことん付き合ってもらいましょうか」

 ――望月を、ずっと待ってたんだから。

 紗奈が微笑みを浮かべて、そう続けていた。


 ――これは、そんな夏休みの始まり。

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始まりの夏休み 浅井基希 @asai_motoki

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