第6話
子どもは、夢と現実の境界が曖昧だ。
だから、自分の空想が、擬似的に現実の世界にあらわれるという現象がたまに起こる。本当はどこにもいない架空の友人を作り上げて、本当にそこにいるかのように振る舞う。足りないものを補うように。
僕にとってのメーは、おそらくそれに近い存在だった。
ただひとつ違うのは、彼女はちゃんと実在したということ。
それから先もずっと、僕の側にいてくれたということだ。
*
母の日の話には、まだ続きがある。
どうにかフェンスを越えて正規の道に戻ると、いつの間にかメーはいなくなっていた。あたりはもうすっかり暗くなっていて、僕は走って弁当屋に向かう。家に着くと、ちょうど父の帰宅のタイミングと一緒になった。
「こんな時間までどうしたんだ」
父は目を丸くしていた。怒るよりも驚く気持ちが先立っていたようだ。僕は何と説明していいかしばらく迷い、
「夕焼けを見に行ってた」
それだけ答えた。父は叱るタイミングを逃したように、少しだけ変な表情を浮かべた。そんな父の顔を見て、僕は一瞬だけ「今日は母の日だね」と、言ってみようかと思った。それが父を悲しませることも何となくわかっていた。それでも、今日僕が悲しかったことを、伝えてもいいんじゃないか。それくらい甘えても別に、許されるんじゃないか。
一瞬だけそんな風に思って、でも、僕の花はメーが持っていったのだと思い直す。
「ナオキ」
父は僕の顔を覗き込み、
「夕飯、一緒に食べるか」
自分の弁当を掲げて言った。僕は頷き、父と並んで家の中へ入る。電気をつけてテーブルにビデオカメラを置き、僕は弁当を開いた。僕も父も、同じチキン南蛮弁当を買ってきていて、二人で笑った。
しばらく二人でテレビを見ながら弁当を食べていたが、不意に父親が僕のビデオカメラを見て、
「そういえばこれ、何を撮ってたんだ?」
と尋ねた。
「いろいろ。友達のこと撮ったりしてた」
「友達? ケイくんたちか?」
「ううん。別の子」
僕の答えに、父は「ふうん」と頷き、それから、
「見てみようか」
と言った。僕は頷く。実を言うと、撮り方しか知らなくて、どうやったら再生できるのかわからなかったのだ。父は箸を置くと、テレビ台からプラグを出してきて、ビデオカメラとテレビを繋いだ。チャンネルをビデオ1に合わせ、再生ボタンを押す。
映像が、ブラウン管テレビに映し出された。僕は画面を見て、目を見開く。え、と小さく声が漏れた。
そこに映っていたのは、青い目の女の子ではなかった。
台所の棚の近くで、一心不乱に味付け海苔を食べる白黒柄の子猫。
彼女に向けて、僕はビデオを回している。子猫は、僕がカメラを回していることに気付くと、耳を後ろに向けて目を細めた。
「顔こわいよ。そんな怒らなくてもいいじゃん」
僕の声が入っていた。にゃーと高い声で、猫が応える。
「これは悪い機械じゃないよ。思い出を集めておけるものなんだ」
彼女はレンズ越しに、青い目を僕に向けている。
「お母さんが、ずっとこれでおれの思い出を集めていたから、続きはおれが自分で集めなきゃいけない」
画面越しに猫は、青い目を三回瞬いた。後ろに向けていた耳を前に戻して、こちらに近づいてくる。カメラに鼻を近づけて、喉をごろごろと鳴らした。画面一杯に猫の顔が映し出されて、僕は笑っている。
「味付け海苔おいしかった?」
僕は問う。にゃ、と猫は答えるように短く鳴いた。
画面が途切れて、次は夕暮れの時間帯に縁石を歩いて行く猫の後ろ姿が映し出される。続いて、真っ暗な夜道でニャーニャー不機嫌そうに鳴く猫の声と、「帰ったら味付け海苔をやるから」と何度も言う僕の声が残っている。その次は家の玄関で、僕の膝で眠る猫の姿が映る。
そして夕日の沈む海の映像が、最後に残されていた。
画面が揺れて、僕は大人しく座って海の方を眺める猫の横顔を移す。彼女はカメラにすり寄って、ごろごろと喉を鳴らす。小さな僕の手が画面に映り込む。彼女の頭を撫でて、
「帰ろう、メーちゃん」
と、画面の中の僕は言う。
ぷつりと映像は途切れて、真っ黒な画面には僕の、呆けた表情が反射していた。
「これ、メルか」
父が言った。メル、というのは、この住宅地に棲み着いた子猫の名前だ。誰が名前をつけたのかわからないけれど、海という意味の言葉だと聞いたことがある。
目の青い、猫だから。
「ナオキ」
父が僕の名前を呼ぶ。ぼんやりしている僕の顔を覗き込んで、
「メル、うちで飼おうか」
と言った。
「うん」
僕は頷く。まだ、整理はついていなかった。僕の側にいたはずの少女が、どうして子猫に変わってしまったのか全然わからない。でも、そのとき僕はどうしようもなく、あの猫に会いたくなった。
「探してくる」
僕は空になった弁当箱を閉じ、ごちそうさまでしたと手を合わせると、玄関のドアを開けた。
「メーちゃん」
名前を呼ぶ。何度か呼ぶと、近くの植え込みがごそごそと鳴って、猫が顔を出した。目がきらりと光っている。僕は手招きをして、「こっちきて」と言った。メルは植え込みから出てくると、ぐうっと伸びをしてから、僕の方へ走ってきた。しゃがみ込んで迎える。足に頭をすりつけ、にゃ、と子猫は小さく鳴いた。首もとを撫でると、子猫は目を閉じてごろごろと喉を鳴らした。
なんだか、泣きたいような気持ちになる。
考えてみればずっと、こうしてこの猫と一緒にいた気がした。
僕の隣にいた小さな女の子と、目の前の子猫が二重写しになる。僕の顔を覗き込む青い目も、ぴったりと寄り添う体温も、鈴を転がしたような高い声も、ずっと、この子猫のものだったような気がする。
「メル。メーちゃん」
名前を呼ぶと、子猫は目を開けた。
「うちにきていいって」
メルは青い目を瞬いた。僕の言う意味がきちんと通じていたのかわからないけれど、
「ナオ」
と彼女は鳴く。僕の名前を呼ぶように。
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