第5話

 玄関先で夕方近くまで待っていたけれど、母がこの家を訪ねることはなかった。

 本当はわかっていたのだ。お母さんはもう、僕のところには帰ってこない。そんなこと、最初からわかっていたけど、ほんの数パーセントの期待を捨てることが、どうしてもできなかった。でも、もう、認めるしかない。この花を渡すことはできないし、いくらビデオカメラで母に見せたいものを撮ったって、それを見てもらえる日なんてずっとこない。

 ずっとこないのだ。

 僕は息を吐き、一度部屋の中に戻って、お財布を取ってきた。千円札が入っている。今日はこれでお弁当を買ってくれと、父に言われているのだ。

「メーちゃん」

 僕は彼女の名前を呼び、くたびれてしまった花束を差し出した。

「これあげるよ」

 人にあげるはずだった花束を女の子にあげるなんて、と思うけれど、あのとき僕はそうすることで救われようとしていたのだと思う。メーは僕とカーネーションを交互に見てから、ぱっと青い瞳を輝かせた。

「いいの? めーにくれるの?」

 僕は頷く。メーは両手で嬉しそうに花を受け取った。じわりと視界が滲む。そうだ。こんなふうに、受け取って欲しかったのだ。

「ナオ、なんで泣くの?」

 メーは心配そうに僕の顔を覗き込む。あんまり泣き顔を見られたくなかったから、

「なんでもない」

 と、僕は手の甲で目元を拭った。もう、母の日は終わりだ。僕はいつも通りに戻って、ちゃんとご飯を食べなきゃいけない。一度だけ目を瞑り、母の姿を思い描いて、目を開けた。目の前には、友達がいる。

「夕ご飯、買いに行くけど」

 僕が笑って言うと、

「めーちゃんもいく!」

 と、彼女は元気に応えた。

 五月も中旬に差しかかり、日没は随分遅くなっていた。長い時間、玄関先に座っていたのに、まだ明るい。そんなことを考えながら住宅街を出たところで、

「そうだ。お花のお礼に、ナオに見せたいものがあるの。ビデオカメラ持った?」

「え、うん」

 メーは急に歩調を速めた。行こうと思っていた方向から真逆に歩き出すので驚いたが、

「こっちー!」

 花束を大切そうに持ったままこっちを振り向くので、僕はそのまま彼女の後に続いた。


 メーはなぜか、町の外れにある山にずんずん向かっていった。この山の頂上は浄水場へ繋がっているので、正規ルートを辿ればきちんと山頂に辿り着く。それなのに、メーは舗装もされていない、道と呼ぶにはあまりにお粗末な経路を選んだ。

「こっちだよお」

「メーちゃん、向こうにちゃんとした道があるよ」

 一応そう言ってみるが、

「こっちからじゃないとダメなの」

 彼女は頑なだった。仕方がないので、彼女の選んだ道を歩いていく。

 道なき道はだんだん険しい斜面になり、落ち葉で何度も足を取られ、転げ落ちそうになる。メーは軽々と進むが、正直僕は何度か死を覚悟したし、泣きそうだった。ビデオカメラを置いてくれば良かったと心底後悔した。太陽はだんだん傾いてきて、ちゃんと家に帰れるのか不安になってきた。

「ナオ」

 少し先を進んでいたメーがこちらを振り返って、僕の顔を覗き込む。

「ナオこわい?」

「べつに……」

 見透かされているのが恥ずかしくて、僕は顔を逸らす。

「だいじょうぶだよ、一緒だから」

 メーは僕の反応に構わず楽しそうに笑い、

「おててつなご?」

 花を持っていない方の手で、僕の手を取った。いよいよ何も言えなくなって、僕は変な顔をしたまま彼女の手を握り返した。


 最終的に僕らが辿り着いたのは、浄水場の裏側だった。フェンスが張り巡らされていて、その中には濾過装置らしきものが見える。確かに、正規ルートからではここには辿り着かない。疲れ切った僕はしゃがみ込み、メーは急に不機嫌そうに「おなかがすいた」と言い始めた。

「メーちゃんのせいだろ」

「めーはおなかがすいた」

「会話してくれ」

 僕は怒る気力も残っていなくて、ちょっと笑った。とりあえず知っている場所に出て安心していたこともある。顔を上げると、遠くに続く海まで見渡せた。ここからこんな綺麗に海が見えるなんて知らなかった。ちょうど夕暮れ時で、赤く染まった太陽が、滲むような光を放ちながら沈んでいく。

「夕焼けね、ここから見るのがね、綺麗だから」

 ナオに見せたかったの。メーはそう言って、海の方を見て目を細めた。

「お花ありがとうね、ナオ」

 彼女が握りしめたカーネーションはもうすっかりくたびれていたけど、僕は充分だった。ビデオカメラを回す。

「あのね、ナオ」

 遠くに滲む夕日から、彼女の横顔までゆっくりと写す。

「めーちゃんはね、よく夢を見るんだけど」

 たくさん寝るからね、と僕は言う。メーは褒められてもいないのにちょっと照れくさそうに「んふふ」と笑った。

「めーの夢には絶対ナオがでてくる」

 彼女の青い目に、夕日の光が映っている。

「だからいつも一緒にいるよ」

 彼女は僕の方を見た。

「さみしくないからね」

 画面越しに笑う、その表情は、綺麗だった。

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