第4話
メーとの思い出は断片的で、印象的な場面ばかりが残っている。毎日のように会っていたような気はするのだけれど、もう随分昔のことだしほとんど忘れてしまった。
僕が彼女と一緒にいたのは十歳くらいまでで、それ以降、僕の人生に青い目の女の子はあらわれない。彼女との思い出を辿る中で最後に思い浮かぶのは、二人で迷子になったときに見た夕焼け空だった。
それは確か五月で、僕は母の日のカーネーションを買いに、花屋に行ったのだ。父はちょうど休日出勤で、家には僕とメーしかいなくて、僕が外に出ようとすると「めーも行きたい」と彼女もついてきた。
花屋でカーネーションを二本選ぶ。そんなにお小遣いがあるわけじゃないから、二本が限界だった。これを下さい、というと、
「母の日?」
と、お姉さんが聞いてくる。頷くと、お姉さんはサービスでピンク色のリボンをつけてくれた。
カーネーションの花束を持って、来た道を戻る。
「めーちゃん、ナオのお母さんに会ったことない」
例によって縁石の上を器用に歩くメーが、ぽつりと口を開いた。
「そうだね」
メーと僕が出会ったのは、母がいなくなったあとだ。
「おれのお母さんは遠いところに行っちゃったから」
僕はそう言って、カーネーションの花束を見下ろした。去年までは肩たたき券だったけど、今年は花をあげると約束していたのだ。約束は守らなければならない。
メーは青い目をこちらに向けて、
「会いに行くの?」
と尋ねる。
「ううん」
約束は守らなければならない。これは再三、父から教えられていたことだ。だから僕は花を買った。でも、このあとのことは何も考えていなかった。母がどこにいるのかも、僕は知らない。でも今日は母の日だから、もしかしたらお母さんは家に帰ってくるかもしれない。そうしたら、僕は母に花を渡して、ビデオカメラを見せて、あれからどうしていたかを話そうと思っていた。
「家で待とう」
僕らは家に帰り、メーがいつもそうしているように、玄関先に座って母の帰りを待った。
まだ五月とはいえ気温は高く、メーが「暑いねえ」と言った。住宅地には、たくさん木が植えられている。僕の家のすぐ隣にも背の高いクスノキが植えられていて、木漏れ日が降り注いでいた。僕はビデオカメラを回して、葉っぱが風に煽られて光がひらひらと揺れる様子を撮り、隣で空を見上げるメーの姿を映した。
「きれいだねえ」
そう言って眠たそうに目を細め、メーは僕の膝に頭を預けてくる。あたたかい匂いと、重みと、体温を一斉に感じて、わあと変な声が出た。
「暑いって言ってたじゃないかよ!」
「暑いねえ」
眠いのだろう。ぼやぼやした声で彼女は言って、目を閉じる。彼女の薄い背中が寝息で上下し始める。僕は落ち着かなくて、しきりに辺りを見回していた。誰か来たらどうしよう。こんなの恥ずかしい。僕の焦りとは裏腹に、近くに人の姿はなかった。遠くの方で近所のおばさんたちの楽しそうな笑い声が聞こえる。僕は一度、安らかな寝息を立てるメーに視線を落としてから、右手に持ったカーネーションの花を見下ろした。
一年前、母にあげると約束した花。
お母さん。小さな声で口にする。お母さん。そうやってもう一回呼んでみたいと思った。なんで僕を置いて行ったんだって怒ってみたいとも思った。お母さんの料理が食べたかった。僕の話を聞いて欲しいと思った。
お母さん、ともう一度口にすると、目の前がぐにゃりと歪む。ぼたぼたと涙が落ちて、それでメーが目を覚ました。
「ナオ」
メーは自分の目の前にある赤い花を見て、
「お花きれいね」
と、少し笑った。
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