第3話
翌朝になれば、いつの間にかメーはいなくなっている。
昨日のあれは夢だったのではないかと思ったけれど、彼女のために空けたスペースはそのまま残っているし、少しだけ窓が開いていた。僕は寝起きの頭でぼんやりと自分の両手を見下ろし、ひとつあくびをした。目を擦って時計を見て、
「寝坊した!」
僕は悲鳴のような声を上げて、部屋を飛び出した。
居間に行くと父は悠長に朝食を食べていて、
「おお、おはよう。もう学校行ったかと思った。食べる?」
呑気な調子で僕にもトーストを勧めた。僕は、
「いらない!」
と短く断って、歯磨きと着替えだけ済ませて玄関へ向かった。
「行ってきます!」
「気をつけてー」
父の間延びした声を背に、全速力で学校まで走る。
思い返せば、この日は朝からついていなかった。
登校中にガムを踏んづけるし、もちろん遅刻するし、午前中、算数の授業であてられた問題が全然わからなくて、恥ずかしい思いもした。給食のときには牛乳争奪じゃんけんでケイに負けるし、午後の体育のサッカーで、うっかりオウンゴールを決めてしまってチームメイトから怒られた。放課後に校庭のブランコで遊んでいたら六年生にどやされるし、帰りにまたガムを踏んだ。一日に二回ガムを踏むことなんてあるか?もう本当に勘弁してほしかった。
そして極めつけは、
「……算数ドリル忘れて帰っちゃった」
宿題を机の中に忘れて帰ってしまったのだ。最悪だった。今日あてられて答えられなかったから、谷口先生は明日も確実に僕を指すに決まっている。そもそも宿題を忘れたら、先生はめちゃくちゃに怖いのだ。どうしよう。
いつも通り、父は帰りが遅い。外を見るともう暗い。時計の針は六時を回ろうとしている。ケイたちと寄り道して帰るんじゃなかった。後悔と困惑でがんじがらめになって立ち尽くしていると、
「ナオどうしたのお?」
ソファに転がっていたメーが、僕に振り返って首を傾げる。僕は学校に宿題を忘れたのだと言った。
「しゅくだいって? ナオがいつもやってるやつ?」
「そう。はちゃめちゃに困ってる」
「え、じゃあとりにいったらいいじゃん」
ド正論を返してくるメーに、僕は渋い顔をした。
「だってもう暗いし、こんな時間に学校へ行ったら怒られちゃう」
「めーがついていってあげるよ。んふふふ」
メーは青い目を僕に向け、ニコニコ笑いながら言った。思いもよらなかった返答に、僕は目を見開く。いつも自分の気分でしか動かない彼女が、僕の助けになろうとしてくれるなんて。
「めーちゃんもがっこーにあそびにいきたあい」
「ですよね」
自分が行きたいだけらしい。まあでも、ひとりで行くよりはよほど心強い。メーは「おさんぽだー」とはしゃぎながら子供部屋に勝手に入って、ビデオカメラを手に戻ってきた。
「持っていこ」
「遊びに行くんじゃないんだから」
「めーはあそびにいくけど」
会話が成り立たない。諦めた僕は、ビデオカメラを彼女から受け取る。玄関に置いた鍵を首から提げて、ドアを開けた。見上げた空は暗く、一番星がきらめいているのが見える。十月の夕方は冷たい空気で満ちていて、これからどんどん寒くなりそうだった。
「みて、ナオ」
顔を上げれば、メーはさっさと通りに出て、縁石の上を歩いていた。
「車が来たらあぶないよ」
「撮っていいよ」
本当に話を聞かない。僕は何も言わず、ビデオカメラをメーに向けた。綱渡りをするようにゆっくり縁石を歩く、メーの後ろ姿を撮る。
学校には、なかなか辿り着かなかった。
川べりの道に出れば、メーは急に立ち止まって魚を凝視する。野犬にちょっかいを出して追いかけられると、悲鳴を上げて草むらに隠れる。半泣きになっているメーにビデオカメラを向けるとめちゃくちゃ睨まれた。そんなに怒らなくてもいいじゃんと言うと、彼女は口先を尖らせて草むらから出てきた。
学校に着くころには、あたりはいよいよ真っ暗だった。
「十五分でつくところが、一時間かかったんだけど」
「おもしろかったね」
けろっとした表情でメーは言う。わりと酷い目にあったのに、たくましいやつだ。
電気の消えた校舎は、僕の知ってる建物じゃないみたいだった。怖じ気づく僕に対し、メーは脳天気な様子で「くらいねー」と言っている。
「多分、宿直の先生がいるはずなんだよ」
僕はそういって、事務室の方へ歩いて行った。思った通り、そこだけ灯りがついている。怒られやしないかとびくびくしながら、表口の扉を開ける。
「こんばんは」
声が震えた。事務室では、図工を教えてくれる木下先生がお茶を飲んでいた。木下先生は白髪のおじいちゃんで、僕を見ると目を見開いていた。
「おや、びっくりした」
「四年二組の山田尚樹です。宿題を忘れたので、取りに来ました」
僕は早口ことばのように一気に言う。木下先生は受付のカウンターから玄関まで出てきて、「そうか、ご苦労さんだね」と言ってくれた。怒られなくて安心した。
「そちらは?」
先生は僕の隣に視線を移す。急に声をかけられたメーはびっくりしたのか、僕の後ろに隠れた。
「友達です」
僕の答えに、先生はそっと目を細めた。そうか、友達か、と繰り返し、こちらに手を伸ばした。
「怖くないからおいでなさい」
メーは先生の顔をじっと見ていた。しばらく時間が止まったようだったが、メーは木下先生が危険な人ではないと判断したのか、素直にそちらへ寄っていった。
「お友達はここで待っていなさい。山田くん、教室に行って良いよ。電気をつけてあげよう」
ありがとうございます、と僕は言う。メーは物珍しそうに辺りを見回していた。
「あたたかい牛乳でも飲むかね」
先生がメーに尋ねた。メーは小さく、うん、と答えている。僕は少し笑って、まっすぐ教室に向かった。四年生の教室は四階だ。僕は階段を駆け上がっていく。
誰もいない夜の教室は、知らない場所のようだった。
僕の席は窓際の一番前だ。引き出しの中には、算数ドリルだけが取り残されている。「なんで忘れちゃったのかな」と言いながらそれを回収して、窓の外を見た。暗い窓には僕の顔が映り、その向こうには町が見えた。
国道のバイパス。僕らが通ってきた川沿いの道。その先には住宅街の灯りが並ぶ。
住宅街は森のように、木々に囲まれている。森の中をイメージして作られた新しい住宅街なんだそうだ。それを母が気に入って、僕が生まれるときに、ここに家を買って引っ越してきたのだと父は言った。
少し向こうには浄水場のある山がある。山の向こうには海が見えるはずなんだけど、暗くてよくわからなかった。僕は見慣れない夜の風景をしばらく眺めて、それから教室をあとにした。
戻ってくると、メーは事務室のソファに丸まって眠っていた。また寝てる、と僕は呟く。
「宿題は見つかったかい」
木下先生の問いかけに、見つかりました、と僕は算数のドリルを掲げて見せた。先生は満足げに笑った。
「目が綺麗だね、この子は」
木下先生はメーに視線を投げた。
「綺麗な青だ」
良い友達だね、と先生は続ける。はい、と僕は頷く。僕はソファに寄っていき、メーの背中をつついた。
「メーちゃん。帰ろう」
彼女は目を閉じたままぐうっと伸びをして「もうかえるの?」と高い声で言った。ソファから下りて、先生の前に立つと、
「またくるね」
と、彼女は言う。木下先生は眉を下げて笑っていた。
帰り道、メーは満足そうに
「がっこーたのしかったな」
と言った。僕は思わず笑って「寝てたじゃん」と応える。メーはにこにこしたまま、
「夢をみたよ」
そう続けた。
「どんな?」
「ナオがねえ、世界でいちばん高級な味付け海苔を買ってきてくれるの」
「そりゃあよかったね」
学校に全然関係ないじゃないか。僕が笑っていると、メーはおなかがすいたと急に不機嫌になった。
「うん。帰ろう」
そのあともメーはおなかがすいたと二十回くらい主張してきて、僕は不機嫌な彼女をビデオカメラに収めていた。家に着いたら味付け海苔をやるからと、二十回言う僕の声も入っている。
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