第2話 吾輩は貴族になる


 たとえばの話。

 バックパッカーが海外旅行にいった、とする。

 ガイド付きの案内にうんざりしてこっそりガイドをまき、裏路地に入って勝手気ままな、本人にとっての本当の旅行とやらを始めた、とする。

 そして出された睡眠薬入りのお茶を飲み、身ぐるみはがされて放り出されたとする。

 起きたバックパッカーはこう言う。財布もパスポートもとられたが、五体満足の身体を撫でまわしながら。


「運が悪かった」


 運が悪いと思っているうちは何度でも同じことを繰り返すだろう。

 どう考えても悪いのは運ではなくてめぇの頭であり、世の中を舐め腐った平和ボケした根性だ。


 つまり何が言いたいのかというと。

 悪霊だなんだのアウトローを気取っておきながら、しょせんぼくも平和な日本に生まれた平和ボケのばかやろうだったということだ。


 湖をたってから三日。人間は食べなくても一週間は生存可能だが、水が無ければ三日で死ぬらしい。

 だとすれば、幽霊にとって霊脈から供給されるエネルギーは水にひとしいものだったようだ。

 そろそろ消滅が現実的になってきた。悪いのは運では無くて、ぼくの見当の甘さだ。



 ここが異世界だということはネッシーさん(仮)を見たときからなんとなく察していたが、一日目の夜に確定した。

 地球で三日月と満月の共演を生でおがむことはできない。実にわかりやすい異世界感であった。

 そこで必死になるべきだったのだ。まるで流行りの異世界転生のような展開に心浮かれて、川下りがてら観光気分で景色を眺めている余裕などなかったのだ。

 だって、夜の明かりはその月と満点の星、そして蛍を彷彿とさせるゆらゆらとした謎の発光が森に散在しているだけだったのだから。

 人工の光が見当たらなかった。


 二日目で少し焦り始めた。名前も知らない虫や植物を相手にエナジードレインを試してみたが、吸うのに必要なエネルギーの方が吸い取れるエネルギーよりも大きい。やっぱり人間相手じゃないと食事として機能しない。

 ダメもとで試した川に接触して身をゆだねる方法が想定以上に上手くいき、飛行によるエネルギー消費なしの移動手段が確立できたのは不幸中のさいわいだった。


 そして三日目。エネルギー切れの弊害が顕著になってきた。

 ぶつりぶつりと、電池の切れかけたゲーム機のように頻繁に点滅する意識。あるいはこのときに数日経過している可能性も高い。一日目にあれほど心躍らせた周囲の光景も色あせ、川の流れに身をゆだね気が付けば景色が一変している。


 死んで幽霊になったのなら、幽霊が消えたらどうなるのだろう?


 おとなしく地獄に連行されるとは思えなかった。消滅、完全なる無。ちりちりとした恐怖がありもしない臓腑を焼く。しかし焦れども、もはや自分の努力でどうにかできる状況ではない。

 行動に割り割けるリソースはとうに尽きていた。




 ……。

 …………?


 こえが、聞こえた。

 ……ヒトの声だ!

 ばつりと意識のピントが合う。

 甲高い女性の声が鼓膜だかどこだかぼくの聴覚をゆらした。天使の歌声だってこのときの彼女ほど甘い調べにならないだろう。


 川から飛び上がろうとして、失敗する。

 まずい。ほんきでヤバい。語彙消失してあたまのわるい中学生みたいな言葉遣いになるくらいヤバい。

 ろくに動けなくなってる。これエナジードレイン発動までいけるか?

 かろうじて川岸に這い上がり、声のする方向を確認する。


 そこにいたのは一組の男女だった。

 二人とも濡れ鼠で、衣服がびったりと身体に張り付いている。仕立てはよさそうだがどこか古臭いというか、現代風の洋服ではない、たとえるなら西洋ファンタジーの服を想像しろと言われたのを統合したようなデザインだった。そしてきっとおそらく、まったくそのままなのだろう。


 女性は二十歳前後あたりだろうか。ぼくの観察眼がバグっていなければメイド服を着ているように見える。

 もう一度言おう。メイド服だ。

 もともとメイド服は貴族の前で使用人が目立たないように黒と白の、流行おくれのシンプルで意図的にダサい作業服に仕立てられたものだと言われており、いま日本で一般的にイメージされるメイド服はボンテージファッションなどと同様にコスプレ用に魔改造されたものだ。

 しかし彼女の服は邪魔にならない程度に飾りボタンやフリル、レースを有し、日本風コスプレのような華やかさがあった。ただコスプレとは違い、同時に仕事着がもつ特有の空気の重さも共存している。

 本来の作業服仕様なら頭髪を見せるのは厳禁であり、ひっつめて帽子の中に収納しているはずだ。コスプレ仕様ならメイドカチューシャとも俗称されるホワイトプリムが乗っているだろうか。しかし彼女はもとから装着していないのか、川に流されたのか、肩まで届く銀髪をべったりと顔と首筋に貼り付けていた。


 男性の方はまだ少年と言っていい年頃だ。日本人と顔立ちが異なるから区別をつけるのが難しいが、おそらく十歳になるかならないか。こっちは乗馬服のような動きやすそうな格好だが、ボタンやら襟飾りやらなんやらがいちいち豪華だ。

 普段なら豪華な金髪の巻き毛なのだろう頭は土にまみれてべっちゃりと潰れ、ふくよかを一割増にした顔はきっと普段は真っピンクなんだろうと容易に想像がつく。

 奇をてらわずに受け取るなら、貴族のおぼっちゃまとそのお付きのメイドという塩梅だろうか。


 そして必死に呼びかける女性の顔色は蒼白で震えており、少年のいまの顔は灰色の毛布みたいな色合いになってる。ぴくりとも動かない。

 はい。どうみても溺れた直後です。本当にありがとうございました。

 サイッコーに最悪なシチュエーションだった。

 体感で十年も幽霊をしていたら、ときおり出くわすことがあるのだ。


 あ、この身体、とれるなってやつ。

 

 しかしこれでも人間として生まれた身だ。肉体に未練が無いとは言わないが、人間を喰うようなマネは控えてきた。

 食事が必要ない生活は味気なかったが、それでもそこまでして食う必要がなかったから。

 いまは、違う。食べないと死ぬ。死んでるけど、また死ぬ。消える。消滅する。


 感覚的にわかる。願望交じりの妄想かもしれない。でも感じるのだ。

 このままだとこの少年は死ぬ。この少年も死ぬ、消える。魂の熱量が急速に失われつつある。遠からず完全にゼロになるだろう。

 ぼくがここに入れば、憑りつけば、輸血で延命するように、少なくとも肉体の死は免れる。残ったものが少年の生存と呼べるかといわれると疑問だが。

 いや、否だろう。ぶっちゃけよう。ここでこいつを魂喰いすればぼくは助かる。生命エネルギーを生み出す肉体を得て、ひといきつける。


 ぼくは個人の権利や思想がときに生命より尊重される国に生まれ暮らし、そして死んだ身だ。誰もその死すら気づけない。死ぬという終焉すら許されない。戸籍と肉体と関係性をすべてのっとり何食わぬ顔をするのが、とても罪深いことだという意識がぼくの中にある。

 その上で、それでもぼくは消えたくなかった。自分が痛い目を見るくらいなら、消えゆく誰かの尊厳を踏みにじってむさぼって腹を満たしてやりたかった。


 だから実行した。


 この期に及んで少し期待していたが、銀髪メイドさんはぼくのことに気づかなかった。ゆっくりと這い寄り、少年の肉体に覆いかぶさる。

 エナジードレインを発動するにはもうコストが足りない。でも、どうすればいいのかは本能的にわかった。まるで雛から買ってきた籠の鳥が、教えてもいないのに羽ばたく訓練をするみたいに。

 完全に肉体にぼくを重ねると、エナジードレインよりもコストが軽いポルターガイストを停止している心肺に向けて使用する。いっかい、二回、三回……がむしゃらにではなく、リズムを刻むメトロノームのように定期的に。

 この世界には心臓マッサージは存在しないらしい。あるいはメイドさんが知らなかっただけか。ともかく、遅ればせながら死霊の手によって施された原始的蘇生措置は、みごと少年の息を吹き返すことに成功した。

 水面に衝突したショックで仮死状態になったのか、溺れていたわりにほとんど水を飲んでいないのがさいわいした。ごほりと水を吐き出しごほごほと少しばかりせき込んだが、そのあとの呼吸は安定したものだ。

 銀髪メイドさんの驚きの声がにぶく聞こえる。ぶあついゴムを何重にも隔てたみたいに。

 あとは蘇生までにどのくらい時間が空いたのかが勝負だ。脳に障害が残らなければよいが。


 どくん、と脈動がよみがえり、それに合わせて血流がごうごうと流れてゆく。もうぼくも限界で、全身に流れてゆく生命エネルギーに押し出され、千々に乱れて溶けていった。

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