エピローグ

第12話逃避行

 動悸が激しい。心臓が破裂してしまいそうだ。

 雨は上がっていた。それが不幸に傾いて、僕らは町から出るのにかなりの苦労を強いられた。

 お互い頭から血を被って、つま先までを真っ赤に染めている。その様相は想像の殺人者の何倍かは膨らんで、異常者だった。僕らが歩くと、そこに赤い足跡が出来た。

 僕と彼女が町外れにある崖際にたどり着く頃には、折角晴れた空も空しく、世界は夕方に移ろうとしていた。

 崖から遠くを見れば、その地平線に薄く延ばされた海が見える。そこに太陽が少し浸かって、海は真っ赤に染まった。僕らみたいに、血溜まりみたいに。

 「少し休もう」と僕は少女にいった。それには彼女も賛成だったのか、こくっと小さく頷いて地面に座り込んだ。

 僕はそんな少女を見て、次に来るであろう言葉を先読みして口を開いた。

 「これから、君をあの海に連れて行く。故郷の海だ。そこである程度の回復を待って、再びどこかを目指す」

 「残念ね。それは出来そうにないわ」

 少女が微笑を浮かべると、閃光が僕の視界を覆った。目を開くと、そこには本来の人魚の姿があった。人間の足はなくなり、びっしりと鱗が詰まった下半身が露わになっている。

 僕は少女に駆け寄る。逃げるのに必死で気付かなかったが、彼女は明らかに弱っていた。あの神秘の水が無いからだろうか。だったら、まだどうにかなるかもしれない。

 僕は懐から小瓶を取り出した。小瓶は僕の服の外から出るなり、本来の輝きを存分に知らしめる。

 「これを飲め」

 「どうして神秘を?奴らの血で汚れた筈じゃ」

 彼女の云うとおり、あそこにあった神秘は奴らを肉塊にした時にその血で汚してしまった。だから、彼女がそう思っても何らおかしくはない。

 この神秘は、僕が初めてあそこを訪れた時に、記念で採取していものだった。とった時は驚いたものだ。最初瓶の底にしか掬わなかったこいつが、今となっては瓶まるまるの量へと変化を遂げている。これで彼女が神秘をあの量運べた理由が分かった。こいつはきっと、時間が経つと徐々に増え続ける性質があるのだろう。

 「君と出会う前から所持していたんだ。安心しろ、全部は飲ませない。少し残して、また後で使用する」

 「感心したな、ちゃんと勉強してたなん、て、偉いぞ」

 少女の弱々しくか細い腕が、僕の頭の方へと運ばれる。僕はそれを拒否した。「うるさい、早く飲め」と代わりに催促する。

 彼女がどうしても飲まないから、僕は半ば無理矢理飲ませた。小さく抵抗する彼女の姿に心折れそうになりながらも成し遂げると、彼女は眉間から皺を消し去り、いつもの様子に戻っていた。下半身も、人のものに戻る。

 「気分は?」

 「最悪だ」

 「そりゃ結構。さて、また歩くぞ。しっかりしろ」

 「こんなんじゃ全然足りないわ、きっと保たない」

 「泣き言をいうな。もう目的地は見えたじゃないか」

 「あなたは、少し変わったわね」

 僕は、どこが、という。彼女は額から汗を垂らしながら、ふてくされた態度で地面を見つめている。辛うじて強がりを保てている、といった感じだろうか。

 「色が、変わった。以前はとても暗い底なしの色だったのに、今は暗がりこそあれど、その中心には松明みたいな明かりが点っている」

 彼女は苦しそうに息を吐き出しながら続けた。

 「あなたはあいつの死で何を得たの?私には理解出来ない。どんなに根は良い人だったとしても、あいつがあなたにした罪は消えないわ」

 「罪という言葉を作ったのが人間だとしたら、それを許すのも壊すのも人間だ。僕は確かに母さんに何年間を搾取されたようなものだが、それでも母さんを想っていた僕だけは消せない」

 「あなたは希望を引きずって生きていくの?それがどれだけ苦しいことだか理解してる?あなたはこの先うんと長い時間を生きていく。その時間の中で、絶対に朽ち果ててしまった方が楽だと思えるような事象が降りかかる。過去の憎悪を否定してしまったが故に、その時あなたが怒りを振りかざす場所は永遠になくなるわ。そしてあなたは後悔することになる。憎悪も呪怨も、人間には必要なものなのよ」

 「君は、随分と人間に詳しいんだね」

 僕がそういうと、彼女は青ざめた顔でうなだれた。ぽつりぽつり、と「私は」と呟いている。

 僕は知っている。彼女は後悔しているんだ。自分が投げ出してしまったが故に誰かが傷ついた事実を、胸の中でずっと繰り返し殺し続けている。

 だが、思考を持つ生き物はそれほど単純な作りではない。何かを殺す際に振り下ろしたナイフは、他の何かをも巻き込んでしまう。そうして多くを殺したナイフを手放した時、自分の中に何もなくなってしまったことに気付くんだ。

 穴だらけになった心に降り積もるのは、空虚さと自傷心だけ。

 人成らざる身でありながら、彼女は限りなく「人」だった。

 そして彼女は、とても優しかった。言葉の鋭さと相変わって、そのナイフの中身は真綿で出来ている。彼女が殺したのは、そう、母さんに対する友愛だ。

 僕はいった。

 「君まで、母さんを嫌いになる必要はないんだよ。当てようか?君は僕が、母さんと君を恨まないことに怒りを感じている。自分の責任の所在を突き詰める相手がいなくて、やり場がない、と感じている」

 彼女はぴたりと口を閉ざした。短い髪で影を作って、目元を隠している。まるで涙を流しているのをバレぬよう、小細工をしているように見えた。だがそれは見栄えだけで、彼女は泣いていない。まだ彼女は葛藤している。自分という、罪人を罰する何かを探している。

 そんな彼女の頬に僕は右手の指を這わす。抵抗されぬと分かってから、僕は指を顎の方へと導いた。そこで顎を少し上に引き上げて、彼女の悲壮な表情を視界に入れる。

 こうして間近に彼女を見たのは初めてだった。よく見ると彼女は意外と鼻が高い。つんと尖っていて、僕に向き合っている。

 あまり、彼女の瞳は気にならなかった。僕は今の彼女の瞳には興味がなかったのだ。なんせその瞳は一言でいってしまえば、らしくない。僕と短くも生死を共にした強い眼孔は、今そこにない。

 だから、自然と視線は顔面の下の方へと集中した。そこにある、鼻と顎の中間にある淡い谷底に視線を釘付けにされた。

 触れたい、そう、僕は臆面もなく思ってしまった。

 「――ッ!」

 最近、時が止まったような体験が多かったと思っている。それは僕の時が早すぎるとか、走馬燈とか、色々それっぽい理由はあったのが、これが心があるであろう処遇であることには、今し方気付いた。

 永遠に時が止まればいい。そう思える瞬間は心が無ければ触れることさえ叶わない代物だ。

 僕以外の人たちは、幼い頃は時が遅く感じた、というらしい。それはきっと、心をもって生まれて、それが体に馴染むまでの期間に生じる軌跡なのだと思う。なら最近生まれた僕がこうして体と心の齟齬に、今まで感じる筈だった時の流れを一気に味わっても何ら可笑しくはない。

 心とは、他人を思いやれて初めて手に出来るものなのだ、と今は少なからずそう思っていたい。

 互いの唇が重なっている間、僕と彼女は確かに一つだった。そこに種別の壁は皆無だった。

 どうでも良かったのだ。今目の前にいる彼女が獣だったとして、神様だったとして、僕にはそんなこと関係ない。

 唇を離した。その距離が開いていくと、圧縮された時間が薄く引き延ばされるような感覚を味わった。現実に帰還する。

 彼女はすっかり頬を真っ赤に染めていて、先ほどまでの余命宣告された病人かのような青白い血色は、見事に消し払われてしまっていた。

 彼女が何かをいう前に、僕はいう。

 「本気で、盗賊を目指すのも悪くないかも知れない」

 「あ、あなた、これってその」

 「決めたんだ。僕はこれから自由に生きる。欲しいものは絶対に手に入れる。母さんが望んでいた僕じゃなくて、僕らしい僕を生きるんだ。その為にまずは、君が欲しい。拒否権はない。付いてきてくれるね?」

 僕が立ち上がると、彼女も立ち上がった。沈黙は肯定ととるべきなのか、彼女は返事を返さない。だが、僕はそれで十分だった。

 今はまだ、これでいい。時間はこれから沢山あるのだから、無理をする必要はない。

 諦めて少し歩き始めると、彼女はまだ回復しきっていないのか、恥ずかしいのか、僕の背に付いてくる形で歩いてくる。

 そこから更に歩くと、海は僕らの視界から消えていた。そこには騒々しい樹海が蔓延っていて、下の方では川が音をたてている。元々水の音事態は聞こえていたが、今こんなにも聞こえるのは川が近づいたからではなく、森が川の音をすくい上げて、全体に反響させていたからだ。

 人間にとっては、とても居心地の良い環境だ。しかし、人魚に至っては違う。これが境界線なのだ、と僕は嫌でも思い知る。

 神様はなんで種別をばらばらに人類を築いたのだろう。苦しいことが起こるってのに、相変わらず僕は限りなく人であり、そして彼女は、限りなく人魚と言わざる終えない。

 僕のようにその境界線を軽んじて考えられる人間は少ないだろう。彼女もきっとこの境界線に考えさせられてきたはずだ。何故なら、彼女は人ならざる故に、人よりも優しいから。


 ――拒否権もないのに、問いかけるんじゃないわよ


 そんなことを考えていると、背後から気配が途絶えたことに気が付いた。嫌な予感がして後ろを振り向くと、そこに彼女の姿はない。ふと、水が弾ける音が聞こえた気がした。僕は慌てて崖から頭を飛び出して、下の川を見たが、そこには何事もなく、ただただ渓流が続いているだけだった。

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