第10話予言通りの天罰
「ハミル、なんで泣いてるの?」
え、と声を漏らしてから気が付いた。私の頬には涙の川が幾つも枝分かれしていて、その終点は顎の先っぽまで届いていた。生ぬるい感触が不快だ。
彼女は生意気にも私の側まで寄ると、その細い腕で私の体を抱き寄せた。そして、それを合図に私は箍が外れたように泣き出してしまった。
泣き出したのは、こいつから体温が一切感じなかったからだ。こいつは紛れもなく幻で、そして紛れもなく、もうこの世にはいなかった。
少年がいってた、そしてもう二度と会えない、と。その通りだ。こうして現実を逃避してこそ何ででも会えるのだろうが、そこに確かな現実性は一切無い。記憶というのは曖昧で、風景や人の形こそある程度思い出せるが、もっと細かいディティールまでは鮮明じゃない。肌を触れた感触も、熱も、そしてこいつの顔も、今は曇り空に覆い被される太陽よりも残酷なものとして、目の前に存在していた。
私は思わずこいつの肩を掴む。掴んだ気はしなかった。まるで綿飴を鷲掴みしたかのような反発のなさを感じたが、それを気にせず彼女の目を見る。
「お前はどうして変わってしまったんだ。絵商人を失ったからか。それとも少年に愛想尽かしたのか」
私がいないだけで、何も出来なくなるようなタマじゃないだろう、心の中でそう叫んだ。
再現は儚く解かれた。私が過去を演じるのを途中で止めてしまったからか、あたりの風景はかき混ぜた絵の具のように歪み、普遍性のない世界へと変わっていく。
こいつの顔は淀みを通り越して、ただの闇と化してしまった。目があった辺りからは、その闇が溶けだしてのんびりと重力に引っ張られていっている。
「どうしてだろうね。強いて言うなら、私を私たらしめるものが欠落したから、かな」
「お前をお前たらしめる?何を云っている、お前から何が抜け落ちようと、お前はお前じゃないか」
「随分と知ったような口を利くのねハミル」
「ああそうだ。お前は私の初めての友達なんだから当然だろう」
自分でも驚くぐらいはっきりと想いをぶつけられた。だが、そんな私を叩き潰すようにこいつはいってのけた。
「確かにね。でもさ、友達だから全てを知ってるか、っていったら違うでしょ?それにさ、ハミル」
闇は私のすぐ眼前まで迫ってきて、そこで私を凝視した。心は逃避衝動に駆られているのに、体は見入ってしまったかのようにぴくりとも動かない。いや、違う。視線を外したらその瞬間に殺されると思っているから、まるで動けないんだ。ここは妄想の中、と認識していても、その妄想と現実の狭間に現れたこいつには、そこまでの恐怖を抱かざる終えない何かがあった。これは悪夢に似ている。耐え難い、非現実的なクオリティの憎悪。それが、今私に向かって死の呪文を解き放とうとしていた。
「貴方、私を名前で呼んだことある?」
その言葉は、私を壊すには十分だった。何故なら、種族だけでも遠い距離を更に開け放された気がしたからだ。
人魚は名前を呼べない。勿論自分の名前さえも。高貴な生き物は普段言葉を介さないからだ。言葉を使わずとも私たちは分かり合い、そして連携がとれる。その証明として、人魚の先祖は自分たちに呪いをかけた。名、を呼べぬ魔法。他の上位者たちはこんな真似はしない。それは人間や多種族と絶対的な開きを確信しているからこそ、そんなことをする必要性がなかったからだ。
だが、人魚はそうではなかった。見栄えこそ、世界中走り回ってもここまで美しいものは見られないとされる人魚一族は、種の欠陥として美貌以外を一切持ち合わせていなかったのだ。だが厄介なことに、プライドだけは何故か腹の内に蓄えていた。
こいつが私の名を知っているのは、初対面の際に、浜辺に直接名前を書いて見せたから。その時、名を見せ合う形であいつの名も知ったが、その名はわざと忘れた。忘れなければ、いつか口に出してしまいそうだと思ったのだ。誰かの名を呼ぶことは、私自身の死を意味する。
だが、そんな私の事情など、こいつは知らない。そして知らないという純粋さを帯びた凶器は、私の心の奥底にずっぷりとはまっていくのだった。
「やめて、お前」
泣きながらそう口ずさんだ。こいつの名を呼んでみたくて、でも出来なくて、言語のルールも守らず終いの言葉を終えて、私は深い眠りへと落ちていくはずだった。
刹那、闇が晴れた。私の目の辺りを覆っていた布が剥がされ、視界が明らかになる。雨天だったのが幸いし、目は光に潰されなかった。目の前には、はっきりと二人の男が写っている。そして背後には、少年だろう気配がした。
「人魚!やれ!」
慌てた様子で彼らは私に駆け寄るが、それが私には止まってさえ見えた。おかしな表情で停止した彼らは、私が指を鳴らすと動き出す。そう、前後ではなく、本来あり得ない上下に。
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