第9話人魚の名

 私は暗闇の中、一人後悔の海の中を優雅に泳いでいた。それは故郷の海を思わせたが、そこで得られる酸素は重っ苦しく、とても肺に入れられたものじゃない。だが、感傷に浸るなら十分だ。

 暗闇が晴れる。そこにはあいつがいた。故郷の海沿い、浜辺のきめ細やかな砂にほんの少しだけ足を埋めて、私に背を向けている。

 私はそんな彼女を見て、ここはあの時のあの場所だ、と悟った。私が後悔して止まなかった、あいつとの別れのシーンだ。

 今これを見るということは、期待していいのだろうか、と私は迷った。何度もやり直したいと考えていた過去が、手が届く範囲に収まっている。だがこういった目先の欲に手を出すのは実に人間的ではあるが、残念、私は人間じゃない。私は人ならざる者。人に似せて創られた、紛い物だ。

 彼女を通り越した向こうの海は、その青色を若干に赤で染め上げられていた。向こうでは、私の同胞が野蛮な人間どもに狩られている最中か、その後だ。対照的な程にこちら側は平和でしょうがないが、もし私があちら側にいたら、少しは救われたのだろうかとも考えてしまう。

 人間が幾ら海を汚そうと、海底にへばりついた神秘までは汚せなかった。今でもあそこには新鮮なままの神秘が埋まっている。私はいつか迫害されると睨んで、それを空き瓶に詰めて持ち歩いていた。だから、咄嗟に逃げれたのだ。こんな形になるとは+予想にもしなかったのだが。

 私は彼女に声をかける。緊張を通り越して、恐怖感すら抱きながら放った声は、どこか不安定な音色を醸し出していた。

 「おい、こんなところで何をしてるんだ」

 あいつが振り返った。普段は私がいる場所に、こいつがいる。だって陸に近いのはこちら側だから。

 私たちにとって、この浜辺は互いが生きる世界の境界線だった。あるべきものはあるべきところへ、先人が語った真理をほんの少し飛び越えて、私たちはたわいもない会話を毎日、誰にも内緒でしているのだった。

 あいつはあの時と全く変わらない、悲しみの泥に顔を埋めてきたような、そんな見るに耐えない顔をしていた。

 私はそれに苛立ちを覚える。なんたって夢でもこんな仕打ちを受けなければならないのだろう、と思う。

 夢ぐらい自分に都合のいいものを見せてくれ。

 「別に?いつも通り貴方に会いに来ただけよ?」

 「お前が会いに来るのはいつも夕方だろう、今は真っ昼間だぞ」

 「別にそんな些細なこといいじゃない」

 あいつはぷくっと頬を膨らませる。その様子は人魚という紛い物の私から見ても、とても愛らしく見えた。

 茶色い長髪は白いワンピースの肩掛け部分で丁寧に切りそろえられている。こいつの母親は小さな村で唯一の美容室を開いていて、その娘であるこいつは恩恵をもっとも近くで受けているのだ。容姿は若干父親に似たらしいが、それでも女性らしい見栄えは全く持って汚れないし、この成長具合だとどうせ父親もそれなりなのだろう。

 「っていうか、貴方はどうして故郷側から来たの?買い物か何か?」

 あからさまに話を変えたこいつの調子に仕方なく私も合わせる。

 「まあな。人魚の中じゃ私はハブられているから、獲物はこっちで貰うしかない。つっても大した物を食わなくても私らは生きられるからな。村民の些細なお恵みを貰うだけで一ヶ月は生きられるが」

 「それは初めて知った。村では一回も貴方を見かけたこともなかったけど、どうやって正体も明かさず食材を貰ってるの?」

 「あー、お前にはまだ無い大人の魅力ってやつだよ」

 嘘だ、本当は捨てられた子犬のような目をして、わざとらしく商売人の前を通り過ぎるのを繰り返すことをしている。だがそれはこいつにはいってやらない。いったらきっと、こいつは私の嘘を信じて村で張るに違いないからだ。そんなことで、私がこんな乞食まがいなことをしていると知れたら、とてもじゃないがぞっとしない。きっと彼女は私をどうにかして救おうとしてしまうだろう。その優しさが、誠の意味で私と彼女を分かつことに、気付きもしないで。

 酷い、私だってもう十六歳だよ、と彼女は意地を張るが、そんな歳月を刹那に飛び越えてしまう私からすれば、こいつはまだまだひよっこでしかない。

 「お前も少しは男のあしらい方ってやつを学んだ方がいい。今はまだそれでも生きていけるが、もしここを出ることになったとしたら、とてもやっていけんぞ?」

 「そんなの、私が一番分かってるよ」

 こいつはあの少年の父親である絵商人と恋に落ちている。だが絵商人は商売上一つの場所に留まるわけにはいかない。だから、もしこいつが絵商人と添い遂げることになったら、必然的にこの村を出なければいけないのだ。この時点でどこまでの進展があったのかは分からないが、あの堅物そうな男を捕まえたのだ。相当なドラマがあったのだろう。もっとも、そこは私にとってはどうでもいいところだ。

 「ねえ、ハミル」

 再び顔面に影を落としてこいつは私に対して口ごもる。その先の台詞を私は知っている。

 「私」

 「私はやっぱりハミルと一緒にいたいよ、だろ?」

 彼女は言おうとしていたことを先回りされて、逃げ道を断たれた鼠のように目を丸くしている。

 うんざりだ、繰り返しなどしてなるものか。私はこいつの願望と事実の提示に対し、それを当時仲間のいない私に対しての哀れみのように感じ、逆上してしまった。だが、理解している今でも、やはりこいつの口から直接聞くのは躊躇われる。

 私とこいつは、対等だ。友人であり、家族であり、だが別種族。どこの国だって人間同士で戦争をするだろう。どんなに友好的な関係であろうと、同種族でさえ分かりあえない場所がどこかしらにある。そんな因果の中、私たちの些細な壁は、遙か遠い距離をいつの間にか築いてしまう。そう、私がこいつをあの町で見かけたときの、あの距離感だ。近いのに、遠い。追いかければすぐ手が届くのに、追いかける気力さえ起きない。

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