第7話逃げおおせた場所にて

 この町の中を、この町の人々全員を敵に回しながら逃げるのは、元々困難なことだった。

 きっと、魔法を解かれた奴らが応援を頼んだのだろう。会う人全てが、まるで最初から僕たちのことを知っているかのように襲いかかってきた。その度に少女が魔法で撃退し、活路を開いて再び逃げ場所を探して、そうした繰り返しの末、疲れ果てた僕らは引き寄せられるように砂浜へとたどり着くのだった。

 少し前に訪れたときとなんら変わりない景色にすっかり心を落ち着かせる。雨は依然として止まないし、僕らが放置していたテントも、形は崩れて地面に大きな山を作っていた。

 僕らは息を切らしていた。少女の体力はどうか知らないが、僕の体力は少なからず残っていない。今は腕を上げることさえキツそうだ。

 少女はそんな僕を置いて、中央付近まで歩いていく。背筋は延びていたが、肩は微かに上下していた。

 僕は少女の背後に語りかけた。まるで懺悔でもするかのように。

 「僕の母さんは、根は良い人だった。時々理不尽なことで僕を叱りつけてきたこともあったけど、その後にちゃんと謝ってくれた。そんな母さんが好きだった。だけど、なんでかな。今はなんか不思議とそういう風には思えないんだ」

 少女はこちらを振り向かないまま、いった。

 「嫌いになっちゃったの?」

 「いや、違う。好きだよ、最後に看取ったのがこの雨だから、雨に嫉妬するぐらい。でも、なんていうか。本当に母さんは僕を愛してくれてたのかなって」

 瞼をする刹那、その裏側に見えたのは、やはり母が写真立ての前で懺悔する様子。

 「こう思うんだ。本当は母さんは僕じゃなくて、僕の奥に父さんを見てたんじゃないかって。洗濯も料理も、掃除も母さんのご機嫌取りも、今思えば全て父さんが積極的にやってくれていたことだ」

 そう、父さんは画家という大変な職業の割には、かなり頻繁に家庭に協力してくれた。

 母はその役目を僕に押しつけたのではないだろうか。後に続けたのは自分だが、最初は強要から始まっていたことを思い出す。

 その時幼かったからよく覚えていないが、本当に僕は心から自主的に取り組んでいたのだろうか。ただ、打たれる恐怖に怯えながらこなしていて、こなしていく内に勝手に体に染み着いただけ、と考えた方が、今の僕の心境には説明がついてしまう。

 「僕」という存在は、一体どれほど母さんに認知されていたのだろう。

 「分からない」

 少女は冷め切った声でいった。僕はそれを聞いて苦笑いを浮かべる。

 少女の性格は、まるで光沢のある銀食器のようだ。そのままの状態で触れてしまえば冷たくて手を放してしまいそうになるけれど、煮込んだスープを注げば乗じて暖かくなる。そんな、単体では存在せしえないような脆さをどこかに感じる。それが何かは僕にも分からないのだが。

 「じゃあ、母さんだけのことだったら分かるんじゃないか?」

 「確かにね。きっとあなたのことよりもっとずっと知ってると思う」

 「教えてくれないか?僕には知る義務がある」

 少女はふうと一息ついて、こちらを振り返る。その大きな瞳が、ぐんと僕の奥底のどこかを見つめている気がした。

 「私とあなたのお母さんは、友達よ。昔からの」

 「友達?歳が違すぎないか?」

 「人魚はあなた達とは違って長生きなのよ。あなたのお母さんの生まれ故郷付近の海で、私たちは出会い、そして仲を深めた。当時引っ込み思案で全く友達がいなかったあいつと私は、とてもすぐ馴染めたわ。なんせ私も人魚の間柄じゃあまり上手くいってなかった。人魚が人間に興味を持つ、それはタブーとされていたから、私は仲間からはぶられていたの」

 僕は相槌も声も出さず、彼女の話に耳を傾けていた。

 「私は心底仲間を恨んでいた。それこそ死んでしまえばいい、と思うほどに。だけど、いざそれが成されてしまうと、私の居場所はなくなった。ましてや、私の仲間を殺したのは王政、私の手じゃない。そしてそれを見たのは私ではなくあいつ。私はそれを聞いただけに過ぎない、ただの部外者だった。

 私は無気力感に支配された。憎んだ対象がまるで何もなかったかのように一瞬で処理された事実を受け入れられなかった。だから私は逃げ出した。人魚が海にいるとされているのを逆手にとって、わざとこの都会に。

 まあまさか、あいつが当時惚れてた絵商人とくっついて子供を産んでるなんて思わなかったけどね」

 「母さんとは、この町で会ったのか?」僕は問う。少々踏み込みすぎかとも思ったが、僕も形振り構ってられない。

 今は、母さんのことをもっと知りたい。純粋に。

 少女は一呼吸おいてから話した。

 「会ったわ、一度だけ。でもあの頃のあいつの面影はどこかに消えてしまってた。まるで何かに取り付かれたように顔色を悪くして、私を見た途端、走り出す始末。もうその時に察したわ。もうあの頃の関係には戻れないんだってね」

 「そうだね、そして、もう、本当に戻れない」

 そうね、と彼女は俯きがちに頷いた。こんなことをいったら嫌われるかもしれないと思い、思ったことは胸の中に留めておいた。

 彼女が悲しそうな顔をするのが、今の僕にはとても心地良い。自分と共通の話題で、同じように苦しんでくれる人がいる。それは、今までまともに友達を作ったことがない僕からすれば、とても嬉しいことだったのだ、と思う。

 鼓膜に響いていた雨の音は、徐々にその身を潜めていっている。視界はそこまで変わらないが、雨が段々と弱まっているのだろう。

 僕は空を見上げた。上空では灰色の雲が我が物顔で漂流していて、その体から滴り落ちたものが僕の網膜に何度も衝突しては、弾けて消えた。

 僕は不覚にも、この儚さに身を預けてみたい、と思った。天空から地上に降り立つまでの短い一生を、残酷なまでに刹那に過ぎ去ってゆく雨粒達。それに代われば、僕のこの一時の悲しみなど、考える暇もなく終われるだろう。

 だが、そこまで考えてから考え直した。この雨粒達が、刹那を刹那と感じている証拠がない。もし、だ。僕らよりも遥か長寿の存在が僕らの一生を見たら、きっと僕らが早く死んでしまっているように感じるのではないだろうか。本当にそうなら、この雨粒達に儚さなんてものを感じるのは、彼らの一生に失礼だ。上空から地上に落ちる刹那の旅路の中、彼らは僕らの知らぬところで、幾星霜ともいえる季節の移ろいを感じているかもしれない。

 母さんは、何故こんな雨を好きになったのだろう。母は人間嫌いだった。父さんを失ってからというものの、周囲の人間からの干渉を一切拒絶して、あの家に引きこもった。唯一家を出るときは、買い物の時と、故郷に帰れる算段がついた時。それ以外の日は、雨が降っていればずっと窓から外を眺めていた。

 その様子は、目の前にいる人間らしい人魚と正反対に、人魚らしい人間だった。

 「これからどうするつもり?」

 彼女が、あの時と同じ質問を僕にする。僕は少しの間だけ頭を捻った。互いの間に静寂が訪れると、限りなく近いであろう周囲の喧噪が聞こえてきて、僕は答えを急ぐ。

 ここが見つかるのも時間の問題だ。みんな来たがらないだけで、探す宛がここしかなくなれば、勇気のある者がいずれここを訪れるだろう。

 「この町を、離れる。離れて、どこか遠くへ」

 「遠くってどこ?」

 「分からない。でも、ここよりかはどこもマシだと思う」

 「そう、ようやく踏ん切りがついたのね」

 僕は、ああ、と相槌をうつ。嘘だ、僕はまだこの町に未練を感じている。だが、早くこの町から出なければ、精神がとても持ちそうになかった。

 僕の瞼の裏に張り付いた母さんの骸は、未だ腐り散ることを知らず、僕に呪いをかけるように居座っている。

 「なあ」

 僕は少女に問いかける。

 「何?」

 「良かったら一緒に来ないか?恐らくだが、君の正体も奴らに割れてると思う」

 あれだけ魔法を体に受けた者がいるのなら、誰か一人ぐらいは感づきそうだ。彼らが使っている武器が何で出来ているか、それは知りえそうもないが。

 「私は、ここに残るわ」

 「何でだよ!こんなところにいたら、僕の母さんの二の舞になる」

 「私はここでしか生きられないの。ここの用水路の水、普通じゃないでしょ?私たち人魚は本来、生まれ育った海でしか生きられない。それを無理矢理適用させる為の必需品があれ。いつかはこうなるって分かってた。覚悟が無かった訳じゃないわ」

 「そんな」

 そこで僕は不振に思った。彼女が指さした用水路の神秘、その傍らにあるテントの残骸が、密かに揺れているように感じたのだ。

 それが何か理解した時には既に遅かった。彼女と僕の一瞬の隙をついた一撃が、そのテントの影に潜んでいた黒い影二つから発せられて、僕らは無惨に路上を転がった。吐き気は、後からこみ上げてきた。痛みと共に訪れたそれを感じてから、僕はようやく、ああ殴られたのか、と思えた。

 ぐえ、と声を漏らして彼女の方を見ると、彼女の側に大男の足らしきものが生えていることに気が付いた。それを見た直後に、僕の耳のあたりにも何者かの存在を感じる。

 刹那、衝撃が顔面を襲った。腹に続いて鼻頭を一発、今度は皮らしきブーツのつま先で、容赦もなく蹴られた。

 「ようやく見つけたぜ。盗賊もどき」

 その声は聞き覚えがあった。だから顔を見るまでもない。僕が殴らなかったことを後悔した、あの憎き二人組だ。

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