第6話復讐の狼煙

 自分を落ち着かせる言葉を何度も胸の中で反芻させて走る内、ようやく二人を通り越した大通りに体を晒すことが出来た。いつもとなんら変わりがない景色。唯一変わったことといえば、ここから見えるはずの僕の家付近から黒煙が挙がっていて、鉄のような臭いがここまで臭ってくることだろうか。

 「母さん!」

 喉が張り裂けそうな程に叫んで、僕は煙の方へ向かった。

 例えばだ、人が一人、それか複数、僕のこれから向かう先で殺されていたら、ここまでこういった臭いが漂ってくるのではないだろうか。

 気持ちが先行しすぎて、上体が前のめりになり、何度か転びそうになったが、そんなことはどうでも良かった。

 嫌な予感と、少女の予言じみた何かが当たってしまった。そう心の中で、まだ確認もしてないのに決めつけてしまって、全身から酸素が抜け落ちてしまったかのような感覚を味わう。それを補う為には、ひたすらに体を力ませるしかなかった。走る、という行動の障害にはなったが、体を硬直させて、これから目の前に広がるであろう惨劇を耐える意味合いでは、僕の体は正しい判断を下した。

 実際、そうなったのだから。

 僕が生まれ落ち、ここまで育った我が家は、見る影もなく醜い煉瓦片の集まりになっていた。その周囲は、様々な色をした傘が覆っている。

 僕は群衆の波がまるで無いかのように直進し、突っ込んだ。不意を付かれた者は皆、前のめりに倒れる。そして倒れた前方に位置していた奴がまた体制を崩し、現場は汚いドミノ倒しが起こっていた。僕はその体躯と混乱の隙間を縫って、駆けていく。体が硬直して消音性は欠いても、僕の俊敏さは未だ劣らず、群衆の中央、もっと家に近い部分にいるであろう母の姿を求めるには、なんら障害でなかった。

 波を抜けると、ぶわっと不快な臭いが鼻を鋭く突いた。それが、目の前の僕を育ててくれた女性から発せられている、と気付くには僕は冷静さを失いすぎていた。

 やがて気付いて、やっと言葉が零れる。

 「嘘だろ」

 僕の周りには人の気配が潰えて、代わりに空っぽの空間が何重にも置き換わった気がした。そこはとても静かで、寒く、どこか味気ない。

 心臓の音がやたら主張してくるので、僕は黙らせる為に右手で胸を掴んだ。まるで奥までたどり着けない僕の指は、濡れた衣服と皮膚だけをすくい上げて、そこからにじみ出た鮮血に汚れた。僕はそれを見て、目の前の母親みたいだ、と思った。 もし自分と母親の立場が逆転していたら、どれだけ僕の心は救われるのだろうか。僕が死んだら、母は今の僕のように泣いてくれるだろうか。そう心の中で何度も自分に問いかけてみるが、永遠と答えは出そうになかった。

 「来やがったぞ、悪魔の子だ!」

 背後で男の怒鳴り声が響いた。それを聞いて僕は現実に帰る。振り返ると、先ほど僕がはね飛ばした大人たちが雨粒に濡れ、立ち上がるところだった。

 僕が母と再会を果たした際の時間は、思ったよりも遅く流れたようだ。しかし、まだ足らない。後悔による懺悔と憎しみによる衝動を消化するには、後数年は費やす必要があるのだから。それを待たずに僕の前に立ちふさがるということは、それは母の二の舞になっても良い、という意思表示以外に、何があるのだろう。

 「お前等が母さんをッ!」

 「戦争を起こすような悪魔は滅ぼされて当然だ!俺たちはただ平和に暮らしたかっただけなのに」

 そうだそうだ、と僕を囲っている他の奴らも騒ぎ立てる。こいつらはいつ、この国が戦争状態になることを知ったのだろう。だがその疑問も空しく、呆気なく答えは出た。

 群衆は腰に携えていたのだろう、武器を取り出し始めたからだ。それら全てが、あの少女の下半身に張り詰めていたような神々しい何かで出来ている。

 人魚の武器だ。

 「僕たちは戦争とは何も関係がない!何の力もない、ただの市民だ!」

 「嘘をおっしゃい」奥にいた四十は過ぎただろう女性が続ける。

 「前々からここの家はおかしいと思っていたのよ。昼に子供の泣き声が聞こえたり、かと思ったら夜中には女性の泣き声が聞こえる。でも父親は他界していて、って不気味でありゃしない。最初こそは母親がヒステリックを起こして貴方に乱暴してるもんだと思ったけど、そしたら貴方も貴方で犯罪をし始める。ここら付近で怪しみ始めたとき、ある二人組が教えてくれたわ。貴方ら親子は悪魔に毒を飲まされて、おかしくなっているって」

 記憶がちらつく。頬を打たれた記憶や、細技のように不健康な足で踏みつけられたこと。それでも、たまに笑顔で僕を抱きしめてくれる母の顔。あの母の中に巣くっていたバケモノは、果たして悪魔だったのだろうか。

 「や、やめろ!母さんを侮辱するな」

 「じゃあ止めよう。止めて、早く楽にしちまおう」

 「そうね、その方がきっと良いわ。毒は早めに解毒しないと。私たちも毒されかねない」

 じりじりと彼らが詰め寄ってくる。それに合わせて僕も後退していったが、それも永遠とは続かず、僕の元自宅であった瓦礫の山の麓に差し掛かり、僕の脱出路は完璧に途絶えた。ふと視線を感じて遠くを見ると、例の男二人が壁に体をもたれかけさせて、こちらを憎たらしい表情で眺めていた。

 僕は後悔する。あの時にぶん殴っておけば良かった、と。どっちにしろ死ぬ運命だったのなら、最後ぐらい、自分の欲求を満たして死ぬ方が後悔は残らなかっただろう。

 いや、そうでもないか。今僕がもっとも悔やんでいることは、あの時何故母さんの前から立ち去ってしまったのか、ってことだ。もしあのまま母さんに殺されていれば、少なくとも今よりかは、マシな心境であれた筈だ。

 体を瓦礫に押しつけすぎていたようで、血が吹き出たようだ。背中からは、雨とは違う、暖かい感触が滴っている。やがて、手が届く範囲までに彼らが追いつめてくると、僕は意を決して目を瞑った。瞼の裏側には母がいる。僕が隠れてみていた、写真立ての前で泣き崩れた母の姿。果たして、あの母は救われたのだろうか。それだけが、今の僕の心当たりだった。

 藁を地面に引きづった時みたいな、すすり泣く声を最後に、僕は死を覚悟した。

 「母さん、ごめん」

 目の前で空気を裂く音が聞こえた。僕は体を強ばらせて、自分の肉が分断される瞬間を待った。だが、それは一向に訪れない。不振に思い細目を開けて外を見ると、そこには、今まさに武器を振り下ろそうとしている男が、そのままの姿で硬直していた。

 「え」

 「なんだよこれ、体が動かねえ」

 見れば、男の後に群がっていた他の住人たちも同じように体を動かせずにいた。幸い、瞼と表情筋だけは動かせるようで、始終顔面をぴくぴくとむず痒そうに痙攣させていた。僕は思う、この術どこかで見覚えがある、と。

 「君!早くこっちに!」

 彼女の声だ。姿は見えないが、どうやらここらにいるらしい。

 僕は固まった状態の彼らを置き去りに、声のした方へと彼らの間を縫って走っていった。

 すると、例の男二人のすぐ側に彼女の姿を見かける。あの二人も、流石に魔法にはかなわないらしい、他の人同様にしている。彼女は歩行の為か、下半身にはきちんと足がついていた。

 「どうしてここに!」

 「いいから、逃げよう」

 彼女に腕を掴まれる。だが僕はその腕をふりほどいた。脳裏には、住人に踏まれた母の姿が浮かんでいた。

 「なにしてるの!?」

 「ごめん、僕はやっぱり母さんは置いていけないよ」

 「君のお母さんは死んだの!感傷に浸りたいなら後にしなさい」

 「君に何が分かる!たった二回顔を合わせた程度で、僕と母さんを分かったような口を利くな」

 一度絶叫していた為、声を上手く使えずに掠れた声をあげてしまう。僕の頬には先ほどとは違う、勢いの強い涙がつたっていた。吐き出した想いが、僕の体に火を灯していく。ここで初めて僕はこの雨を、冷たい、と認識した。

 肩を上下させながら彼女を恨めしげに見つめる。彼女は暫く僕を見据えた後、囁くように呟いた。

 「分かるよ。分かるからここまでいってるんじゃん」

 「例の魔法かい?なら確実じゃない筈だ。殆どは憶測なんだろ?そんなものしか見えない奴に、どうこう僕は言われたくない!」

 「おかしい、って思わなかったの?」

 「何がだ」

 「なんで私が君のお母さんを知っているか、とか。妙に君の心の中を当てすぎる、とか。それらが全部憶測?とてもじゃないけど、それは私たちでも無理だわ」

 確かに、と僕は心の中で思った。今までの彼女は、些か不気味すぎた。今までの言動も思い返してみると、まるで僕の全てを先に知っているかのような、少々先回りな言葉使いにも思える。

 そこで僕は気付いた。

 「まさか、君は母さんと関係を?」

 「それが正解かどうか知りたかったら、さっさと付いてくるのね」

 再度手首を掴まれるかと思い身構えるが、それは無駄に終わった。僕の体は宙に浮いていたからだ。まるであの時のようだ、と思うのも束の間、そのままの状態で母から遠ざかるように吹き飛ばされる。路上に背中から着地して、一瞬息が出来なくなる。

 「げほ、そこまでしなくたって」

 「どうせ、動くつもりなかったんでしょ?ほら早く走って!じゃないと吹き飛ばしながら進むわよ」

 僕は渋々彼女の云うことを聞く。背後からは、恐らくまだ固まっているだろう群衆の、断末魔にも似た怒号が飛び交っている。それを聞いていたら、あの母の惨劇を思い出してしまって、僕は不覚にも、逃げ去りながら涙を宙に浮かせていた。

 彼女は隣でいう、まだ泣いてるの、と。

 雨粒の間違いじゃないか、と僕が返すと、納得がいっていない様子で正面を向いた。僕が何よりも辛かったのは、雨の日に母が死んだことだった。雨に包まれながら血を流す母は、どこか安堵しているような表情に見えなくもなかった。僕の母は雨に連れ去られた。そして僕は、最後を看取ることも出来ずに、今こうして逃げおおせている。その残酷な事実が、僕の心をえぐり取り、空っぽにしていった。

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