第3話正体

 怒号が町中に飛び交っている。僕は三階建てのビルの影に体を隠しながら、周囲を伺っていた。僕の手には、既に固くなってしまったパンが握られている。その表面には、見事に僕の手形が深く刻まれていた。

 声が遠のくと、僕は影からひょっこりと体を外に出し、手元のパンをもう一度見つめた。

 女の子と会ってから三週間、僕は一際この町で有名人になってしまった。と、いうのも、今までは生活に足らない部分を補う為に盗みを働いていたのに対し、現在は生きる為に盗んでいる。だから、盗みの頻度が必然的に上がって、僕の人相は町中に知れ渡ってしまったのだ。そこらの壁を見れば、僕に対する警告にも思える僕の似顔絵が張り出されている。少しでも素顔を晒して町を歩こうものなら、すぐに誰かが叫びをあげる。

 この町に、僕の居場所は何処にもなかった。

 乱暴にパンを一かじりするのと、雨が降り始めたのはほぼ同時だった。

 僕は雨を凌げる場所を考えたが、例の場所以外は何処も人目につくところばかりだった。しかし、金もないのに雨に打たれ続ける訳にもいかず、僕は仕方なく妥協する。

 あれから神秘が垂れ流れるあの場所には出向かなかった。前と何かが変わったわけではない。ただもしあの少女とはち合わせたら、少し気まずい、と考えていたのだ。

 それに怖かった。自分の心を覗かれること、そして自分の嘘が自分にバレることが。

 僕は走る。足音を完璧に消し去って、煉瓦壁や石畳の路上に打ち付けられる雨と一体になる。何度か通行人の隣を通ったが、その誰もが僕の存在に気付きもしなかった。僕が生きる為に培った技術だ。母さんを喜ばす為に手伝った家事が、まさかこうも器用さに繋がるとは驚きだが、使えるものは全て使っていきたい。この細い体も、長い髪の毛も、今を生きるにおいては大事な要素に成り上がった。

 砂浜にたどり着くと、僕は事前に盗んでいた比較的小さいサイズのレジャーシートを懐から広げて、端に落っこちていた一本の棒を拾い上げる。それを柱にしてシートで天井を作り簡易的なテントを作り出すと、僕はそこに体を引っ込めた。雨はまだ振り初めだからか、あまり雨の影響を受けていない。

 僕は白い息を吐きながら、くそったれ、と悪態をついた。

 雨は嫌いだ。雨は人の心に容易く干渉してくる。末端神経からじわじわと体の中枢にまで上り詰めて、やがて心からも熱を奪い始める。それは奪われ続ける人生だった過去の自分を触発して、陰鬱とした気持ちにさせるのだ。

 だがある意味、僕と雨は似たもの同士なのかもな、とも思う。兄弟や親といった近しい関係程に衝突を繰り返すだろう、僕と雨も、きっとそんな間柄だ。

 とはいえ、喧嘩とは仲直りという終着点をもってして存在している言葉に他ならない。もし仲直りが出来ないのなら、その関係は疎遠や絶縁といったものに変わってしまうからだ。だから、僕もいつかは仲直りしなければならないのだろう。この雨が織りなす哀愁を受け入れて、認めなければならない。そうして初めて、雨が好きだ、といっていた母にも、再び近づけるのだ。それがいつになるかは検討もつかないが。

 紙で作った斜面から砂を転がり落とす時の音に似た音がずっと重なって、僕とこのテントを包み込む。こうしていると、僕は世界でたった一人の存在になってしまったかのように思えた。そうした密かな優越感を踏み倒したのは、僕がここに来たくなかった理由だった。

 「凄い雨だね、隣いいかな?」

 駄目だ、定員オーバー、と僕は素っ気なく返す。それでも、いつの間にか現れたこの少女は、当然かのように僕の隣を陣取った。そこで体育座りをする。

 正直、彼女が来ることは何となく分かっていた。本当に予感でしかない、何となくだが。

 「最近どこも君の話で持ちきりだよ」

 「例えば?」

 「パンを盗まれた話とか、悪戯されたとか、はたまた隣町の老人が君に殺された、とか」

 僕はため息をつく。最初のパンを盗んだことに関しては本当のことだが、それ以外は全て噂の一人歩きだ。思わず大きな笑い声を発してしまいそうで、でもそんな気力がなくて、結局間つかずの不敵な笑みを浮かべてしまわぬように、僕は無表情を貫いた。

 僕は生きる為に致し方ない最低限の干渉しかこの町の人たちにはしてこなかった。

 隣町まで行って帰ってくる体力も金もない。ましてや、人を殺す動機はなかった。

 だって、僕は人を傷つけずに人から物を盗むことが出来るのだから、わざわざ大きな罪を背負う理由もないのだ。

 少女は悪戯な笑みを浮かべながら、僕の顔を覗きこんだ。

 「ねえ、本当に人を殺しちゃったの?」

 「そんな訳ないだろ。君が聞いた殆どの話はデタラメだよ。僕に人を殺す勇気はない」

 「ふーん。まあ、それは分かるんだけどさ。多分周りはそう思ってないよ?」

 そうだろうな、といった僕の声は、雨の音に半ばかき消されながらも、きちんと役目は真っ当したようだった。少女は悲しそうな表情で僕から視線を外す。

 少女のいう通りだった。僕の思いに目を向けるのは、少しばかり世間は冷たすぎる。そして暇を持て余し過ぎていた。

 当人のしたことなんてことは実際どうでもよくて、彼らは新しい話題がくればそれでいいのだ。この町からしたら、僕はパン泥棒で、悪戯っこで、そして殺人者なのだろう。僕の居場所は、限りなく小さかった。

 少女はいう、そろそろ頃合いじゃない、と。その優しいような、厳しいような提案が、外の雨音にかき消されることを祈ったが、しっかりと僕の頭の中にまで突き刺さって、そして暫く消える兆しはない。

 本当は分かってる。それでも僕がここに留まっているのは、この街に母が留まっているからだった。母はまだ戦っている、あの醜い化け物と戦い続け、心の中では僕の帰りを待っている、はずなのだ。

 「もう、少しだけ。後少しだけここにいる予定だ」

 「いい加減にしなよ、死にたいの?今は兵隊だって、町の噂を信じ切ってあなたを探し回ってる。捕まれば恐らく死刑よ?」

 「うるさいな!君は何なんだよ。たった一回しか僕と顔を合わせたことない癖に、何でそんなに僕にかまってくるんだよ」

 言い終わった後に、僕は思わず冷静になる。自分がここまで声を出せると思っていなかった為に、自分の声に驚いて、我に返ったのだ。

 少女は僕の目を見たまま、目を見開いている。最初は驚かせてしまったか、と思ったが、すぐに思い直す。少女は僕の心を覗いている。あの時みたいに。

 「君は私のことが嫌い?」

 「いや、別に」

 「嘘ね」

 「うそじゃ」

 「嘘。あなたは私に見透かされるのを怖がっているだけ。後、この町にもきっと未練がある。気持ちは分かるけど、それは生きることより大事なことなの?」

 僕は目線を地面に移した。路上の細い僅かな割れ目に、心奪われてしまったかのように見入る。吸い込まれそうだ、と僕は思った。そして、このまま吸い込まれてしまえばいい、とも。

 「大事さ。僕の、もっとも大事なものなんだ。勿論、自分の命なんかよりも、ずっと」

 「そう、いっても聞かないのね」

 「ごめん、心配してくれてるのに」

 「別に?私はあなたがちょっと私に似ていた気がしたから、興味を持っていただけだし。そこら辺でのたれ死ぬんだとしても、何とも思わないわ」

 少女は体に立てかかった膝に肘をくっつけて、頬杖をついた。柔らかそうな頬が、くにっと歪む。

 それはそれでひどい話だ、と思った。

 「君は何者なんだい?魔法も使えれば、いきなり消えたりする。心も読めて、しかも君をこの町で見かけたことがない」

 「心の色、ね。でも、ふふ、私に興味が出たの?」

 少し、と答えた。少女と出会うのはこれで二回目になるが、どちらともこの場所でしか出会ったことがない。少女の存在の曖昧さが、今はとても不気味で、そして興味の的になっていたのだ。

 少女は考える素振りをする。

 「本当は教えちゃいけないんだけどね。あなたは人生短そうだし、いいか」

 僕はまだ死なない、そう云おうとして口を開く刹那、少女の下半身は光り輝き、空中に幾つも連なっていた雨粒を一掃した。その間が僕にはとても長い時間のように思えた。自分がもう一世代分、歳をとるかのような体感時間を味わうと、僕は細めた瞼の間から少女を覗き見た。

 僕は思わず息をのんだ。

 「これで私が可愛い理由が分かったわね」

 少女の下半身にはびっちりと鱗が引き積められている。碧い結晶のようなそれら一つ一つは光沢を持っていて、まるで雨粒を集めたようだった。蛇のようなカーブを経た先には、成人男性の顔程の大きさの尾鰭がくっつかっている。

 雨が、今始まったかのように思えた。いや、実際にそうだった。少女の光に弾かれていない雨が、ようやく再び地面へとたどり着いたのだ。留められていた雨粒が一気に路上で朽ちて、一瞬だけ勢いのいい滝が流れ落ちていく様子を思い浮かべてしまった。

 僕は少女に視線を釘付けにされたまま、生唾を飲み、やがて深呼吸を何度か繰り返した。

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