第5話

 西に太陽が傾き、先程まで茜色に染っていた空が竜胆色に差し掛かる。

 見上げた空は時が進むごとに橙色と紫色が織り交ざり、昼と夜の境界をあやふやにしてゆく。

 その光景はまるで、別の世界に来たかの様な錯覚を覚えるほどに美しいものであった。


 俺と宏樹、そして涼鈴は一度別れてから、涼鈴の家で再び集まることになった。

 そんなにホイホイと男を家に上げて良いのかと彼女に尋ねると、両親は共働きで遅くまで帰って来ないから心配はないと答えた。

 そういう意味で聞いたのではないのだが、彼女が良いと言うのならそこまで気にするほどのことではないのかもしれない。

 宏樹も涼鈴の家に来るのは明後日の作戦の概要を共有しておくためだ。

 明日は涼鈴が親と買い物、俺と宏樹はそれぞれバイトがあるということで作戦会議は実質これで最後となる。だから、今日は明後日の作戦決行日の為に細かいところをとことん詰めて、どんな事態に陥っても臨機応変にきちんと対応できるように全員で話を合わせる必要がある。

「すまん、ちょっと遅くなった」

「いや、予想よりもだいぶ早かったぞ」

 俺と宏樹は学校の正門前で一度集合すると学校の敷地内を突っ切って、裏門からわずか一分もかからない所に位置する涼鈴の家に到着した。

「学校の近くとは聞いてたけど、本当に近いな」

 宏樹は涼鈴宅を見上げるとそう口を零した。

「だろ!俺も近い将来、ここから学校に通ったりかもな」

「ハッ!言ってろ。今の台詞でフラグ折れたかもな」

「願いは口に出さなきゃ叶わないンだぜ?」

「いかにもネットから拾ってきたような薄っぺらい言葉だな」

「まぁ実際にネットから拾ったからな」

 涼鈴の要望でインターホンを押さずにそのまま玄関にお邪魔すると二階にある涼鈴の部屋へ向かった。

 彼女の部屋の扉を二回ほど軽くノックすると、「どうぞー!」と小気味よい声が返ってくる。

「「お邪魔しマース!」」

 部屋に入ると勉強椅子に座り、明るい笑顔で迎えてくれる涼鈴の姿があった。

「お邪魔されまーす!」

 さっきと比べて、俄然テンションが高めなのが見てとれる。

 部屋の中央には小さなテーブルがあり、お茶の入ったグラスと皿の上に盛られたクッキーが用意されていた。

 どうやら彼女は帰宅してすぐ、俺たちの為に茶菓子の準備をして待っていてくれたのだろう。

 気を使うことなんてないのに、いったい彼女はどこまでお人好しなんだ。

 用意されたクッションに腰をかけ、お茶を一口啜ると、小さく息を吐いた。

「それじゃ、最後の作戦会議を始める」

 俺の言葉に宏樹と涼鈴はそれぞれ頷いた。

「まず最初に新城と相浦、二人の居場所を常に把握しておく必要がある」

「GPSでも取りつけるのか!」

 宏樹はワクワクを抑えきれないと言った感じで話に食いついてきた。

「そんなものねぇよ。早朝から相浦ん家の前で尾行するんだ」

 そう言うと、俺はテーブルの上に盛られたクッキーを頬張った。

 噛めば噛むほど、クッキーの破片やら粉やらが口内に纏わりつく。

 一気に口の中の水分をもっていかれ、喉が渇く。

 俺は手元にあったお茶を一気に飲み干すと、何気なしに呟いた。

「このクッキー、パサパサしてんな」

 すると、視界の端でブルブル震えている涼鈴の姿が目に映った。

「詩衣くんごめんね。そのクッキー、私が昨日はじめて作ったやつだったんだけど・・・・・・お口に合わなかったみたいだね」

「――――え?」

 よく見ると彼女の頬には小さな雫が伝っている。

 涼鈴の手づくりクッキーだと!?

 本来なら喉から手が出るほど欲しいものである筈、なのに、俺はどうしてそんなにも酷いことを彼女の目の前で言ってしまったのか。

「これ市販のやつと取り替えてくるね」

 涼鈴はクッキーを載せたお皿を手に取り、素早く立ち上がる。

「ちょっと待った!?」

 俺はそんな彼女の手を掴み、手からお皿を奪い取るとお皿のクッキーを口の中にぶち込んだ。

「何してるの詩衣くん!?」

 涼鈴は慌てて手を伸ばすが、その時には既に全てのクッキーを口の中に入れてしまっていた。

 口の中いっぱいにクッキーを詰め込んだせいで咀嚼するのにも時間がかかる。

 俺は時折、口から溢れそうになるクッキーのカスを零さないようにと両手で塞いだ。

 さき程とは比べ物にならないくらい水分が持っていかれる。

 俺の隣で宏樹が必死に笑いこらえているが、今はそんなことどうでもいい。

 こんなことただの自己満足だと分かってはいるが、涼鈴を泣かせてしまったことへの罪悪感を少しでも払拭しなければ気が済まない。

 何度も咀嚼を繰り返すことで、ようやく全てのクッキーを飲み干すことができた。なんだかこの一瞬で物凄く体力が奪われた気がする。

「はい、お茶どうぞ」

 横から涼鈴がお茶の入ったグラスを手渡してくれた。俺はその半分ほど入っていたお茶を受け取ると一気に飲み干した。

 飲み終えたグラスをテーブルの上に置く。

 そこである違和感に気がついた。

 グラスを置いたすぐ隣に空のグラスがもう一つある。

 これは確かさっき俺が飲み干したグラス。では、俺は今、誰のグラスを手にしているんだ。

 宏樹の方に顔を向ける。宏樹の前にはちゃんとグラスが置いてあった。ということは、まさか。

 涼鈴の方を見やる。すると、案の定、涼鈴の方にはグラスがなかった。それどころか彼女は自身の顔を両手で覆い隠しており、手の端からはみ出ている耳の先はこれでもかと云うくらい真っ赤に染まっている。

 余程、関節キスが恥ずかしかったのだろうか。

「あ、あの・・・・・・全部食べてくれてありがとう」

 涼鈴は微かに聴こえる程度の声音でお礼を言ってくれた。

 凄く嫌な思いをさせてしまったというのにだ。

「涼鈴が作ってくれたものは絶対に残したりしないよ。それより・・・・・・さっきは酷いこと言ってごめん!」

 俺は頭が床に着くぐらい深々と頭を下げた。

「そんなに謝らないでよ。詩衣くんが私のクッキー、全部食べてくれてホントに嬉しかった!」

 涼鈴は胸に手を添えると、心の底からの感謝を伝えてくれた。

 それから彼女は伏し目がちにこちらを見つめると、その瑞々しい唇を動かす。

「・・・・・・また作ったときは食べてくれますか?」

 揺れる黒髪、力の入る右手、潤んだ瞳。

 そんな瞳で見つめられたら益々君のことしか見れなくなってしまう。

 なんなら、いまと同じシチュエーションで涼鈴に「私の借金、肩代わりしてね」と言われてもイエスと答えられる自信さえある。

「食べます。・・・・・・いや、食べさせて下さい!」

「ふふっ。次は絶対に美味しいって言わせてやるんだから、覚悟してといてよね」

 あー、涼鈴がこんなにも俺に優しくしてくれるなんて、今更ながらに夢のようだ。

「その言葉がもう既に美味しいです」

 そう言ってのけると、宏樹は自身の額をばちこんと押さえた。

「あー、ダメだこりゃ。詩衣のやつ完全にイカレちまってやがる」

「あはは、そうみたいだね・・・・・・そろそろ作戦会議再開しよっか!」

「はいっ!」

 俺は鶴の一声ならぬ涼鈴の一声で姿勢を正し、正座する。

 隣で宏樹がやれやれと首を振っていたのが見えたが、そんなことは知らない。

「とりあえず相浦を尾行する線は決定で良いよな?」

 俺は涼鈴と宏樹に確認の意を込めて目配せしてみせると、涼鈴は素直に頷いてくれたが、宏樹は渋い顔を浮かべた。

「これはあくまで俺個人の見解なんだが、新城はたぶん相浦を拉致する時に車を使うと思う」

「クルマッ!?」

 予想だにしない宏樹の言葉に思わず、声が裏返ってしまった。

 驚いたのは涼鈴も同じようでぽかんと開いてしまっている。

「でもでも!だとすれば、向こうは誰が運転するの?」

 涼鈴は慌てた様に宏樹へ問いを投げかける。そんな彼女の瞳の奥は揺らいでいるように見えた。

 向こうは免許のない高校生。こんな犯罪紛いな悪巧み付き合ってくれる大人なんてそうそういないはず。

 それに三年生であろうと免許を取り始めるのは、早い人でも夏休み頃からだ。加えて新城は運動部。

 夏休み手前であるこの時期に持ってるいるわけがない。

「俺は新城が五ヶ月くらい前に教習所へ通っている姿を見た。それにあいつは誕生日迎えた五月にに本免許試験に受かっている」

「――――ッ!」

 最悪だ。今の話が真実だとすれば、誘拐される直前に相浦を助け出さなければならず、作戦の難易度が段違いに跳ね上がる。それに犯行の現場の証拠写真を残しとかないと、また新城に処分を下すことができず―――次は標的として涼鈴が狙われるかもしれない。

 それだけは絶対に避けなければいけないんだ。

「どうしよっ、詩衣くん!?」

 涼鈴の表情や声からは焦りと緊張が伝わってくる。

 本当にどうしようだよな。さすがに自転車で車を追い掛けるなんてのは無謀過ぎると思うし、なんとかアイツらの移動先さえ追跡できる方法があれば―――あっ。

 ここで俺はある秘策を思いついた。

「なぁ宏樹、そういやこの前、アレ買って言ってたよな?」

「アレってなんだ?」

 宏樹はイマイチピンと来ていない様子で、首を傾げた。

「なにって・・・・・・ドローンだよ!」

「ん?ああ!確かに家にあるけど・・・目視圏内までしか飛ばしちゃいけないってルールがあるから、たぶん一キロくらいしか追跡できないと思う?」

 へぇー、そんなルールあるんだ。

「一キロもあれば十分だ。方向さえ解れば、ある程度目的地は推測はできる」

「え、なんで?」

 先程から床で体育座りをしている涼鈴は不思議そうにこちらを見つめる。

「新城が犯行に選ぶ場所は基本に親が所有している倉庫だ。そうだよな、宏樹?」

「ああ。俺の姉貴のときもそうだった」

 よし、これである程度の確証は取れたといっても過言ではないだろう。

「新城家が所有している倉庫は計二つ。新城がそのどちらかに向かったか分ればこっちのもんだ!」

「だな!」

 宏樹は爽やかな笑みを浮かべて、肯定してくれた。

 車といい、ドローンといい、宏樹が仲間に加わってくれたことは間違いなく大きなプラスになっている。

 だが、それにより一つだけ問題が生じる。

「宏樹。相浦を救出の役は俺がやって良いか?」

 俺の問いに反応した宏樹は、右目の端をピクッと僅かにつり上がらせる。

「・・・・・・理由は?」

「新城は俺と涼鈴が動くことを知っている。となると、必然的にお前がジョーカーになるんだ。だから、できる限りこちらのカードは伏せておきたい」

 俺と涼鈴はもう既に新城に顔が割れてしまっている。宏樹も中学の時に新城とは対峙しているが、今回の作戦に参加している事は知らない筈だ。

 宏樹は腕を組むと、考えるまでもなく。

「無理だ」

 きっぱりと俺の提案を一蹴した。

 これが最後の問題、宏樹の想い人が相浦である問題だ。

 好きな人が酷い目に遭うかも知れないと聞いて、宏樹が自分で助けたいに決まっている。折角のカッコつけるチャンスでもあるからな。

 俺が宏樹の立場だった当然、同じように否定していただろう。まぁ、こればかりは無理もない。男の意地の問題だからな。

 仕方ないと思い、宏樹に相浦救出の役目を譲ろうとしたその時、宏樹がゆっくりと口を開いた。

「と、言いたい所だが、俺は相浦が助かることを第一に優先したい」

「・・・・・・宏樹」

「だから、相浦を救ける第一陣はお前に任せる!」

「ほんとうにそれで良いのか?」

「おうよ!」

 宏樹は親指を立てると、晴れやかな笑みを見せてくれた。

 自分の気持ちよりも好きな子のことを優先するとは、我が親友ながらにカッコイイこと言うじゃねぇか。

「ふぅん。宏樹くん、さーちゃんのことが好きなんだ」

 横で話を聞いていた涼鈴が感心したように呟いた。

「あー、やっちまった!?」

 宏樹は頭を抱えると、フローリングの上で悶絶し始めた。

「今のは俺、悪くないからな」

 自分で口を滑らすなんて、間抜けにも程があるだろう。俺でもそんなことは・・・・・・うん、してるネ。

 そんな宏樹の様子を見た涼鈴はぎりぎり聞き取れるくらいか細い声でぼそっと呟く。

「よかった」

 よかったとはどういう意味だろうか。今回ばかりは彼女の真意を計り兼ねる。

「話を戻すか。相浦達を尾行する際の人数は少ない方がいい。だから、ここはドローンの操作にも慣れている宏樹が適任だと思う」

「おっし、任せとけ!当然だよなあ!太宰さんや詩衣じゃ百億パーセント墜落させる未来しか見えない」

 宏樹は勢いよく鼻息を「フンっ!」と吹き出し、言い切りやがった。

「私、そんなにドジじゃないと思うんだけど」

 ドジっ娘の涼鈴もありよりの大ありだな。

「じゃ、作戦をまとめるぞ。宏樹が単体で相浦達を尾行、俺と涼鈴は二箇所の倉庫に向かえるようにスタンバってるということで」

 俺が簡単にまとめると、涼鈴がおずおず右手を挙げる。

「私はどう行動すれば良いのかな?」

 俺は涼鈴に質問を答えようと口を開きかけた瞬間、俺に代わって宏樹が答えた。

「俺が連絡を寄越したら、詩衣が救出に向かう間、太宰さんは自転車で俺を迎えに来てくれ」

 涼鈴はいまの説明で良いのかと確認を取るためにこちらにアイコンタクトを送って来た。

 俺は涼鈴の瞳をしっかりと見つめ、頷き返すと彼女は「わかった」と宏樹に言った。

「これで作戦の概要は全部だ。後は明後日の本番を待つのみ・・・・・・絶対成功させるぞ」

 そう言って俺は二人に顔を向ける。

「うん!」

「よっしゃ!やってやろうぜ!」

 涼鈴と宏樹、共に威勢のいい返事をした。

 これほど頼もしい仲間は世界中どこ探したっても居ないな。

 宏樹は残っていたお茶を飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。

「結構暗くなったし、俺はそろそろ帰るわ・・・・・・詩衣は残っていくのか?」

 宏樹はにやにやした顔で俺のことを見下ろした。

「いや、今日は俺も帰るよ」

 涼鈴はお皿やコップをひとつのトレーにまとめると、トレーを廊下に運んで行く。

 これは優しい男をアピールチャーーーンス!

 きっと傍から見れば、いまの俺の瞳は食べ物を見つけた何処かの海賊王を目指す麦わら船長みたくピカりんこと光っていることだろう。

 俺は素早く立ち上がると、両手の塞がった涼鈴の代わりに部屋の扉を開けた。

「あっ、詩衣くんありがと」

「それ俺が持っていこうか?」

 俺はトレーを指差すと、涼鈴は首を左右に振って断った。

「大丈夫!詩衣くんがドア開けてくれたし、これくらいは任せて!」

 涼鈴はたわわに実った胸を自身満々に張って見せた。俺はというと縦に揺れる彼女の胸に抗うことすらできずに瞳を奪われていただけだった。

 なんだろう。もう少し良いところ見せたい気持ちはあるが、これはこれで悪い気はしない。

 一階に降りると、涼鈴がお見送りをしてくれると言うので、彼女が台所で食器を片づけに行っている間、俺と宏樹は玄関で彼女が来るのを待っていた。

「そういえば、今日シズク見てないな」

「シズクって、詩衣が助けた猫ちゃんのことか」

「そうそう」

 そんなことを話しているとリビングの方から鈴の音が聴こえてきた。

 噂をすれば何とやらというやつだな。

 鈴の音がだんだんと近づいて来ると、リビングと玄関を隔てる壁の影から顔を覗かせた。

「おっ!シズ・・・・・・・・・って、なにやってんの涼鈴!?」

 顔を出したのはペット用の首輪はめ、猫耳のカチューシャを付けた涼鈴だった。

「ぶぶー、シズクじゃなくて私でした〜。引っかかった・・・・・・にゃあ」

 涼鈴は両手を猫の手にし、首を少しだけ傾けるとパチリとウィンクして魅せた。

 うふぉ、もうダメ・・・・・・致死量だぁ。

 鼻から鮮血を噴き出すと、俺は廊下に倒れた。

「詩衣くんが死んだ!」

「この人でなしー!」

 ・・・・・・俺はゲイ・ボルグなんか使えないんですけど。

 俺は横になったまま起き上がらずにいると、今度は本物のシズクが涼鈴と同じ様に顔を出した。シズクはゆっくりと着実に近づいて来る。

 短くもふもふとした尻尾が左右に揺らしながら、シズクは止まることなく、どんどん近づいて俺の顔の前で一度停止すると、俺の頬を生暖かい舌でぺろっと舐めてくれた。

「シズクは優しいなぁ」

 俺がシズクの背中を撫でようと手を伸ばした。すると、シズクは俺の顔面を柔らかな肉球で押し潰してきた。

「―――むぅゔ!?」

 あれれ〜?さっきまで優しかったのに急にツンケンしだしたぞ。反抗期?それともツンとデレかなあ?

 気まぐれなシズクは踵を返すと涼鈴の元に戻っていき、彼女の太ももに頬をすりすりしだした。

 くっそ〜羨ましい。涼鈴と恋人になった暁には俺もやらせてもらおう。

「詩衣、いつまで寝てんだ、帰るぞ」

「はいよぉ」

 俺は立ち上がりると、宏樹に後を追うように玄関を出た。

 シズクを抱いた涼鈴もその後に続き、外に一歩出たところで足を止める。

「待たね〜!」

「おう!また明後日な!」

 胸の前で小さく手を振る涼鈴とは対称的に宏樹は大きく手を振った。

「じゃあね・・・・・・涼鈴」

「うん!・・・・・・ばいばい詩衣くん」

 俺は涼鈴と一度だけしっかり目を合わせると彼女の家を後にした。

 途中、涼鈴の姿が見えなくなるまで何度か振り返った。すると、涼鈴は俺が振り返る度に手を振ってくれたのが凄く嬉しかった。

「お前、女々し過ぎだろ!」

 涼鈴の姿が見えなくなると、宏樹は笑いながらそう口に出す。

「うるさいな」

「それにしても涼鈴ん家、いい匂いしたな」

「宏樹、もし次にその鼻で涼鈴ノートを嗅いだら、お前の鼻に真っ赤な薔薇が咲くと思えぇ!」

「それさっきお前だろ!」

 宏樹は言ったそばから自分のツッコミにツボったらしく、ケタケタ笑っていた。

 そこでふと、こんな何でもない日常がいつまでも続かないんだと頭をよぎって感傷的になる。

「死ぬって怖いなあ」

「いきなりどうした!?」

 宏樹は露骨に驚いた様な顔をする。

「いや、死んだらお前や涼鈴に会えなくなるかと思ったら急に寂しくなった」

「なに言ってんだよ、そんなのまだまだ先のことだぞ」

「それでもだよ」

 俺がそう答えると、宏樹はうーんとかほーんとか言いながら足を止めることなく黙考し始めた。

 やがて俺と宏樹が正門近くの別れ道まで着くと、ようやく口を開く。

「それって逆に考えれば、失いたくないと想えるほど今が幸せってことだろ」

「うん」

「産まれてこなければ死はないかもしれないけど、産まれなかったら今がないんだ。だったら、死ぬまでに後悔がないよう・・・・・・今を大切にするしかなくね?」

 宏樹のクセに良いこと言うじゃねぇか。おかげで少しだけど肩が楽になったような気がしてきた。

「そうだね、ありがと宏樹」

「おうよ。じゃあ、俺はこっちだから」

 そう言って宏樹はすぐに左の路地に曲がって行ってしまった。

 俺も反対の路地に入ると、街灯の続く道を真っ直ぐに進む。

 すると、遠目から大きな声で名前を呼ばれる。

「しーーーーい!」

「なぁーにーーーー!」

 俺は宏樹に届くようにと大声を出し、暗がりの中で少し離れた位置で街灯の下に照らされる宏樹の姿を瞳に映した。

「俺はお前と逢えて良かったと思ってるぜ!」

 わざわざそんなことを呼び止めてまで言うことじゃないだろうに。

 思わずフッと笑みが溢れてしまった。

「それはこっちの台詞だ!バーカ!」

「「あはははははははっ!」」

 散りばめられた星の下で、阿呆二人の笑い声が道なりに響めいた。




 『さーちゃんを守ろう作戦』を明日に控えた土曜日の午後二時過ぎ頃。

 外光が差し込むコンビニ店内で、俺はバイトに励んでいた。

 繁忙時間も終わり、仕事に余裕が生まれたので商品の陳列を行っている最中、客の来店を報せるチャイムが鳴った。

「いらっしゃいませー!」

 テキトーに業務的な挨拶をしてラッピングされたパンの陳列を行う。

 客の足音がドリンクコーナーの方からだんだんとこちらに近づいてきた。たぶんさっき入ってきた客のものだろう。

 そんなことを思いながらも、ひたすらパンを並べ続けていると、客の足がパンコーナーの前で止まった。

 チッ、商品を陳列しているときに俺の近くに来ないで欲しい。変に気を使わなくていけなくなってしまう。

 「すみません、いま退きますの・・・・・・で」

 顔を上げた瞬間、俺の脳がフリーズした。なぜなら、その客の正体は俺の知る人物だったからだ。

「なにジロジロ見てんの、キッモ。というか、アンタここでバイトしてたんだ」

 こちらを一瞥し、声を掛けてきたのは相浦紗香だ。彼女は言うや否や視線を陳列棚に戻してしまった。

「お前こそ何しに来たんだよ」

 素っ気なく言葉を返すと、相浦はブスっとした表情を浮かべた。

「コンビニですることなんて買い物に決まってんでしょ。アンタ、ばかぁ?」

 英語の疑問形みたく語尾のイントネーションが上げ調子になった。

 いまの言い方めっちゃムカつくな。

 とはいえ、このタイミングで接触できたのはチャンスかもしれない。ここで上手く立ち回り、新城と別れる様に誘導できれば、相浦は恐い目に遭うことなく、涼鈴も喜んでウィンウィンだ。

「お前、新城と付き合ってんだって?」

「その話、スズに聞いたの?」

 言葉を口にした途端、彼女の周囲の温度が急激に冷めた様な気がした。

「う、うん。まぁそうだけど」

「で、何?アンタも太宰さんと同じ様に私に別れろって言いたいわけ?」

 今、普段の彼女からは聞き慣れないワードが耳に入った。


 ・・・・・・太宰さん。


 相浦が涼鈴のことを他人行儀でわざわざ呼び直したってことは、まさか何か地雷を踏んだ。それで彼女達の間に明確な溝を生じさせてしまったのか。

 ここは何とかしてで溝を埋め直さなければ、その為には情報が必要だ。

「なんで涼鈴のこと、わざわざ太宰さんって呼び直したの?」

「アンタには関係ない。というか、なんでアンタはちゃっかりスズのこと呼び捨てにしてんの!?」

 呼び方が戻った。やはり染みついた癖というものはそう簡単に抜けるようなものではないらしい。

「それこそ関係ない話だと思う」

「あっそ」

 そう零した相浦の表情には愁いがあるように思えた。

「それより新城のことだ。俺はアイツを中学から知ってるが、女を道具としか思ってないクソ野郎だぞ。たぶん・・・・・・いや、絶対に近いうちに本性を現す」

「アンタもスズと同じように私を説得しよってわけ?それなら無理よ!新城くん・・・・・・晃誠くんはそんなことしないって、私は信じてるから」

 そんな信頼などすぐに砕かれてしまうというのに、それでも好きな人を信じてしまうのが乙女心というものなのだろうか。

「余計なお世話かもしれないけど、これが最後の警告だ。新城と別れた方がいい」

「―――っるさい、阿呆っ!」

 次の瞬間、下半身の聖域に強烈な痛みが走った。その原因は紛れもなく相浦から繰り出されたノールックキックだ。

 相浦は床に崩れた俺を見下すと「ふん」と鼻を鳴らして、すぐにレジの方へ行ってしまった。

 コンビニの床で転がる俺はピクピクと痙攣を起こしていた。

 ついこの間、宏樹が受けた苦痛を身をもって知ることになるとは思いもしなかった。

 くそぅ、涼鈴に捧げるはずだった初めてを相浦に奪われてしまった。

 そうだァ、これから相浦の渾名はキンタマブレイカーにしよう。彼氏とお揃いで良かったな!

 心の中で最大限の皮肉を叫んぶと、ぷつりと糸が切れた人形の様にその場に突っ伏した。

 すると、何故かレジに向かった筈の相浦が気まづそうに戻ってきた。

「なんだ・・・・・・トドメでも刺しにきたのか?因みに俺の股間はもう死んでるぞ」

「そんなわけないでしょ!そ、その・・・・・・レジに人がいなかったから店員を呼びに来ただけ。早くレジってくれない?」

 ・・・・・・レジるって。そんな言葉使うやつはお前しかいねぇよ。

 俺は相浦と共にレジに向かうと、メロンパンやらミルクティー等のバーコードをピッピと読みとった。

「合計で114514円です」

「ふざけないでくれる?」

「あっ、すみませぇ〜ん・・・・・・間違えてしまいました。やり直しますね」

 俺はてへぺろと舌を出して誤魔化すと、相浦は俺の舌を引っ掴み、鋭い眼光で俺のことを睨みつけた。

「もし次やったらこの舌、引っこ抜くぞ?」

 きゃ、きゃー・・・・・・この人目がマジなんですけど、超怖い!

「・・・・・・856円です」

 相浦は財布から丁度の小銭を取り出すと、現金をトレーの上に叩きつけた。

 そして、レシート受け取ることなく店を後にした。

「あ、ありがとうございました」

 ふぃー、生きた心地がしなかった。

 説得が失敗に終わった以上、明日の作戦を成功させるしか道はないか。

 俺は再び商品を陳列させる作業に戻った。




 遂に、この日が来た。

 『さーちゃんを守ろう作戦』決行日。

 天気は快晴、どこまでも伸びる青が視界を覆い尽くす。

 俺は宏樹に朝の七時半頃から尾行を開始したという連絡を受け、諸々の準備を整えて涼鈴ん家に向かった。

 外から眺める涼鈴の家はいつ見ても綺麗な白妙で、存在感がある。

「作戦が終われば、この白い家に寄ることも減るんだろうな」

 口に出してみると、寂寥感に苛まれる。

 自転車を家の前の邪魔にならない位置に止め、玄関扉へと続く階段を一歩また一歩と上っていく。

 すると、突然、玄関の扉がひとりでに開いた。

 何事かと思い、足を止める。

 家から出てきたのは真っ黒なスーツとタイトスカートに身を包んだ綺麗なお姉さんだ。

 彼女の髪型はショートで整った風貌は涼鈴にとてもよく似ていた。

 涼鈴の親戚であることには間違えないので、挨拶をしておくことにした。

「お、おはようございます・・・・・・えっと、涼鈴さんのお姉さんですか?」

「あらやだ!こんな可愛い坊やにお姉さんって呼んでもらえるなんて!私もまだまだ捨てたものじゃないわね・・・・・・もしかして涼鈴のカレシ?」

 目の前に立つ女性の声質は、どちらかといえば大人っぽいというか艶っぽい印象を受けた。

「いや、まだそんな関係じゃないです」

「まだってことは・・・・・・あなたはその気があるみたいね、ふふ!」

 涼鈴のお姉さんと思しき人物は口元に手を当てると、小さく微笑んだ。その仕草は色っぽい声音と裏腹にあどけない印象を受ける。

 この人と話してたら何もかも赤裸々に明かされそうで怖いわ。

 だが、そんな懸念も杞憂に終わる。彼女は身につけていた腕時計をチラッと確認すると、「ヤバっ!」と声を上げた。

「私そろそろ行かなきゃ!これからも涼鈴と仲良くしてあげてね」

「はい!」

「あの子、意外と簡単に落とせるから、頑張りなさいな」

「はい!・・・・・・って、ええっ!?」

 仮称涼鈴のお姉さんはそう言い残すとカツカツとヒールの鳴らし、足早に去っていった。

「なんか、面白い人だな」

 涼鈴へ家の前に着いたとメッセージを送ると、家の中からドタドタと慌ただしい物音が聞こえてきた。音が鳴り止むのを待っていると、不意に扉が開かれた。

「詩衣くん、おはよー!」

 軽く呼吸を乱した涼鈴が家の中から現れる。彼女は白いショートパンツに、白黒のボーダーシャツ。その上から、デニム生地の薄いジャケットを羽織っていた。

 それに今日は珍しく髪を結いている為、いつもと変わった大人びた雰囲気を醸し出すそのギャップが俺の心臓を撃ち抜いた。

「・・・・・・尊い」

「あれ、詩衣くん?なんかボーッとしてるけど大丈夫?」

 涼鈴の「大丈夫?」が脳内で「大丈夫?おっぱい揉む?」に変換され、ちょっとばかり興奮してしまった。

「い、いや、大丈夫。なんでもない」

「そう。それよりどう?この格好、動きやすそうでしょ」

 そう言って、涼鈴は俺の前でくるっとターンしてみせる。

 彼女が動くたび、白いスニーカーがタッタッと小気味よい音を鳴らす。

「うん、可愛い」

 小動物の様に動き回る涼鈴を見た俺は、素直な感想を漏らすと涼鈴は赤らめた頬をぽりぽりと掻いた。

「そう?・・・・・・ありがと」

 はい可愛い。めっちゃ可愛い。

 そこで俺は先程のやりとりを思い出した。

「そういえば、さっき涼鈴のお姉さんに会ったよ」

「私の・・・・・・お姉ちゃん?」

 あれ?首傾げてる。もしかして涼鈴にお姉ちゃんなんていないのか・・・・・・そしたらさっきの人はいったい誰なんだ。

「なんか、黒いスーツ着てた」

 俺がそこまだ言うと、涼鈴は「あ〜」と得心がいった様な声を漏らし、クスクスと笑い始めた。

「それ私のお母さんだよ!」

「あれがお母さんだとっ!?」

 先ほどのお姉さんもとい涼鈴のお母さんが脳内に姿を現すと、ぱっちりウィンクを決め、俺に投げキッスを送ってきた。・・・・・・うん、悪くない。

「確かにお母さんはよく若く見られるけど、四十歳は超えて・・・・・・る・・・・・・はず?」

 涼鈴はきょとんと首を傾げた。

 なぜ娘のお前が首を傾げる?だが、気持ちは分からなくはない。あのルックスで彼女が四十歳を超えているなんて聞いた人は全員が耳を疑うぞ。それほどまでに涼鈴のお母さんは美人だった。

 そんなことを考えていると、ポケットのスマホがバイブレーションで通知を報せてくれた。画面をロック画面を液晶に映し、通知内容を確認する。


『ホシが映画館に入った』


 宏樹には尾行と同時に連絡係を頼まれてもらっている。

 いくら彼女を守る為とは云え、好きな子が嫌いな奴とデートしている光景をまざまざと見せつけられるなんて、俺からしたら発狂ものだ。

「相浦達、映画館入ったって」

「うん、いよいよだね・・・・・・私たちはこれからどこに行くの?」

「新城は港の方面と都市部にそれぞれ倉庫を持ってる。都市部の倉庫は距離は短いけど、あの辺りは目立つから新城が選ぶ倉庫は港の方だと思うんだ」

 もし新城達が反対の都市部にある倉庫を選んだとして、その時は相浦の救出に宏樹を向かわせることになる。だが、そこはもう賭けだ。

「じゃあ、私たちは港の方に行くんだね」

「ああ。まぁでも一応、都市部の倉庫にも行けるように、港に向かう途中の青海公園で待機かな」

「予防策だね」

「そうそう」

「分かった!ちょっと自転車取ってくる」

 涼鈴が準備を終えると、俺はペダルを踏み込んで目的地である青海公園にタイヤを進めた。




 自転車を進めること四十分、ようやく青海公園に辿り着いた。

「やばっ、超暑い!」

 辺りに漂う湿気にぼやきながら、その場にあったベンチに勢いよくもたれかかった。

 大した運動はしていないのだが、ティーシャツの胸元には汗がくっきりと半円に滲んでいる。今も頭上で照り輝く太陽が忌々しい。

 確か今朝の天気予報で日中の気温が三十度を超えると言っていた。これから更に気温が上がることを考えるとかなり憂鬱になる。

 首筋に冷たい何かがピタっと触れた。

「うわわぁっ!?」

 振り返ると、スポーツドリンクを片手に微笑んでいる涼鈴の姿があった。

 彼女は手中のスポドリを「はいどうぞ」渡してくれたので、俺は一言お礼を言ってからそのスポドリを受け取った。

「詩衣くん驚きすぎでしょ・・・・・・でも、ちょっと可愛かった」

「か、かわっ!?・・・・・・今度やり返してやるからな」

 俺がそう言うと、涼鈴は自身の身体を抱いて身をよじった。

「詩衣くんのえっち」

「ち、違うっ!?そういうことじゃなくて・・・・・・」

 俺が慌てて弁明する姿を見て、涼鈴はお腹を抑えると声を上げて笑った。

「あはははっ!そんなこと分かってるよぉ」

 コイツ、ほんとにムカつくな。あとかわいい。

「あ、そうだ。ちょっと待っていま金返すから」

 ポケットから財布を出そうとすると、涼鈴をひらひらと振って断った。

「別にいいよ。私が好きで買ってきたんだし」

「いや、そういう訳には・・・・・・」

「詩衣くんは往生際が悪いですね」

 涼鈴は叱りつけるお姉さんみたく「めっ」と人差し指を立てた。

「なんか俺、涼鈴に奢られてばっかりだし」

 それを聞いた涼鈴は、少し考える素振りを見せると、何か閃いたようにぴかりんこと手の平を合わせた。

「じゃあ今度、私に何か奢って!」

「俺が・・・・・・涼鈴に?」

「そうそう」

 まぁそれなら折り合いはつくし、デートに誘う口実にもなるから願ったり叶ったりだ。

「分かった!今度、何か奢るよ」

「はい、楽しみに待ってます!」

 そう答えた涼鈴は嬉しそうに破顔した。

 俺はペットボトルのフタを開け、涼鈴に貰ったスポドリを喉に流し込む。

 渇ききった口の中が、一気に潤った。隣に座る涼鈴も同じようにお茶を飲んでいた。

 すると、ついつい彼女の口元に目線が寄ってしまう。彼女の艶めかし唇を眺めていると、何だかいけないものを見ているようにさえ思えてくるから恐ろしい。

 あっ、口の端から雫が垂れた。

 なんだこれ、ちょっとエロい。

 そのまま涼鈴の口元を見続けていると、不意に彼女と目が合ってしまった。

「そんなに見られてると飲みずらいんだけど・・・」

「あっ、ごめん。つい・・・・・・」

「つい?」

「なんでもないです」

「え〜、なによー、きーにーなーるー!」

 駄々をこねる子どものように唇を尖らせるが、あなたの口元に発情して目が離せなかったとは死んでも言えない。

 というか宏樹が頑張って尾行している最中、俺はこんな幸せな思いをしていていいのだろうかと疑問が湧いてくる。

 まぁ今回の作戦が上手く進めば、みんなハッピーだし別にいいか。

 そんなことを考えていると、涼鈴は俺の自転車の籠に入っている道具を指さした。

「あのカゴ、なに持ってきたの?」

「ん?あれか・・・・・・ロケット花火と木刀だよ」

「ロケット花火ィ!?まさか、それをさーちゃんに向けて飛ばすの?」

「当たらないようにはするつもりだから」

「煮え切らないなぁ」


 その後も宏樹からホシがカフェに入ったとかゲーセンに行ってる等の報告をもらいながら暫く待機し、日が沈んで空が暗くなってきた頃。

 宏樹から本日初めてとなる電話が掛かってきた。

 先程までの和やかな雰囲気は一変し、俺と涼鈴・・・・・・二人の間に緊張が走る。

 俺は通話のボタンを押してとスマホを耳に当てる。

『もしもし?』

『いま相浦が車で攫われた!』

 宏樹の荒っぽい声が端末を通して鼓膜を振動させた。

『方角は?』

『港の方に向かったぞ。車体は黒のミニバン。ナンバーは・・・・・・・・・』

 宏樹から車のナンバーが伝えられる。

『よし、分かった!車を見つけ次第すぐに追い掛ける!』

『俺もいまそっち向かってるから涼鈴を寄越してくれ・・・・・・相浦を任せたぞ』

『ああ、任せとけ!』

 そこまで言って俺は通話を切った。

「宏樹はなんて?」

 涼鈴は強ばった表情で通話の内容を尋ねてきた。

「相浦を乗せた車がいまこっちに向かっている」

「ほんと!?」

「宏樹はこっちに向かってきてるから、涼鈴は直ぐに宏樹の元へ行ってくれ!俺はこのまま相浦を救出に向かう」

 それだけ言い残してサドルに跨り、自転車を走らせようとしたその時だった。

 背中の裾がギュッと掴まれる。

「何度もしつこいと思うけど、無茶だけはしないでほしい」

 涼鈴は真っ直ぐにこちらを見つめ、目を離そうとはしない。それから裾を掴む力が一層強くなった。

 「大丈夫、分かってるから」

 それだけ答えると、裾から彼女の手を引き剥がすようにペダルを強く踏み込んだ。

 公園の入口付近で待機し、宏樹が先程指定した黒いミニバンを見逃さないように首を廻らす。

 車の通りも少ないので、捜索にはもってこいだ。

 自転車なら都市部からここまで来るのに二十分程掛かるが、車なら十分もしない内に来る筈。

 思考を回転させていると、都市部の方から猛スピードで向かってくる一台の車が目に入る。

 車体形状は黒のミニバン。

 ナンバープレートを確認すると宏樹が伝えてくれた番号と一致していた。

 黒のミニバンは高速で俺の目の前を通り過ぎる。その一瞬、サイドガラスにタオルで口を塞がれた相浦の姿が見えた。

「―――間違いないコイツだ!」

 俺は再びペダルを漕ぎ始めると一気にギアを最大まで上げ、黒のミニバンを全速力で追い掛ける。

「やばっ、これ超疲れる」

 さっそく息切れし始めるが、スピードを緩めるどころか更にケイデンスを上げた。

 前方で黒のミニバンが港に差し掛かる。倉庫まではもう目と鼻の先だ。

 ひたすらにペダルを回し続け、ミニバンと距離を引き離されないよう必死に食らいつていると、ミニバンの方向指示器が点滅した。

 それからミニバンは徐々に減速していき、港の倉庫街に入っていく。

 道路からミニバンの行方を注視する。

 ゆっくりと進行する黒のミニバンは入口付近で停車せず、そのまま左端の倉庫を右へ曲がり、奥へと向かった。

 俺は港の入口で自転車を止めると、宏樹に電話を掛ける。

 二度目のコールで宏樹と繋がった。

『もしもしどうした!?』

『はぁは・・・・・・監禁場所は港の奥の倉庫だ。俺はこれから突入する』

「こっちも今、太宰さんと合流できた。すぐにそっち行くから!」

『なるはやで頼む』

『太宰さん重そうだからな・・・・・・ニケツしたら遅くなるかもしれん』

 遠目から涼鈴が「私、重くないもん!」と文句垂れる声が聴こえる。

 涼鈴が重いわけないだろ。それにいくら重たかろうが俺だけはお姫様抱っこしてやる。

『二ケツは許してやる。だが、もし涼鈴に指一本でも触ったら・・・・・・殺すぞ』

『不可抗力の時だけは許せ、ってこんなこと話してる場合じゃない!急いで相浦の所に向かえ!そっちこそ相浦になんかあったら殺すからな』

『分かってる』

 そこで俺は通話を切った。それから港の奥に向かった黒のミニバンを追いかける。

 ミニバンが通ったルートをになぞるように左端を曲がると、視線の先に停車されたミニバンを発見した。

 なるべく音を立てないようにそっと自転車から下りる。籠に入った荷物を背負い、倉庫の入口を覗くと同時に証拠となる動画の撮影を始めた。

「晃誠くん、なんでこんなことっ!?」

 手首をロープで拘束され、柱に繋がれた相浦の悲痛な声音が倉庫内に反響する。

 その瞳はうっすらと涙ぐんでいた。

 新城はそんな相浦の姿を見下ろし、鼻で笑った。

 一緒にいるサッカー部の愉快な仲間たちも、一緒になって笑声を上げる。

「これは復讐なんだよ。俺を振った涼鈴と・・・・・・詩衣とかいう野郎へのなっ!!」

 新城はその場にあった椅子を蹴り飛ばした。

 物に当たるとか、DV夫予備群だな。

 それにしてもまだ相浦が襲われていないのは不幸中の幸いだ。

「・・・・・・スズが晃誠くんを振った?」

 話の意味が分からないとばかりに、相浦の表情には混迷が見てとれた。

「なんだ、お前まだ聴かされてなかったのか。あの女、せっかく抱いてやろうと思ったのに、俺のことをフリやがったんだぜ?」

「晃誠くんがスズに・・・・・・」

 新城にことの顛末を聞かされた、相浦は項垂れてしまった。

 そりゃそうだ。好きな人が、一番の友達に告っていたなんて事実を聞かされれば誰だったショックな筈だ。

「だから代わりにお前を抱いて、あのクソ女の顔が歪むところを拝めてやることにしたのさ」

 新城はそこまで言うと、高らかに笑い声を上げる。

 コイツ、やっぱりとんでもねぇゲス野郎だな。性根が昔のまんまじゃねぇか。

「私、ほんとに晃誠くんのことが好きだった。告白された時は凄く嬉しくて、だから、晃誠くんが願いしてくれれば、その・・・・・・えっちなことだってしても良かった」

 相浦紗香という人間は本当に新城の事が好きだったのだろう。

「嬉しかった筈なのになあ。今の話を聞いたら、もう、そうは思えないよ。それにアンタみたいなド畜生にスズが振り向くハズないでしょ」

 顔を上げた相浦の瞳には、再び意志が宿ったように見える。

 ようやく彼女は、自身の恋と決別する覚悟を決めたのだろう。他ならない本当に大切なものを取り戻すために。

「あぁ?まぁいいや。そんなド畜生にお前は今から犯されるんだ。その顔をすぐに歪ませてやるよ」

 新城を筆頭としたサッカー部の連中が卑猥な笑みを浮かべて相浦に群がる。

「ひっ!?嫌、やめて・・・・・・来ないでっ!?」

「うるせぇよ。誰も助けになんて来ないから」

 新城が相浦に手を伸ばした時、俺は既に駆け出していた。

「相浦ァーッ!伏せろぉおおおお!」

 全速力で新城らに接近しつつ、筒で束ねていたロケット花火をバーナーで着火する。

 彼らとの距離が数メートルまでに近づいたところでロケット花火の発射口を向けた。

「しねぇええええええええええええッ!!」

「なんだコイツっ!?よくわかんねーけど逃げるぞ!」

 一人の男が声を上げ、相浦の傍に固まっていた有象無象達が我先にと霧散していく。

「アンタ、何でここにいるの?」

 相浦の元に駆けつけると目の端を濡らした彼女は、まるで幻でも見ているのかのように瞳を見開き、じっと俺の顔を見つめてくる。

「話は後だ」

 俺は相浦の手首を拘束している縄をポケットに入れていたナイフで切断する。そこで相浦が大きな声を上げた。

「望月うしろ!」

 俺はナイフを相浦に手渡すと、鞄の中から木刀を引き抜き、そのまま回転して背後を斬りつける。

 木刀は空を斬り当たりこそしなかったが、奇襲をかけてきた男が「うおっ!?」と声を上げ、尻もちをついた。

「走れるか?」

 地べたに座ったままでいる相浦に手を差し伸べる。相浦は一切の躊躇を見せることなく俺の手を取った。

「当たり前じゃない!」

「行くぞ!」

 俺は木刀で牽制しつつ、相浦と一緒に出口を目指す。

「何してもいい!二人を捕まえろ!」

 新城の号令と共にサッカー部の連中がそれぞれ鉄パイプ拾い、俺たち二人を囲むように陣形とった。

「流石、サッカー部。フォーメーションはお手のものだな!」

「バッカじゃないのっ!?そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」

 相浦に素でツッこまれてしまった。これだからボケはやめられない。

「俺が出口までの道を切り拓くから、隙を見て出口に向かえ!」

「頼りがいがあるのね。バスケの時とは大違い」

 皮肉交じりとはいえ、彼女が俺に笑みを向けてくれたのは今が初めてではないだろうか。

「うるせ」

 少し照れくさくなって、素っ気ない返事になってしまった。

 俺は木刀を強く握りしめると、一際肌の黒い男に斬りかかる。

 人を木刀で叩くことに多少の抵抗はあったが、やらなきゃ殺られると必死に自分自身を奮い立たせた。

「おりゃ!」

 肌の焼けた男が無作為に鉄パイプを振り下ろす。

 俺は振り下ろされた鉄パイプを木刀で受け止めると、流れに沿って下に受け流した。

「凄っ!」

 俺の背後で相浦の感嘆が聴こえた。

 ふふん!そうだろう。凄いだろう。

 これは中学時代、宏樹とのチャンバラごっこで負け続けた俺が編み出した必殺技だ。

 当時は受け流すことしかできず、宏樹に勝つことは一度も敵わなかったが、まさかこんな所で役に立つとは思わなかった。

 俺は日焼け男の太ももを蹴りつけると、すぐ側にいた男を斬りつけた。

「痛ってぇ!?」

「うわっ、なんだコイツ!?」

 俺が木刀で叩いた男が持っていたのは、鉄パイプではなく、ピンク色をしたディルドだった。

 この局面で武器にディルドを選ぶユーモア性に心から尊敬しつつ、その男に飛び蹴りをかます。

 俺は男が手から零したディルドを拾う。

 この状況下で、このディルドが相浦の股間に入っていたかもしれないなどと考えてしまう自身の阿呆さ加減には困ったものだ。

「コレ、あげる」

 俺は手にしていたディルドを相浦の足元に転がす。

「こんなのいらないわよ!このド変態っ!!」

 相浦は転がってきたディルドを踏み潰し、粉砕した。

「オー・・・・・・ノー」

 あれがもし自分のジュニアだったかもしれないことを考えると、恐怖で冷や汗が止まらない。

 それからも俺は相浦を木刀で守りつつ、敵を薙ぎ倒していると、敵の陣形に綻びが生まれ、出口までの道が開けた。

「相浦、今だ!」

 俺は相浦を前に走らせ、彼女の背中を守りながら出口まで走る。

「絶対に逃がすな!逃がせば全員少年院送りになるぞ!」

 新城の声に反応したモブ共が顔を引きつらせながら、全身全霊で追いかけてくる。

 新城達の包囲網を完全に抜けたところで俺は反転し、出口を塞ぐ。

 そこで俺が止まったことに気がついた相浦も足を止めた。

「ちょっと何してんの!?アンタも一緒に逃げなきゃ!」

 そこで俺はポケットから先ほど新城達を撮影したスマホを相浦に投げ渡す。

 相浦が無事に逃げきることができれば、証拠を消されずに済む。

「お前は先に行け!直に宏樹が助けに来る」

「でも、アンタを置いて・・・・・・!!」

「うるせぇ。お前がいると足でまといだ。それに俺はまだ実力の三割しか出していない」

 実際は、既に実力の120パーセント程を発揮してしまったのだが、言ってみたいセリフランキングの上位二つを言えたので良しとしよう。

「任せていいの?」

「いいから行けっ!!」

 不安そうに尋ねる相浦に対し、俺は罵声の如く声を張り上げた。

「―――ッ!」

 相浦は歯を食いしばると俺に背を向けて、倉庫の外へ走り出した。

「誰ひとり通さねぇからな」

 大剣豪の如く仁王立ちで待ち構えていると、新城は「ククッ」と笑った。

「これを受けてもそんなことが言えるのか?」

 次の瞬間、鉛みたく重い何が頭に直撃し、視界が真っ白になった。

 粉のようなものが目に入り、上手く開けることができない。

 次の瞬間、脇腹に強い衝撃が走る。

「―――ぎぃっ!?」

 見えないところからの攻撃に受身を取ることもできず、その場に倒れた。

「お前が来ることは想定済みだ。だから、こうして罠を張らせてもらった」

「2階まで塩カル運ぶのマジでキツかったんですけどぅ」

 新城の仲間の一人が、ゲラゲラと笑いながら階段から降りてくる。

 やられた。こいつら、上から塩化カルシウムを袋ごと落としてきやがったのか。

 敵の種が解ったところで今更感あり過ぎだし、この状況は何一つ変わらないのだが。

「―――うぐっ!?」

 顔面に何かが打ちつけられる。

 打ちつけられた感触が鉄パイプのものではなかったのが不幸中の幸いと言えるだろう。

 攻撃をモロに食らった鼻は、ジンジンして物凄く痛い。それに加え、鼻の中で液体が洪水を起こし、呼吸が上手くできない。鼻から垂れるこの液体はたぶん血だ。

 ヤバい、鼻の骨を折れてるかも。

 そこでようやく目が開くようになった。

 ぼやけた視界の中、俺を見下している新城の姿を見つける。すると、新城は大きく足を上げた。次の瞬間、お腹に鋭い痛みが走る。

「喧嘩にルールなんか無いんだろ?ほら、やり返してみろよ!オラッ!オラッ!」

 俺の腹部を何度も何度も新城は強く踏みつける。

 痛ってーな。何度も同じところ狙うなよ。

「俺らもコイツ殴るか?」

 暇だとばかりサッカー部の連中が鉄パイプをカンカン鳴らしたりしている。

「いや、お前らは全員で紗香を追い掛けろ。今ならまだ追いつける筈だ」

「っしゃー。すぐに捕まえてくるぜ!」

 俺は新城に前髪を掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。

「お前の助けは無駄に終わったな!ふははっ!」

 新城は普段とは比較にならない程の下品なを表情を浮かべた。

 こいつが喋るとめっちゃ唾が飛んでくるな。できれば、永遠にお口チャックしていてもらいたい。

「さっきからギャーギャーうるせぇな。ちょっと黙っとけ」

 俺はまだ痛む鼻をおさえながらも新城を睨みつける。すると、新城の顔はすぐに真顔に戻った。

「お前の顔見てるとイライラしてくるわ」

 新城は真顔で俺の顔を覗き込み、俺の髪を引っ掴んだ。

「今からそのお顔、ぐちゃぐちゃにしちゃうけど良いよね」

 俺は口の端を吊り上げて「カッコよくしろよ」と嘲笑してみせると、新城は引き攣った笑みで「いいだろう」と承認した。

 新城が俺の髪を引っ張り上げる。

 流石にこれはヤバい、死ぬ―――。

 新城が平たくつめたいコンクリートに俺の頭を叩きつけようとした瞬間―――。

 倉庫の扉の方から爆発音みたいなデカい音が響いた。

「な、なんだっ!?」

 新城は慌てて倉庫の扉へ顔を向ける。すると、変な唄声のようなものが聴こえてくる。

「おにーのパンツはティーバック〜、凄っいぞ〜凄っいぞ〜」

 かなりヘンテコな歌詞ではあるが、今はこの唄を聴いた時、胸の高鳴りが収まらなかった。だって、この声はずっと傍で聞いてきた声だったから。

「待たせたな、詩衣」

「遅せぇよ・・・・・・宏樹」

 俺の瞳に晴れやかな笑みを浮かべた宏樹の姿が映る。

 新城は先程とは表情は一変し、酷く青ざめていた。

「お前、他の奴らはどうしたぁっ!?」

「全員、外で寝てるけど」

 宏樹はあっけらかんとした顔で答えた。

 親の仇のように宏樹を睨む新城は苛立ちを隠そうとはせず、ギリギリと歯軋りを鳴らした。

 そんな新城に宏樹は一歩、また一歩と近づいてゆく。

「こうして会うのは久しぶりだな、新城先輩」

「はて?何処かで会ったことありました?」

 こんな中でも宏樹を挑発できるとは、新城の野郎もだいぶ肝が据わってんな。

 新城の今の言葉で、宏樹の表情が一気に険くなった。

「姉貴のこと、忘れたとは言わせない」

「姉貴・・・・・・?」

「宏夏のことだ」

「知らないなあ〜!」

「よぉし!殺す!」

 宏樹は激昂しながら、新城に突撃する。

 そこで俺は、新城の背中で光るものを見つけた。

「宏樹あぶない!」

「もう遅ぇんだよぉおお!」

 新城は背中からナイフを手に取り、突進する宏樹へ刃を向けた。

 宏樹は跳躍すると、空中で回し蹴りを繰り出した。

 宏樹の足がナイフを持つ新城の手を直撃し、その手からナイフを横に弾き飛ばす。そのまま宏樹は脚の遠心力を使い、半回転すると新城の顔面に宏樹の左踵を入れた。

 素人目から観ても解る一切の無駄が裏回し蹴り。

 そんなものを目の前で見せられたら俺じゃなくても、誰もがカッコイイと思うだろう。

 宏樹の蹴りを受けた新城はコマのように回転して、その場に崩れた。

 新城はダメージの反動を受け、ピクピクと痙攣してる。

 遂に復讐をやり遂げ、満足気な笑みを浮かべる宏樹は短く息を吐いた。

「詩衣、立てるか・・・・・・って、その様子じゃ無理そうだな」

「ごめん、無理」

 すると、倉庫の入り口の方から駆けてくる足音が聞こえてくる。

 何事かと思い、入り口の方へ顔を向けると息を切らした涼鈴と目が合った。

「―――詩衣くんっ!?」

 涼鈴が足早にこちらへ駆け寄ってくれた。

「じゃあ、俺は二人の邪魔しちゃ悪いから帰るわ」

 そう言うと宏樹は「カカカッ!」と笑い声を上げ、出口へ歩き出した。

「おい、ちょっと待ってー!」

 俺の静止の声も聞かずに、宏樹は外へ行ってしまった。

 涼鈴は膝立ちになると、俺の肩を揺すった。

「詩衣くん大丈夫っ!?って、凄い鼻血!?待ってて、いま拭いてあげるから」

 涼鈴はポケットからハンカチを取り出そうとするが、慌てまくって上手く取り出せない様だった。

「あ、いいよ。自分の持ってるから」

 俺はそう言って、ポケットから所持していたハンカチを取り出す。

 取り出したハンカチは緑色で四つ葉のクローバーの刺繍が施されていた。

「あ、間違えた」

 いそいそとハンカチをポケットにしまおうとすると、それを見た涼鈴がどうやら何かに気づいたらしい。

「あっ・・・・・・そのハンカチ私のお母さんが作ったやつ」

 そう、このハンカチは俺が高校を入学する前、俺が自転車で転び怪我をした時に涼鈴に借りたものなのだ。

 それが俺と涼鈴の初めての対面だった。

 俺が自転車で転んだとき、近くを歩いていた人は誰一人として声をかけふことなく、見て見ぬふりをした。

 まぁ実際、自転車で転けた程度のことで他人を心配した声を掛けようとする人はまずいない。

 だが、涼鈴は違った。

 彼女は俺に手を差し伸べてくれたのだ。

 俺はその時、彼女の優しさに触れて、可愛らしい笑顔に胸を撃ち抜かれたのだ。

「何度も顔を合わせてたのに返せてなくてごめんね。・・・・・・いま返すよ」

 本当は忘れてた訳ではない。涼鈴の匂いがエンチャントされたこのハンカチを、返してしまうのが惜しかっただけだ。

「ううん、いいよ。あげたつもりだったし・・・それにしても、あの時のこと覚えていてくれてたんだぁ」

 涼鈴は俺の手からクローバーのハンカチを手に取ると、鼻血を拭いてくれた。

 なんだか、凄い恥ずかしい。

 それから涼鈴は俺の頭を持ち上げると、自身の膝の上に頭を乗せる。

「す、涼鈴さんっ!?駄目だよ、いまめっちゃ汚れてるし・・・・・・」

「別に汚れてもいい」

 立ち上がろうとする俺を涼鈴は手のひらで無理やり押さえつけた。

 俺の後頭部が柔らかな彼女の太ももに深く沈む。

 塩化カルシウムまみれの俺に膝枕をしているせいで涼鈴の衣服には白く粉がかなり付着していた。

「・・・・・・でも」

「いいから詩衣くんは大人しくてて。無茶しないって約束したのにこんなボロボロになって・・・・・・」

 涼鈴は自身の服が汚れることもお構いなしに、俺の額を撫でた。

 すると、彼女は顔を下に向け真っ直ぐに俺を見つめてきた。垂れた彼女の絹糸の様な髪が頬を撫でてくすぐったい。

「どうして詩衣くんはそんなボロボロになっても人の為に行動できるの?少なくとも私にはできないよ」

 そう言った涼鈴の瞳は、優しさと妬みが入り交じっているように見えた。

「俺は別に他人の為に行動したわけじゃないよ」

「え?」

 涼鈴は少し驚いたように、疑問を漏らす。

 この際だ。全て言ってしまおう。

「俺はキミが喜ぶ姿が見たかっただけなんだ」

 俺がありのままを涼鈴に伝えると、涼鈴は曇った表情を見せた。

「詩衣くんのバカ・・・・・・詩衣くんがこんな姿になったら全然喜べないよ」

 頬に冷たい水滴が降った。

「ごめん」

「馬鹿、ばか・・・・・・ばかぁ」

「涼鈴」

「なによう」

「俺と付き合ってください」

 今日までの間、幾度も伝えようと苦悩し、失敗に終わっていた胸の内を明確に吐露することができた。

 涼鈴は一瞬驚いた様に目を見開き固まるが、その顔はすぐに緩んだ。

「それ、このタイミングで言うかなあ」

 涼鈴は俺の頬っぺたを人差し指でぐりぐりしている。

「だめかな?」

「いいよ」

「ほんとに?」

「わたし、詩衣くんから告白してもらえるのずっと待ってた。詩衣くんのこと好きだったから・・・・・・やっと言ってくれたね」

 そう言った涼鈴はいたずらっぽく微笑んだ。

 「でも、その割には一昨日告白しようとした時、誤魔化しませんでした?」

「それは詩衣くんがてぃーぴーおーを弁えないからだよ」

 TPO・・・・・・時と場所と場合、みんながいる教室では嫌だったということかな。

「成程、二人っきりの教室だったら良かったと?」

「そういうこと」

「涼鈴って、意外とロマンチストなんだね」

「うるさいなあ・・・・・・って、なんで詩衣くんが泣いてるの?」

 涼鈴に言われて俺は自身の頬に触れる。確かに触れた頬は微かに濡れていた。

「おかしいな、なんでだろ・・・・・・全然涙が止まらないや」

 俺は泣いている顔を見せたくなくて、顔を自分の右腕で覆った。

 暫くして涙が止まると、俺は涼鈴の身体の方に寝返りを打った。涼鈴から香る優しい匂いが、顔全体を覆うように包み込んだ。

「いい匂いがする」

「恥ずかしいから、あんまり嗅がないで」

 涼鈴は「もうっ」と頬っぺたを膨らませる。

「もしもの話だけどさ」

「うん」

「もしも俺がシズクを助けていなかったら、こうして同じ結末を迎えられたかな」

「どうだろ、わかんないや」

「俺、思ったんだ。シズクが俺を涼鈴の元に導いてくれた幸運の猫じゃないかって」

「それは違うよ。シズクはただきっかけをくれだけ。別に、私は・・・・・・最初から何があっても詩衣くんとくっつくつもりでいたけどね」

「それって・・・・・・」

 もしかして涼鈴は最初から俺のことが好きだったのか?そっぽを向いている彼女の横顔は今も赤く染まっている。

「私の事、嫌いになったら許さないから」

 そんなことある訳ないというのに。 


 その後、宏樹が警察や先生を呼び、今回の事件は事を収めた。

 翌日の会議によって、相浦の拉致に関与した新城を含める男子生徒は拉致未遂と暴行罪でもれなく全員が退学処分となった。このことは当然テレビでも取り上げられた。

 俺や宏樹も暴力を奮ったが、それは相浦を助ける為である正当防衛ということで今回は厳重注意だけで処分を免れた。




 新城達の退学処分が決まったその日、涼鈴と相浦は屋上に訪れていた。

 俺と宏樹は二人の後を追いかけ、こっそりと扉の隙間から彼女らの会話に聞き耳を立てる。

「スズ、・・・・・・私よりも前に新城くんに告白されてたんだってね」

「うん」

「そのこと、何で私に話してくれなかったの?」

 明るかった涼鈴の表情が今の一言で陰った。

「・・・・・・さーちゃんに嫌われるのがイヤで言えなかった」

 視線を落とし、ぽつぽつと涼鈴が口を開いた。

 もしその事を先に話していれば、今回みたいな事件が起きることはなかったかもしれない。

 しかし、その事を涼鈴が相浦に言ってしまっていたら相浦紗香の心は確実に傷ついていただろう。

 それに新城の早過ぎた動きが事件の一番の起因である間違いない。

 相浦と新城が付き合い初めてから、実はあなたが交際を始める前に新城から告白されていたなどと口にしても相浦が素直に聞き入れるとも思えない。

 結果的に涼鈴が真実を隠していたことで、こうして相浦は助かったんだ。涼鈴は何も悪くない。

 けれど太宰涼鈴という人間は、自らが悪くないと分かっていても自分自身のことを責めらずにはいられないと思う。

「私は新城くんに利用されていたと知った時は結構ショックをだった。でも、・・・・・・スズがその事を私に話してくれなかったことを知った時はもっとショックだったし、悔しかったよ」

 この相浦の言葉を聞いた瞬殺、頭の中で糸がプツンと切れた。

「涼鈴の言葉を信じることができなかったクセに、好き勝手言いやがって何様のつもりだ!」

「詩衣くんっ!?」

 屋上の扉を完全に開け放ち無遠慮に二人の前に出る。

 振り返った涼鈴は俺を瞳に映すと、目を見開いた。

「なんでアンタがここにいるの?」

 慌てた涼鈴とは反対に相浦は目を細め、落ち着いた面持ちで切り返してきた。

 きっと彼女は今、「どうせ盗み聞きでもしてたんでしょ、キモ」とか思っているに違いない。

「どうせ盗み聞きでもしてたんでしょ・・・・・・キモ」

 うわぁ、イメージしてた台詞でまんま返されたよ。

 確かに間違ってはいないが、もう少しオブラートに包んで言って欲しかった。

「そんなことはどうでもいい。俺が言いたいのは・・・・・・」

「詩衣くんっ!!」

「――は、はい!?」

 言おうとしていたことが、少し高音域な威圧感のある涼鈴の一声によって遮られた。

 どうやらその先を言うなということらしい。

「・・・・・・ちゃんと自分で言えるから」

「そっか。それは悪いことしちゃったな」

 俺は後ろ髪を掻きながらバツが悪そうに引き下がっていくと涼鈴は俺と目を合わせ、小さく唇を動かした。

「ううん、そんなことないよ。言ってくれてありがと・・・・・・嬉しかった」

 最後に涼鈴は照れたようにえへっと笑顔を見せると、相浦に向き直った。

「さーちゃんの言うとおり、私には駄目なところがいくつもあって・・・・・・そのせいでさーちゃんを傷つけちゃったし、傷つきもした。それでも私はさーちゃんとやり直したい、仲直りしたい!」

 最後の言葉を強調した涼鈴の手に力が入る。そんな涼鈴を前にしても相浦の表情は晴れない。

「それは今回のことを全て流すって意味?」

 涼鈴はブンブンと顔を振り相浦を否定すると、まっすぐに相浦の瞳を見つめた。

「違うよさーちゃん、逆だよ」

 そう言った涼鈴の声はゆっくりとして、相浦を諭しているようだった。いや、実際に諭していたのだろう。

「逆?」

 だが、相浦にはイマイチぴんと来ていない。

「あの事件を一緒に乗り越えた私たちだから、もっと仲良くなれるの」

「・・・・・・あ」

 相浦は一瞬だけ頬を弛緩させたが、「ハッ」と気づくとすぐ歯を食いしばる。

「・・・・・・スズはほんとにそれで良いの?私、友達なのに自分の事ばっかりであなたを沢山傷つけたんだよ」

 さっき涼鈴を責めていたのに今度は自分を責め始めた。情緒不安定なのかコイツとも思ったが、なんとなく察しがついた。

 きっと彼女は今も自分自身を赦せないでいるのだろう。だから、涼鈴に責められることを自らの罰としたのだ。その為に涼鈴を責めて怒らせようとした。しかし、彼女が思っている以上に涼鈴は優しく、相浦の言い分を受け止めてしまった。

 そのせいで相浦の感情を爆発させる起因を失い、心が迷子になってしまったのだろう。

 涼鈴は自身の髪をさわさわして、空笑いを浮かべる。

「確かに酷いこともいっぱい言われちゃったけど・・・・・・」

 あー、ここでそれ言っちゃうんだ。「そんなことないよ」とか言わないんだ。

 微妙なタイミングで涼鈴は自前の天然スキルを発揮してしまい、「うう、やっぱり」と相浦は涙をぼろぼろとこぼす。

「でもね、本音をちゃんと言い合えるのが本当の親友だと思うから」

「・・・・・・スズちゃん」

「また仲良くしてくれるかな?」

「ゔ、ゔん・・・・・・する。仲良くする。ひどいこといっぱい言ってごめんね、ごめんね・・・・・・」

 相浦は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにすると、涼鈴の肩に顔を埋めて子供みたいわんわんと泣いていた。その間、涼鈴は目の端に滴を浮かべながらも、今も泣き続けている彼女の頭を優しく撫でる。

(・・・・・・こっちも上手くいって本当に良かった)

 そう思い、教室に戻ろうとすると、涼鈴と目が合う。

 涼鈴はあどけない笑みを浮かべると、彼女の唇が微かに動いた。

 ―――ありがとう。

 実際には声を発することなく、クチパクだけだったので正確に彼女の言葉を把握することは適わなかったが、俺にはそう言っているように感じた。

 いや、きっとそう言っていたのだろう。

 俺は満面の笑みを作ると、親指を立てた。

「宏樹、今日のお前の出番は無しだ。帰るぞ」

「え〜、マジかよ!?」

 次こそ俺は彼女達に背を向けて、肩を落とす宏樹を連れてその場を後にした。




 それからは各自、勉強を奮起し、テストに望んだ。

 そして、待ちに待ったテスト返却日。いつもの教室とは変わって少しピリついた空気が漂っているように感じた。出席番号順に次々と担任の大倉から英語のテストが返されていく。

 今回はかなり力を入れて勉強したから大丈夫。たぶん90点はちゃんと達しているはず。

 まるで神に祈り捧げるかのようにしていると。

「次、望月だぞーっ!」

 とうとう俺の名前を呼ばれてしまった。

 ゆっくりとした足取りで教卓の前まで来ると、俺は大倉から採点を終えたテストを受け取り、その点数を確認した。点数は惜しくも81点だった。

「望月ィ!どうやら賭けは俺の勝ちのようだな!あはははははははは!」

 大倉は笑い散らしながら、嬉々とした表情を浮かべた。

 こいつ、どんだけ俺の秘密を話すこと楽しみにしてたんだよ。

「・・・・・・そうみたいですね」

 俺はテストの採点ミスがないことを確認し終えると、コキっと頭を落とした。

 そんな俺を見下ろしている大倉は、ニィと口角つり上げる。

 大倉は大きく両手を広げてみせると、教室全域に届く程の声で述べた。

「よぉーし!みんな!聞いてくれ!」

 大倉の一声にクラスメイト全員の視線が注がれ、注目が集まる。

 テストが返ってくるということで緊張が張りつめていた教室内も大倉の突飛な行動にどよめき始める。

「俺は望月とある賭けをした!それは望月が英語で90点以上取れなかったら、好きな人をバラすというものだ!」

 大々的に発表して場を盛り上げようとしたつもりだろうが、それは逆効果だ。

「先生サイテー!」

「鬼!悪魔!」

「望月が可哀想だろうが!」

 俺に同情したクラスメイト達は次々に反感を持ち、大倉にブーイングが巻き起こった。

「えーい!うるさい!うるさい!とりあえず俺は賭けに勝ったんだ。だから、発表させてもらうぞ!」

 大倉は軽く教卓を小突き、生徒達を鎮める。

 椅子に座っていた生徒達は固唾を呑んで大倉の発表を待つ。

 色恋沙汰の話だ。なんだかんだ言ってもやはり多少の興味は持っているらしい。

 大倉は自身が注視されていること、確認すると公言した。

「―――望月の好きな人は太宰涼鈴だ!」

 教室内になんとも言えない静寂が流れる。

 クラスメイト達はそんなことだろうと思っていたと言わんばかりの退屈そうな態度を取っている。

 それは当然と言えるだろう。

 涼鈴はこの学校の歴代で最も可愛いと言われても大袈裟ではない程の美貌の持ち主だ。実際に比べた訳ではないので、希望的観測でしかないが。

 だから、涼鈴に好意を向けている連中は決して少なくはないのだ。

 クラスのみんなも当然、俺をその中の一人と思っているわけで・・・・・・。

 すると、後ろの席に座る宏樹が涼鈴に声を掛けている姿が目に入った。

「だってさ、太宰さん。今の心境は?」

 何人かの生徒が涼鈴の回答に耳を傾けているのが、黒板前にいるこの位置からで把握できる。

 涼鈴はいったいなんと答えるのだろうか。それがとても気になった。

「・・・・・・私、付き合っている彼氏がいるの」

 突然のカミングアウトに教室いたほとんどの人間の視線が涼鈴に集まった。

「え、うっそ!?」

「マジかよ、誰だよソイツ!?」

「この学校にいるの?」

「・・・・・・終わった。僕の人生お先真っ暗だ」

「まさかこのクラスにいたりして・・・・・・!?」

 教室のいたるところから女子生徒の場合は困惑や興味、男子生徒からは絶望の声が上がる。

 大倉は俺の肩を優しくぽんと叩いた。

「残念だったな」

 そう言った大倉の顔はまるで俺を憐れんでいるかのようであった。だが、そんな大倉の口は微かに吊り上がっている。

 ―――こいつ、内心で爆笑してやがるな。

「それで太宰さんはどんな人と付き合ってるの?」

 未だにクラスの連中から質問攻めに遭っている涼鈴はその場で立ち上がるとカツカツとローファーを鳴らし、こちらに向かってくる。

 クラスメイト達は何事かと思い、ただただ涼鈴を視線で追っていた。

 それから涼鈴は俺のすぐ傍までやってくると、俺の二の腕にギュッと抱きついてきた。

「―――私の彼氏は詩衣くんだよっ!」

「「「「「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」」」」」

 クラスメイト達は一斉に驚愕の声を上げ、その声は教室内に留まらず、廊下にまで響き渡った。

 それからすぐに教室の前方にある引き戸が開かれ、A組の担任が怒鳴り散らした。

「おい、騒がしいぞ!静かにしろ!」

 それだけ言うとA組の担任はビシャっと勢いよく引き戸を閉め、自らの教室へ帰っていった。

「―――と、まぁ、そういうことですので・・・・・・」

 俺は今も尚、空いたの口が塞がっていない大倉にそれだけ言って席に戻ろうとした―――その時だった。

 パチパチパチと不器用な乾いた音が聞こえた。

 音のする方に顔を向けると、そこには必死に拍手を繰り出す修二の姿あった。目の端に涙を浮かべながらも必死に拍手を続けてくれている。

 泣きながら讃えてくれるとか、どんだけ友達の想いの良い奴なんだよ。

 俺は嬉しさのあまりに思わず、気持ち悪いくらいにニヤケが止まらなかった。

 そんな修二に続くように宏樹や相浦、他のクラスメイト達も次々と拍手を貰い、和やかなムードは終いにクラス全体に伝播していた。発せられる激励が小さな教室に反響する。

 俺の腕を掴んでいた涼鈴の力が緩められた。

 どうしたのかなと思い、涼鈴の方を見やると彼女は嬉しそうに顔を綻ばせていた。

「今更だけど、このみんなと同じクラスになれて良かった」

「俺も同じこと思ってた」

 笑ってそう答えると腕が勢いよく引かれる。

 そして、頬に柔らかな何かが触れた。

 その何かが彼女の唇だと気づくのに数瞬を要した。

 だが、気づいてから俺の顔がマグマの様に熱くなるまでは光の速さだった。

 周りから黄色い声援を浴びながらも、俺の様子を愉しそうに眺める涼鈴。

 彼女はキスの名残がある頬に人差し指を当ててきた。

「これでもう、わたしの隣に永久就職だから!」

 そんなのプロポーズと変わらねぇじゃねぇか。

 俺は心の中でそう呟きつつも、涼鈴に今できる最大限の笑顔を向けた。

「ああ!俺は世界一の幸せものだな!」







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俺は幸運猫の飼い主さんとの恋路だけをひた走る 水瀬 綾人 @shibariku

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