第二十四話 治療院の一日 ――リッサの場合――・前編(ラビエスの冒険記)
月曜日の朝。
俺――ラビエス・ラ・ブド――は、ベッドの中で目が覚めた時点から「今日は、いつもとは違う」と頭で理解していた。皮鎧ではなく白ローブに着替えて、俺は階下へ降りていく。
「おはようございます」
「うむ。今日は、わしを手伝ってくれるのじゃな?」
「はい。リッサにも声をかけておきましたから、今日は彼女も来てくれます。これを食べたら、迎えに行ってきます」
「おう、新しい嬢ちゃんも来てくれるのか。それは楽しみだのう」
フィロ先生と言葉を交わしながらの朝食だ。
そう、今日は久しぶりに『治療師』としてフィロ先生の手伝いをする日なのだ。
食べ終わった俺は、まだリッサとの約束には早いので、まずは準備室へ向かう。いつものように、俺の仕事道具をチェックするのだ。
ガラス試験管を確認するために、その小箱が入っている無菌箱の前に座る。うん、ここに座るのも久しぶりだ。
こうした器具を前にしての『久しぶり』という感覚には、一種独特なものがある。
元の世界で研究者生活をしている時もそうだった。例えば学会発表などで数日間、研究室を留守にした後、戻ってから再び研究実験を始める時。
それまで無意識で扱っていた実験器具を前にして――特に無菌操作に取り掛かろうとして――、一瞬、体が止まる。頭の中で、使い方の手順をおさらいしてしまうのだ。
それまで体に染み付いていた行動を、一度意識して頭で考えてから実行するというのは、なんとも不思議な感覚だ。おそらく、それだけ『無菌操作』というものが、日常ではあったが実は非日常的な行為だったのだろう。
元の世界での研究生活に思いを馳せる……。少しノスタルジックな気分になりながら、俺は無菌箱に手を突っ込み、器具のチェックに取り掛かった。
一通り確認をしても、まだ時間は十分あった。まあ先に行って待っている方が、リッサを待たせるよりもいいだろう。
「では、リッサを迎えに行ってきます」
フィロ先生に一声かけてから、いつもの広場へと向かった。
早朝の中央広場には、冒険者の姿も少なかった。すでに露天商は店を開いているが、もちろん、まだ客は来ていない。
広場を見回しても、暇つぶしにもなりそうになかった。なんとなく青空を見上げて、噴水のへりに座ってリッサを待っていると……。
「よう! ラゴスバット城の英雄、ラビエスじゃねえか! そんな格好してるから、誰かと思ったぜ」
姿を確認するまでもなく、彼女とは違うとわかる、野太い男の声。
見れば、青い皮鎧のモヒカン刈りが、俺の前に立っていた。確かセン・ダイという名前の冒険者だ。『そんな格好』というのは、俺の白ローブ姿のことだろう。
「ああ、センか。……どうした、少し疲れた顔をしてるぞ?」
「やっぱり、そう見えるかい。まあ『少し』どころじゃないけどな……。あんたのおかげで儲けさせてもらった、その帰りさ」
センは『儲けさせてもらった』という事情を説明し始めた。
ラゴスバット城の人間――俺たちをイスト村まで送り届けてくれた御者――から警護の依頼を受けて、一昨日の早朝、彼はパーティーの仲間と共にネクス村へ向かったのだという。
以前に俺が想像したように、やはり彼は、仕事を引き受けた時点では「ラゴスバット城までの道中を警護する」という話だと勘違いしていたらしい。だから、あわよくば送り届けた先で、城で歓待されるかもしれないという期待まであったわけだが……。いざ出発してみると、ネクス村から城まではモンスターも出ないので、ネクス村までで十分という話。彼も彼の仲間も少しがっかりしたが、それでも報酬の額を考えれば、おいしい仕事であるには違いない。
イスト村からネクス村まで、確かにモンスターには遭遇したが、思ったほど
「夜が遅かったからな。翌朝、目が覚めたのも遅かった。日曜だったけど、教会の礼拝ももう始まってる時間だ。今さら行くのも何だし、ってことで、俺も仲間も、村をぶらつくことにした」
しかし。
ネクス村は、聞いていた以上に、小さくて寂しい村だった。まあ、その辺りの感想は、実際に訪れた俺にも、よく理解できる。
「だろ? 特に日曜日だ。村人は礼拝に行っちまって、店もやってねえ。こんな村に長居しても仕方ない、ってことで、俺たちはイスト村に戻ることにした」
そんなわけで、センのパーティーは昨日から歩き続けて、今日の明け方、イスト村に帰り着いた。
「さっさと仲間は自分の部屋に戻って、寝ちまったよ。俺は『冒険者組合に報告してくる』って仲間に言った手前、『赤レンガ館』に直行しようと思ったが……」
とりあえず旅の荷物だけ置きに、と家に立ち寄ったところ、そのままベッドで眠ってしまったそうだ。
「でも、仕事が終わったという報告だけは、済ませないとな。だから一眠りだけで飛び起きて、こうして来たわけさ」
そしてセンは『赤レンガ館』へ向かおうとして、
「そうそう、ひとつ思い出した。依頼主からもネクスの村人からも、あんたたちの活躍はたくさん聞かされたが……。村では他に、モックって旅人の噂も聞いた。あんたたちに仕事を頼みたくて、このイスト村に向かったそうだが、もう会ったかい?」
「ああ、それなら……。残念ながら、仕事は断ったが。興味あるなら、センがやるかい?」
彼は苦笑いしながら、首を横に振って、
「いやいや。今は
「うーん。俺は、そこまで酷いとは思わなかったが……。女たちには、かなり嫌われたみたいだったな」
「そうかい。まあ、女性に嫌われるような奴は、やっぱり
笑いながら、今度こそセンは立ち去り、『赤レンガ館』へ入っていった。
昨日モックの話を聞いた時も、ちらっと頭に浮かんだことだが……。
イスト村とネクス村との距離は、俺が想定していたよりも少し短いらしい。徒歩ならば丸々二十四時間かかると思っていたが、モックとセンの話によると、だいたい二十時間くらいと考えた方が良さそうだ。まあ、俺たちには、どうせ歩いてネクス村へ向かう予定などないわけだが……。
なんとなく、そんなことを考えている間に、マールとパラとリッサがやってきた。
「おはよう、みんな。リッサだけじゃなく、マールとパラも来たんだな」
三人も俺に挨拶を返した後、マールが少し説明する。
「私とパラは、ここまでよ。まあリッサだって広場くらい一人で来られるけど、せっかくだから一緒に、ということで」
「どうせ私たちも、ここを通りますからね。一応、ラビエスさんが来るまでは広場で待って、それから二人でダンジョンに向かいましょう、という話になりました」
にやにや笑いながら、パラが言葉を足した。
「ほら、一日に一回はラビエスさんに会わないと、マールさんは寂しいんですよ」
「あら? パラは、何か勘違いしてるんじゃなくて?」
「無理しなくていいぞ、マール。幼馴染というのは、そういうものなのだろう? 私も物語で読んだことがある」
パラもリッサも、冗談で言っている口調であり、それはマールも理解している態度だ。二人のからかいなど、半ば冷たく、軽くあしらっている。
そうした女たちのおしゃべりを聞き流しながら、俺は立ち上がった。
「では、リッサ。俺たちは治療院に向かうぞ。今日は、よろしく頼む」
「ああ、こちらこそ、と言いたい。庶民の村の治療院というものにも、興味あるからな」
「リッサのこと頼んだわよ、ラビエス」
「ラビエスさん、マールさんをお借りしますね」
「ああ。二人とも、ダンジョン探索を楽しんできてくれ。無事でな」
そして俺たちは、二人と二人に別れ、別々の方向へ歩き始めた。
そういえば。
マールとパラが今日どのダンジョンへ行くのか、聞いていなかった。
それにマールとパラの二人では、戦士と黒魔法士だから、回復魔法を使える者がいないわけだが……。
まあ、その辺りのことは、しっかりマールが考えてあるだろう。彼女に任せておけば間違いない、と俺は自分を納得させた。
「邪魔するぞ」
「フィロ先生、リッサを連れてきました」
リッサと同時に声を上げながら、俺は治療院の扉を開いた。
白ローブ姿のフィロ先生が、奥から顔を覗かせる。
「おお、待っておったぞ。お前さんが、今日わしを手伝ってくれるという、新しいお嬢ちゃんか」
「リッサだ。この村に来る前は、ラゴスバット城で白魔法士をしていた。だから、一般的な村の治療院というものは初めて見る。今日は、よろしく頼む」
「そうか、そうか。わしはフィロ。みんなからは『フィロ先生』と呼ばれておるから、お前さんも、そう呼んでおくれ。こちらこそ、よろしく頼むわい」
軽く二人の顔合わせが済んだところで、
「わしの方は、特に準備というほどのものもないからのう。ラビエス、お前さんの道具を見せてやれ」
「ああ、それならネクス村で見せてもらった。病原体をプラス型とマイナス型に大別するための道具だろう?」
「うむ。じゃが出先では、正式な手順ではなく、簡易版になるじゃろうて。本来ならば、事前準備もあるからな」
フィロ先生の言葉を聞いて、少しだけ「しまった」と思った。
もう道具の確認は済ませたのだが……。
そこからリッサに見せるべきだったか。
「リッサ、ネクス村では、無菌操作は出来なかったからな。ここならば、無菌箱もある」
「無菌箱? 何だ、それは?」
顔に好奇心を浮かべたリッサを連れて、俺は準備室へ移動した。
「ネクス村でも使ったガラスの試験管だが……。いつもは、ここに保管してあるんだ」
俺は無菌箱に手を入れて、中の小箱の蓋を開けて、ガラス試験管をリッサに見せる。
リッサは、既に一度見ている試験管より、無菌箱の方に興味津々といった感じで、
「この……大きな装置は何だ? これが先ほどラビエスの話した『無菌箱』というものか?」
「そうだ。ほら、病原体を調べる以上、なるべく雑菌の入らない方がいいだろう? 無菌操作という言葉で、なんとなく理解できると思うが……。この無菌箱は、そのための装置だ」
「なるほど。雑菌が混入しないように、いつもは密閉して……。そうやって使う時だけ小窓を開けて、手を入れて中で操作するわけか」
リッサは『思い込みの激しい姫様』などと呼ばれることはあるが、根は賢い少女だ。簡単な説明で、きちんと無菌箱の構造と仕組みまで理解してくれた。
「しかし密閉してあるということは、いったん中に入ってしまった雑菌も、閉じ込められて、ずっと中にいることになり……。ああ、そうか! わかったぞ!」
「そう。おそらく、今リッサが思い浮かべたのが正解。こうやって定期的に、特に今日のように実際に使う日に、あらかじめ中を消毒しておく」
説明しながら、
「アヴァルテ・ヴェネヌム!」
俺は解毒魔法で、無菌箱の内部を殺菌してみせた。
「なあ、ラビエス」
「ん?」
「ネクス村の時は、そのガラスの中に液体が入っていたが……」
リッサは、試験管の入った小箱を指し示しながら、不思議そうな声を出した。
「ああ、それを先に説明しておくべきだった。すまない。本来は……」
俺はリッサを、冷蔵庫のところまで連れていき、中を開けて培養液の瓶を見せる。
「おお、これだ! この液体だ! こんなにあるのか……」
「ずっと使う、大切な培養液だからな。これ全部を持っていくわけにもいかないから、ネクス村には、必要な分だけ小分けして持っていったのさ」
冷蔵庫で保管してある理由までは、説明する必要もないだろう。ネクス村へ運んだ際も保冷箱に入れていたわけだし、あれを見ているリッサならば、だいたい想像できているはずだ。
それよりも、
「ラビエス、教えてくれ。この液体は、病原体を増やすためのものだろう? 材料は何だ?」
「ああ、これは肉汁のスープをベースにしている。何よりも、病原体が増えるための栄養源が必要だからな」
「なるほど。肉汁か……」
リッサは勉強熱心だ。将来ラゴスバット城に戻った時に、城でも同じシステムを導入しようと考えているのかもしれない。
一応、培養槽――水の入った単なる金属桶――も見せた後、リッサと共に俺はフィロ先生のところに戻った。
「ふむ、終わったかの」
「ええ、一通り」
「では……」
フィロ先生は、俺からリッサに向き直り、
「今度は、わしらがリッサ嬢ちゃんに教えを請う番じゃ」
「何だ? 私に出来ることであれば、何でも構わないぞ」
「そう言ってもらえると助かるのう。では、わしらに解析魔法を伝授してくれ」
そう。
これは、いつか俺もリッサにお願いしようと考えていた件だ。どうせならばフィロ先生と二人一緒の方がいいだろうと思って、この日まで待っていたのだった。
もちろん、先に俺一人が教わっておいて、それを俺がフィロ先生に伝えるという手もあっただろう。だが、それでは微妙に間違って教えることになるかもしれないし、そもそも、俺が上手く出来るようにならないかもしれない。その場合、俺ではコツなど伝授することは不可能となってしまう。
「ああ、解析魔法アナリシか。あれは……」
リッサは、少し考えてから、
「体内のどこが悪いのか、それを問いかけるイメージで使うのだ。呪文詠唱は、こうだ」
俺とフィロ先生を、実際に診断してみせる。
「レスピーチェ・インフィルミターテム!」
ネクス村で見た時と同様、俺の目では、何の変化も見受けられない。だが、リッサにだけはわかるのだろう。彼女は、少しだけ表情を曇らせて、
「ラビエスは健康そのものだが……。フィロ先生、あなたは少し……。いや、ごくわずか、と言った方がいいかな? 胸のあたりが苦しくないか?」
「ほう、わかるのか。……うむ、もう歳だからのう。いや、普通に生活する分には困らん程度だぞ」
フィロ先生に持病があるとは、俺も知らなかった。これは驚きだ。同時に、心配にもなる。
しかしフィロ先生は、具合が悪い素振りなど全く見せずに、教わったばかりの魔法を試している。
「レスピーチェ・インフィルミターテム!」
詠唱そのものは正しいのだが、
「ふむ。全く何も見えん。どうやら、わしには無理なようじゃ」
残念そうに、首を横に振るフィロ先生。
続いて、俺もやってみる。
リッサに言われたままのイメージで……。
「レスピーチェ・インフィルミターテム!」
フィロ先生と同じく、駄目だった。
診断結果が見えないというより、そもそも魔力を消費した感覚がない。どうやら魔法そのものが発動していないようだ。
そんな俺たち二人を見て、リッサが感慨深そうに言う。
「そうか。解析魔法アナリシは、意外と難しい魔法だったのか。城では、これは簡単な魔法と思っていたのだが……」
まるで俺たちが、初歩的な魔法すら扱えないように見えるかもしれないが。
魔法には相性というか、得意不得意がある。お願いだから、この件だけで、俺たちを軽蔑しないでくれ……。
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