第三話 治療院の一日(ラビエスの冒険記)

   

 翌日。

 いつもの皮鎧ではなく、フィロ先生と同じような白ローブに着替えて、俺――ラビエス・ラ・ブド――は階下へ降りていった。

 一般的に冒険者は、ダンジョン探索に出かけるとき以外でも同じ服装をしている。それが正装みたいなものなのだが、フィロ先生の手伝いをする時だけ、俺はローブを着ることにしていた。

 フィロ先生やマールなどは、これを「『冒険者』仕事と『治療師』仕事と、気持ちの切り替えのために服装を変えている」と捉えているようだが、少し違う。

 まあ実際、オリジナルの『ラビエス』としては、そういう意識だったのだろう。ただ俺としては、むしろ白ローブは白衣――元の世界で研究に携わる時に着ていた服――という認識であり、だからこそ『治療師』の時だけ着るものだった。

「おはようございます」

「うむ。そんなに早くはないがのう」

 フィロ先生は、すでに朝食を終えていた。フィロ先生は料理が好きで――得意ではないが特に下手というほどでもない――、俺の分まで毎朝用意してくれている。

 俺も手早く済ませ、準備室へ。仕事の道具――俺の担当分――のチェックをする。

 といっても、治療の基本は回復魔法なので、ほとんど道具なんて必要ない。今チェックしている器具も、普通の治療師ならば使わないはず。俺の発案で使い始めた道具だった。

 上端だけ開いて下端は閉じた、細いガラス管――いわゆる試験管。それと、大量の培養液。メインはこれだけだ。

 この世界では、高温での加熱も素早い冷却も魔法で出来るので、ある意味、元の世界以上にガラス生成は容易なようで、ガラス器具も充実していた。

 ガラスの試験管は、あらかじめ、洗って乾かして加熱殺菌してある。この世界には蒸気圧滅菌器オートクレーブも乾熱滅菌装置もないので、炎魔法で一定時間、加熱処理することで「滅菌した」ということにしている。まあ、この世界の滅菌方法には、他に解毒魔法を使うという手もあるのだが、加熱処理の方が均一にできるので、そちらを選んでいる。俺の使用目的としては、完全に滅菌することより、どのガラス試験管も同じ程度に滅菌してあることの方が大事だからだ。

 なお、それらの試験管は、無菌箱の中の小箱に保管してある。『無菌箱の中の小箱』という表現は、『箱』という言葉だけでも小さめの箱をイメージする人がいたら、少し紛らわしいかもしれないが……。

 この世界で俺が『無菌箱』と呼んでいるシロモノは、元の世界で『無菌箱』と呼ばれる装置とほとんど同じもので、かなり大きな箱である。タテヨコは、一人分の勉強机と同じくらいで、だいたい高さも同じくらい。全体は金属製だが、前面だけは透明なガラス製。その前面下部には、手などを突っ込んで中で作業できるように、小窓が用意されている。

 元の世界では、無菌箱よりもクリーンベンチ――特殊なフィルターとかクリーンな空気の注入とかがあって、より高度な無菌性を保てる実験装置――で作業することがほとんどだったが、この世界では仕方がないので『無菌箱』で我慢していた。

 使用前には無菌箱内部を滅菌する必要があり、元の世界では紫外線ランプを使っていたが、そんなもの当然この世界には存在していない。準備として今のうちに、無菌箱内部を解毒魔法で――今度はなるべく完全に滅菌することに意味があるので――滅菌しておく。


 さきほど『治療の基本は回復魔法』と述べたが、怪我の場合はともかく、病気を治す場合、いきなり回復魔法をかけるのは厳禁と言われている。

 それが感染性の病気だとしたら、回復魔法によって、病原体――患者の体内で患者個人の免疫により幾分か弱らされたはずの病原体――まで一緒に活性化される危険があるからだ。


 ウイルスや細菌バクテリアに相当する言葉こそないものの、この世界においても『病原体』の概念はある。目に見えない小さな生物――いわゆる微生物――が多くの病気を引き起こすことは、治療に携わる者には周知の事実だった。

 以前にも述べたように、魔法を使う際には、具体的に考えながら念じることが大切――つまり、魔法の効果はイメージ次第。もちろん治療師は、病原体ではなく、患者の方だけを回復させるイメージで魔法を行使するわけだが……。

 実際のところ魔法というものは、いくら上手くイメージしても、100%完璧にイメージ通りの結果が得られる……なんてことは、まずあり得ない。

 例えば。

 ダンジョンで三体のモンスターと出くわして、風魔法で迎え撃った場合を想像して欲しい。

 数を減らすために、まず真ん中の一匹を倒そうと考えて「真ん中の一匹に特に強く効くように」とイメージしながら唱えたところで、魔法の風が吹く範囲内にいる以上、左右の二匹にもダメージが及ぶ。つまり、ダメージが分散してしまう。

 回復魔法で治療をする際にも、同じことが起こる。

 いくら「患者だけ」をイメージしたところで、回復効果は患者だけに限定されず、患者体内の病原体にも、ある程度は影響が出てしまうわけだ。つまり、体内免疫で少しは弱っていた病原体も、一緒に回復されて活発になってしまうのだ。

 もちろん病原体は『ある程度』活性化されるに過ぎないが、もともと患者さん自身が『病気』と自覚するくらい――明らかな症状が出るくらい――、猛威を振るっていた病原体だ。それだけ体内で十分大量に増殖していた病原体が、さらに活性化されて増えたりしたら、大変なことになってしまう。

 ……というわけで。

 回復魔法をかけるのは、体内の病原体を取り除いてから、というのが決まりになっていた。


 この『病原体の除去』も、当然、魔法で行う。

 解毒魔法ヴェネヌナ。

 冒険者としては、モンスターから毒を受けた際にお世話になる魔法だが、平和な村の中では、病原体を取り除く魔法として使われる。細菌バクテリアが放出する毒素だけでなく、生き物である細菌バクテリアそのものまで『毒』扱いで排除できるのは、少し興味深いが……。本来そういう魔法であって、解毒魔法という名称自体が、微妙に間違っているのかもしれない。

 ただし、解毒魔法で病原体を取り除くとは言っても、そもそも病原体は、目に見えないレベルの微小な存在。患者体内から完全に除去できたかどうか、治療師が見ても判別できるものではない。

 そう説明すると「病原体を取り除けば、患者は治るから一目瞭然なのでは?」と言われてしまうかもしれないが……。

 病気の原因である病原体の排除と、病気の症状の改善は、イコールではない。

 昔見た映画――元の世界で見た映画――で、「ウイルス性の出血症状で苦しみ、顔も爛れて酷いことになっていた患者が、体内のウイルスをやっつけた途端、血も止まって顔も綺麗に元どおり」なんてシーンを見たことがあったが、あれは酷いフィクション。誤解を与える演出だった。

 例えば、数人がかりでボコボコに殴られ蹴られている人を見つけて、その加害者達を遠くへ追いやって、被害者を助けてあげたとしよう。しかし『加害者達を追いやる』だけでは、ボコボコにされた被害者のダメージは、ダメージとして残ったまま。怪我は怪我で、別に治療する必要があるわけだ。

 それと同じで、体内の病原体を取り除いただけでは、病気の症状は治らない。だから、解毒の後、回復魔法で治療することになるのだ。


 何度も述べたが、魔法はイメージ次第。

 同じ病気の症状であれば、同じ病原体が引き起こしたものだろう。そう治療師は推測して「この病原体は、三日前の患者さんと同じやつ」などとイメージしながら、解毒魔法をかける。

 解毒時のイメージが具体的になればなるほど、100%に近い割合で、体内の病原体を除去できる。

 少しは残ってしまったとしても、回復時のイメージが具体的になればなるほど、100%に近い割合で、患者だけを――体内に残った病原体は増やさずに――回復できる。

 そんな治療師が、村人からは「腕のいい先生」などと呼ばれるわけだ。

 その意味では、俺は元の世界の知識がある分、少し得をしていると思う。

 元の世界で、俺が専門に研究していたのは、脳炎を引き起こすウイルスだった。よくある風邪――この世界でも治療院を訪れる村人の大半はこれ――のウイルスに関しては、教科書レベルの知識しかない。

 それでも「今日の患者さんは、三日前の患者さんと似た症状だから、きっと同じ病原体だろう」などと経験から判断するだけでなく、それらの病原体そのものの知識――イメージのきっかけとなる具体名や、そのウイルスの構造や増殖システムなど――が少しでもある方が、より強くイメージできるわけだ。

 もちろん、こうしたウイルスや細菌バクテリアが引き起こす病気ばかりではなく、無関係な病気――心臓病とか内臓疾患とか――もある。そうした病気の場合、俺のアドバンテージは全く役に立たない。

 そういう重病人は、フィロ先生に丸投げという形になっていた。


 やがて。

 開院の時間となり、本日の患者が訪れる。

 最初に来たのは、

「おお、野菜売りか。……なんじゃ、また風邪でもひいたか?」

 フィロ先生が『野菜売り』と呼ぶ、顔見知りのおばさん。

 彼女は広場の露天商の一人で、野菜や果物を扱っていた。わかりやすく言えば、八百屋である。――この世界に、そんな言葉はないが。

「ええ、喉が痛くて、少し熱もあって。昨日から、家で寝込んでいて……」

 一日ゆっくり寝ていれば治るかと思ったら、今朝になっても良くならない。むしろ熱が上がった感じもするので、来たのだという。

 言われてみれば、俺が昨日、広場でマールと待ち合わせていた時。いつもなら営業しているはずの、おばさんの露店には誰もおらず、商品も並んでいなかった。特に気にしてはいなかったが、なるほど、病気で寝込んでいたわけか。

 喉が痛いなら、喋るのも辛いだろう。

 それでもフィロ先生は、彼女から簡単に症状を聞き出して、

「ふむ。これは喉風邪……おそらく、マイナス型の病原体によるものじゃな。ラビエス、一応確認しておこう」

 と言って、俺に顔を向けた。

 俺は黙って頷いて、準備室へ道具を取りに行く……。


 先ほど「この世界においても、病原体の概念はある」と述べたが、ウイルスも細菌バクテリアも、基本的には『病原体』として一括りに考えられている。

 しかし、この世界においても、ウイルスと細菌バクテリアは明確に違う。

 先ほど「回復魔法によって、病原体まで活性化される危険がある」と述べた際、『病原体まで活性化される』と言い切らずに『病原体まで活性化される危険がある』という言い回しを使ったが……。

 それは、回復魔法でも活性化されない病原体が存在するからだ。細菌バクテリアは回復魔法の対象だが、ウイルスは回復魔法でも変化しないのだ。

 まあ、少し考えてみれば当然だろう。元の世界で「ウイルスは生物ではない」と認識していた俺にとっては、驚くべきことではなかった。

 回復魔法は生命いのちあるものしか回復しない。だからウイルスは回復しない。

 この点、生物も非生物も同様に除去できる解毒魔法とは対照的であるが、それだけ解毒魔法がアバウトな魔法で、回復魔法が厳密な魔法だということかもしれない。

 ともかく。

 大きく分けて二種類の病原体がある、と知っているだけでも、俺は他の人より有利。魔法で病原体を殺す際のイメージとして「ウイルスを殺そう」と意識するのと「細菌バクテリアを殺そう」と意識するのとでは、効率が大きく違ってくるのだから。

 ……などと最初は考えていたが。

 漠然と『病原体』として一括りに捉えているのは、主に一般人の常識。治療師の中には、ウイルスや細菌バクテリアという用語は使わずとも、なんとなく「回復魔法で活性してしまう病原体と、しない病原体と、二種類ある」と感じ取っている者も結構いるようだった。

 オリジナルの『ラビエス』――俺の体の、本来の持ち主――も、その一人だった。

 俺が『思い出した』記憶によると。

 まだ彼が未熟な頃。

 きちんと完全に病原体除去できない自覚あるまま、回復魔法を唱えることが何度かあった。学院での魔法実習だったり、急を要する場面だったり……。

 とても強い罪悪感があったが、それで病原体が活性化して症状が悪化する場合だけでなく、まったく大丈夫な場合もあったという。

 最初は、患者自身の抵抗力など個体差によるものかと思ったが……。「もしかすると、そもそも病原体は、回復魔法の効く効かないで二種類に大別されるのかもしれない」という可能性も頭によぎるようになった。

 この件についてフィロ先生と話し合ったこともあり、二人とも「あり得る話だが、実際に回復魔法をかけてみるまで区別できないなら、あまり意味はない」という考えに至ったようだ。厳密には「回復魔法をかけてみるまで区別できない」ではなく、「解毒が不十分な状態で――かなり病原体が患者体内に残った状態で――回復魔法をかけてみるまで区別できない」なわけだから。

 ちなみに、『ラビエス』とフィロ先生は便宜的に、回復魔法の影響を受ける病原体を『プラス型』、受けない方を『マイナス型』と呼んでいた。俺の慣れ親しんだ用語で言うなら、細菌バクテリアが『プラス型』、ウイルスが『マイナス型』ということになる。


 ともかく。

 既にオリジナルの『ラビエス』とフィロ先生が、そこまで検討していたのであれば……。

 これは俺には好都合。俺が「プラス型とマイナス型の判別方法を思いつきました!」と言っても、それほど不自然ではないだろう。

 そこで、ある晩一緒に夕食をとっている時に、俺は提案してみた。

「鼻風邪なら鼻水とか、喉風邪なら咳とか唾とか、患者の体液の中で、病原体は増殖しているはずですよね?」

「……そうじゃろうな。そうした体液を摂取して、中の病原体を調べようとでも言うつもりかの?」

 フィロ先生は、ある程度は俺の考えを先回りしたが、

「じゃが、目に見えないものを、どうやって調べる?」

 しかし「病原体は目に見えないほど微細な存在である」という思い込みが、そこで思考をストップしていたようだ。

「目に見えないなら……目に見えるレベルまで増やせばいいのです」

「採取した体液に回復魔法をかけるのか? それなら、わしも試みたことあるが……。『目に見えるレベルまで』なんて増えなかったぞい」

 さすがフィロ先生。そこまでは試したことがあったのか。しかしまあ体液そのものだけでは、栄養分が足りなくて、それほど中の細菌バクテリアも増えないだろう。

 俺は、テーブルの上の料理を指差し、

「こういう料理って、放っておいたら腐ってしまいますが……。あれも病原体みたいな、目に見えない微生物のせいじゃないですかね? これを利用しましょう!」


 俺が元の世界で研究していたウイルスは、人や動物に感染して、その中で増殖するウイルスばかり。細菌バクテリアの中で増殖する、いわゆるバクテリオファージは扱ったことがない。

 人や動物の体内で増殖するウイルスならば、研究のためにウイルスを増やす際には、当然そうした細胞が必要。ほとんどの場合、生きた動物そのものではなく、動物由来の培養細胞で十分なので、日常的に培養細胞を扱っていた。

 しかし、動物細胞の培養だけではなく、細菌バクテリアの培養も結構頻繁に行っていた。コンピテントセルと呼ばれる特殊な大腸菌が、遺伝子組換えなどの研究において、便利な道具として用いられていたからだ。

 俺が元いた世界でも、細菌バクテリアは普通、人間の目には見えない。しかし培養して増やしてやれば、はっきりと肉眼で見えるようになる。

 例えば液体培養の場合。

 細菌バクテリアを培養液に入れて、数時間から一晩、人肌くらいのお湯につけて温めてやる。すると、最初は茶色く澄んでいた培養液が、白く濁るようになる。この『濁り』が、目に見えるレベルまで増えた細菌バクテリアだ。

 目に見えなかったものが、はっきりと肉眼で見えるようになった――。学生時代、研究室に配属された当初は、この程度の経験でも、感動すら覚えたものだった……。


 ……などと、前置きっぽい説明が長くなったが。

 今。

 患者のいる診察室から、奥の準備室へと来た俺は、まず冷蔵庫の中の培養液を取り出した。

 この『冷蔵庫』は魔法式冷蔵庫なのだが、正直、仕組みはよくわからない。ひょっとしたら俺のように転生してきた人の中に、家電製品に詳しい者がいて、その知識を活かして開発したのかもしれないが……。まあ、俺には専門外のシロモノだ。たとえ『元の世界の知識を活かす』としても、それぞれ各自の専門分野で頑張れば十分――生兵法は大怪我のもと――と俺は思っている。

 俺にとって大切なのは、培養液を冷やして保存できる装置があるということ。ただそれだけだ。

 冷蔵庫の中で保管してあった培養液は、もちろん、元の世界で使っていた培養液そのものではない。元の世界の培養液の材料は、向こうの化学物質の名前でしか覚えておらず、こちらで同じものを揃えるのは完全に不可能。

 ただし、ポイントだけは覚えていた。つまり、十分な栄養と、適度な塩濃度。

 栄養が必要なのは――菌を『培養』するための液体なので――説明の必要もないだろう。こちらの世界では、料理屋から大量に肉汁のスープを仕入れて、それを栄養源として用いることにした。

 塩濃度の方は浸透圧の関係であるが、いきなり『浸透圧』なんて言われてもイメージしにくいかもしれない。水の中で目を開けたり、水が鼻に入ったりした時に、粘膜が染みて痛い――あれが浸透圧によるものだ。「鼻うがいは塩水で」というのと同じで、ウイルスや細菌バクテリアも、塩水ではなく真水に入れたら、外側の膜がやられてしまう。そのため、培養液には少し塩を加えて、適度な塩濃度にする必要がある。

 まあ、肉汁由来の手製の培養液の場合、最初から結構な塩分が入っているわけだが。そんなこんなで最初は『適切な培養液』を調整するのに手間取りながらも、今では十分使用可能なものが大量に冷蔵庫にストックされていた。

 この培養液を無菌箱へと運び、なるべく雑菌が入らぬように無菌箱の中で、三本のガラス試験管へと小分けする。今回必要なのは、この小分けした分だけだ。残りの大量の培養液は、また次回以降に使うので、再び冷蔵庫へ。

 そして培養液の入ったガラス試験管を手にして、俺は診察室に戻った。

 患者――野菜売りのおばさん――とフィロ先生に、一本ずつ手渡す。

「おそらく喉風邪じゃから……。この細いガラスの中に入るよう咳をして、唾も一滴入れてくれんかのう?」

 と患者に説明しながら、フィロ先生は、自分も実際にやってみせた。俺も同様に、俺が手にしたままの一本で、実演してみせる。

 ちなみに、俺やフィロ先生がやってみせたのは、単に「見本を示すため」というわけではない。比較対象となる検体が必要だったからだ。本来ならば、患者自身の健康時の体液と比較したいところだが……。それは入手できないので、俺やフィロ先生を「健康な人の場合」のサンプルとして、二人の平均を患者と比べることにしていた。

「これでいいですかね?」

「うむ。……いや、わしじゃなくてラビエスへ渡してくれ」

 野菜売りのおばさんは、試験管をフィロ先生に手渡そうとしたが、フィロ先生に言われてこちらへ。フィロ先生も、自身の分を俺に差し出す。

 こうして、三人分のサンプル――三本のガラス試験管――を持って、俺は再び、準備室へ向かった。


 今度は無菌箱でも冷蔵庫でもなく、培養槽へ。

 まあ『培養槽』などというと大げさだが、実際には、水の入った金属桶に過ぎない。

「アルデント・イーニェ!」

 弱炎魔法カリディラで金属桶を熱して、中の水をお湯に変えた。なるべく小さな火をイメージしたが、お湯に手を突っ込んでみると、思ったよりも熱湯。冷たい水を少しずつ加えて、人肌の温度になるように調整する。

 うん、だいたいこれくらいでいいだろう。

 適温になったと判断したところで、三本のガラス試験管をお湯につける。元の世界ならば、これでお湯の温度を保ったまま、数時間から一晩、温め続ける必要があるのだが……。

「フォルティテル・クラティーオ!」

 こちらの世界では、回復魔法で増殖を促進させるので、時間はかからない。まあ、そもそもが「回復魔法の影響を受ける病原体かどうか」を判別したいわけでもあるし。

 ちなみに回復魔法には、弱・強・超の三段階――レメディラ・レメディダ・レメディガ――があるのだが、この作業では強回復魔法レメディダを使うことにしていた。

 そして結果が出る。

 三本とも、同じくらい濁っていた。細かく見れば、俺のが一番、続いておばさん、フィロ先生の順のようだが、そもそも正確に同じ量の体液をサンプルとして使っているわけではないので、多少の違いは誤差の範囲内だ。まあ『同じくらい』と判断していいだろう。

 培養液だけではウイルスは増殖できない――細胞の中でないと増殖できない――し、そもそも非生物であるウイルスは回復魔法では増殖できないので、この結果から「三人の体液には、同じ程度の細菌バクテリアが含まれている」と考えられるわけだ。

 ただし、これは病原体ではなく、体内に常在する細菌バクテリアの分だ。

 もしも今回の患者の症状を引き起こしている病原体が、ウイルスではなく細菌バクテリアであったならば……。患者の体液には、桁違いに――用いたサンプル量の違いなど無視できるくらい桁違いに――多くの細菌バクテリアが病原体として存在していたはずであり、それが増殖して、あからさまに俺やフィロ先生の試験管よりも濁ったはずなのだから。

 俺は診察室へ戻って、フィロ先生に結果を見せた。

「うむ。やはりマイナス型の病原体じゃったか」

 というフィロ先生の言葉通り、こうして、今回の病原体はマイナス型――つまりウイルス――と判定できた。

 まあ、これだけ手間をかけて「予想通りウイルスだった」という確認が出来ただけ。一見、ほとんど無駄骨に思えるかもしれないが、そんなことはない。

 何度も述べたが、魔法の効能はイメージ次第。だから「たぶんウイルスだろう」と思いながら解毒するのと、「ウイルスに違いない」と自信を持って解毒するのとでは、大きく違ってくる。

 その『自信』を与えてくれるだけでも、病原体をイメージで解毒する治療師にとっては、非常に有意義なのだ。


 ちなみに。

 この判定法には、かなり大きな欠点もある。

 まず、体液摂取できない場合は使えない。元の世界とは違って『注射器』というものが存在していないので、採血して血中の細菌バクテリアやウイルスを調べる……なんてことは難しい。

 また、患者の体内でウイルスと細菌バクテリアが両方とも異常増殖していても、プラス型――細菌バクテリア――と判別されてしまう。これも問題だ。

 例えば、ウイルス性の風邪で、体が弱って免疫が低下して、体内の無関係な雑菌も増殖した場合……。

 例えば、ウイルスで喉をやられて、今は風邪だけど放っておいたら肺炎を併発するかもしれないケース。肺炎の原因となる細菌バクテリアも増殖し始めているが、まだ症状としては肺炎に至っていない場合……。

 これらの場合、ウイルスだけでなく細菌バクテリアも健康時より増殖しているため、俺の判定法では『プラス型』という結果が出る。しかし、どちらも今現在の病気のメインはウイルスなので、判定結果を信じて細菌バクテリアだけを殺してもダメ。ウイルスを除去しない限り、病気の原因はなくならず、病状は良くならない。

 だから俺は、プラス型――つまり細菌バクテリア――と判定された時は、一応両方殺すイメージで解毒することにしている。

 うろ覚えだが、確か風邪を引き起こす病原体は大部分がウイルスであり、細菌バクテリアによる風邪は少なかったはず……という、あやふやな知識にも基づいて。


「では、ラビエス。今回も、お前に任せるとするかのう」

 簡単な風邪の治療の場合、解毒も回復も、フィロ先生ではなく俺がやることになっていた。特に今回はウイルスによる風邪と判定されているので、俺としても好都合。

 頭の中で、元の世界で読んだウイルス学の教科書を引っ張り出して、喉風邪の原因となるウイルスをイメージして……。

「アヴァルテ・ヴェネヌム!」

 解毒魔法ヴェネヌナを詠唱。続いて、弱回復魔法レメディラを唱える。

「ミヌエレ・クラティーオ!」

 これくらいの風邪なら、弱回復魔法で十分だ。

 病原体の判別の際には強回復魔法を使ったくせに……と思われるかもしれないが、あれは一瞬で病原体を増やすためのもの。軽い病気の回復そのものには、そこまで強い魔法は必要ない。

 元の世界で読んだ薬学の教科書の一冊に、最初のページで「あくまでも薬は、人間の自然治癒力を補助するものです」みたいな文句が書かれているものがあったが、こちらの世界の回復魔法も同じようなものだ……と俺は信じている。

 実際、野菜売りのおばさんは、俺が魔法をかけた途端、

「おお! 喉の痛みが消えた! それに……体もラクになった気がするよ」

 ……いやいや。

 さすがに、そんな一瞬で治るわけないので、半分はプラシーボ効果――患者の思い込み――だと思うのだが。

「ありがとうね! さすがは若先生だ。みんなが言ってる通り、腕のいい先生だね!」

 感謝の握手なのだろうか。彼女は「ありがとう」を繰り返しながら、俺の手を何度も握る。それから規定の謝礼を払って、満足した顔で帰って行った。

 少しだけ、俺は不思議に思う。

 ……村人からは『治療師』ではなく『冒険者』とみなされているのに、本当に村人の間で『腕のいい若先生』などと噂されているのだろうか?


 しばらくして。

 本日二人目の患者がやって来た。

 全く見たことない人物だが、服装から判断するに、農夫だろうか。だいたい農地は村の中央ではなく端近くに多いので、そうだとしたら面識ないのも納得だった。

「昨晩から熱が……。喉も頭も痛くないんですけどねえ」

 彼は「回復魔法で、熱だけ下げて欲しい」と言うが……。

 こちらとしては、そうはいかない。

 俺の元の世界でも「風邪をひいた。熱が出て苦しい。風邪薬は眠くなるから、解熱剤で、とりあえず熱だけでも下げよう」という人がいたようだが、総合感冒薬ならともかく、解熱剤だけというのは良くない。

 解熱剤は、一時的にはラクになるとしても、風邪のウイルスそのものを倒す薬ではないからだ。

 風邪で熱が上がるのは、体内の免疫が頑張っている証拠……なんて話もあるが。

 そもそも。

 生き物である細菌バクテリアだけでなく、生き物のシステムを借りて増殖するウイルスも、一般的に体温が生育の最適条件であって、温度が上がれば上がるほど増えにくくなる。

 実験室レベルでも、培養温度を2℃上げたり5℃上げたりして、元の温度と比較する――いかに増殖能力が落ちるか比べる――研究などがあったくらいだ。

 だから熱だけを下げたら、気分は良くなるかもしれないが、むしろウイルスも喜んでしまう。

 なので。

「そうはいかんのじゃ。回復魔法をかける前には、まず解毒魔法をかけんといかん」

 フィロ先生が患者に告げる。

 特にこの世界では、回復魔法で病原体も活性化され得るので、なおさらだろう。

 まあ、病気の原因がウイルスだとしたら、活性化される心配はないわけだが。

 ……というわけで、他の風邪の患者同様、プラス型かマイナス型か判別して、解毒魔法で除去して、それから回復魔法という流れになった。


 それからも何人か患者は来たが、風邪程度の、俺でも対応できる症状ばかり。フィロ先生に丸投げするような重病人は、今日は来なかった。

 やがて、夕方になる。

 一日の終わりだ。そろそろ本日の診察は終わりかな……なんて考えた時。

 バタンと勢いよく扉を開ける音と同時に、

「失礼しまーす」

 若い女性の声が聞こえてきた。

 特徴的な、少しガチャガチャっとした感じの声質。だがオバサン声というほどではなく、耳触りが悪いわけでもない。

 一見まだ子供のようだが、魔法士系の冒険者の格好をしているので、それなりの年齢のはず。おそらく、俺やマールより少しだけ若い程度だろう。

 つばの広い、黒いとんがり帽子。そして、黒いローブ。ローブは前をきちんと閉じずに、だらしなく開いたままで、その下は、動きやすいラフな服装――オレンジ色のシャツと黒いズボン――だった。

 帽子の下から見える金髪は、女性にしてはあまり長くないようだが、左右で短く束ねている。

 くりっとした瞳が特徴的な童顔で、背丈も小柄。そのわりに胸は大きい。俺が元いた世界なら、きっと『ロリ巨乳』と呼ばれていたことだろう。

 右目には眼帯をして、左腕には包帯をしているが……。

 俺の視線に気づいたのか、あるいは、

「なんじゃ、腕の怪我か? 目の治療か?」

 フィロ先生の言葉に応じたのか。

 彼女は、

「いや、これはファッションでして……。十二病っぽいファッションです。ちょっとカッコイイでしょう?」

 見せびらかすように、軽く腕を上げて、左腕の包帯を強調してみせた。

 ……。

 自分は十二病――いわゆる中二病――などではなく、ただ十二病の格好をしているだけ……と言いたいらしい。

 しかしそれを「カッコイイ」と思っている時点で、十二病と同じセンス……つまり既に十二病なのではなかろうか。

 そんな俺の内心など無視するかのように、彼女は勢いよく叫んだ。

「こちらに腕のいい白魔法士がいると聞いて、スカウトに参りました! 私と一緒にパーティーを組んでください!」

   

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