ひまり

りんこ

第1話

「ひまり」という名をつけたのは、私が小さい頃に居なくなった父だったと母から聞いた事がある。

「ひまわり」と「陽だまり」が好きだから、そんな理由で私の名は「ひまり」となった。

父が居なくなった理由を母に聞いた事は無い、なんだか聞いてはいけないような気がした。というのも、母はたまにだけれども、「おとうさん、これ好きだったのよね」と父が好きだったものを見たり聞いたりするたびに、微笑を浮かべて懐かしんでいたから、きっとまだ父を好きで、愛しているのではないかと思ったからである。好きなのに会えなくなってしまった人の話をするのは辛い。きっと、とても辛い事。それを察してなのか我が息子も自分の父親の話を私に聞いたりしてこない、よくできた子なのである。


元気だった母の身体に異変が起きたのは、夏が終わって少しだけ空が低くなって、秋の匂いと焼き芋の匂いがしてきた頃だった。仕事中に急に眩暈がして倒れ、勤務先の病院でそのまま検査入院をする事になった、CTスキャンを撮った所、首のリンパ節に腫瘍が見つかり、精密な検査をした結果、もう手の施しようがないほどに進行した癌だという事が判明した。

「ママ、こうちゃん焼き芋食べたい」

今年小学一年生になったばかりの我が息子、幸太郎は病院の帰りに呆然としながら歩く私の手をひっぱり、スーパーの石焼き芋売り場の前で言った。

「あ・・もう焼き芋の季節なのか・・」

母は焼き芋が大好きで、なにやら焼き芋が自宅で上手く焼ける陶器などというものを買って、去年の秋や冬はこうちゃんと私に毎日と言って良いほど焼き芋を焼いてくれた、もう母の焼いてくれた焼き芋が食べられないかもしれない、そう思うと、脳みそがグラグラと揺れる思いがし、言い知れぬ不安に襲われた。母と私は長い事二人暮らしだった、看護婦という忙しい職業の傍ら、女手一つで私を育てくれた母。私が女手一つでこうちゃんを育てているのは決して大好きな母を真似しようと思ってした事ではないが、こうちゃんが生まれてからは私と母とこうちゃんの三人で楽しく、時には喧嘩もしたけれども、幸せに暮らしていた。

「よっこちゃんは?一緒に帰らないの?」

買ったばかりの焼き芋を口いっぱいに頬張り、こうちゃんが言った。「よっこ」というのは母の名、洋子をこうちゃんが呼びやすく付けた呼び名で、こうちゃんを身ごもった十七歳の私に放った母の第一声「絶対におばぁちゃんなんて呼ばせないからね」から由来している。

「よっこちゃんはねぇ、しばらく病院にお泊りなんだってさ」

しばらくって、どれくらい?自分で言いながら頭の中で自分が質問してくる。

「もう帰ってこられないかもしれないんだって」

そんな事、こうちゃんに言えるわけがないし、信じたくもないし、出来れば、今日の出来事は私が時たま見る変な夢の一つで、家に帰ったら洋子さんが食べきれない程の焼き芋を焼いてくれている。そんなのどうだろうか?だめかな?神様、やっぱり駄目かしら、

「ママ、泣いてるの?どっか痛いの?」

こうちゃんに言われて、泣いている自分に気付いた、痛いのは、心で、洋子さんは、母はきっと、もっと痛い。

「ううん、なんか、間違えた」

自分でもなんて言い訳をしていいのか分からなくて、「間違えた」なんて言ってしまった。「ママ!間違えて泣いてるの?変なの!」

ほんと、変なの、想像もしていなかった、変なの、母は年内持たないかもしれない。九月の終わりの秋の夕暮れ、厳しい現実が私にやってくる、今年の冬はこれまで生きてきた中で一番寒く試練になるであろう予感がした。

私の仕事の話しをしよう、母は本物のナースだが、私は偽物のナース、膝よりも短いピンク色のピチピチしたナース服を着て男性の股間の診療をするのが私の生業。そうです、いわゆる風俗嬢ってやつです。妊娠して、高校を中退して、こうちゃんを産んで、産んだは良いけど、人って生きて行くだけでこんなにもお金がかかるんだと、知った。ましてやこうちゃんが成人する為にこの先かかる費用をざっと計算したところ、気が遠くなる思いがした。と、同時に、頑張って高校まで入れてくれたのに中退した事、母に申し訳ない気持ちでいっぱいになった(母にその事で責められたりは一度もした事ないのだけれども)単純明快な私は、すぐさま、自分が今できる、一番効率がよくお金が稼げる仕事をしよう!と意を決して風俗業界に飛び込んでみた。

なまじっか男性経験も少なく、いわゆる「おぼこ」だった事も逆に幸だったのかもしれない。.あっという間に仕事にも慣れた。風俗のありがたい所は勤務時間が、朝の十時から夜の十二時までの間で選べるという所と、お給料が日払いだという事、母も看護婦という仕事柄、夜勤があったり、と勤務時間が安定していなかったから、母の仕事の時間に合わせて、私も勤務時間を選べて、こうちゃんを託児所に預けるという事をせずに済んだ。

おかげで託児所代は浮くし、母が見てくれているという安心感が、どれほど心強かったであろうか。でも今思うと、それも母の身体を蝕む病魔の原因になったのかもしれない、働かせすぎていたのかもしれない、甘えすぎていたのかもしれない、今となってはもう遅いけれども。

とにかくこうちゃんが生まれてから、母乳も止まらないうちに働き始めてしまったので、接客中、何度も何度もトイレで搾乳したりしながら働いた、(そうしないと接客中に噴水のように溢れ出てしまうからだ)十八歳という若さの甲斐もあって、私はそこそこ人気もでて、御客さんもついたのでお店にも重宝された。風俗歴六年だが、その間、お店を一度も移動していない。他の人の話しによると、それってこういう業界では結構珍しい事なんですと。さてとさてと、こんな日だって私は仕事に行かなければならない。

母が入院してからは、母の義理の妹、(父の実妹って事)の雅恵おばちゃんがやっているラーメン屋でこうちゃんを預かってもらっている。昼間は母の面会などに行くので最近はもっぱら夜のシフトに切り替えて働いているのだけれども、居なくなってしまった父の妹と仲良しだなんて、ちょっと変わってるでしょ?

実はもともとは雅恵おばちゃんと母が学校の同級生で大の仲良しだったんですと、そして、父と知り合い・・付き合い・・結婚して、私が生まれた。

だから雅恵おばちゃんが恋のキューピッドだったってわけなんだけど、父は居なくなってしまった。母は理由をしっているのだろうけれども、雅恵おばちゃんも実のところ詳しい話しは聞いていないんだと。

「すごく優しい兄ちゃんだったんだけどねぇ・・」

ラーメン「まさえ」名物の旨煮ラーメンを作りながらおばちゃんは言った。

「洋子も優しいからねぇ」

旨煮ラーメンを私とこうちゃんの前に起き、銀色の薄っぺらい灰皿に細いタバコの先っちょをチョンチョンとしながら、微笑んだ。

「どうだ!こうちゃん!美味しいか?」

こうちゃんの頭をグリグリと嬉しそうにおばちゃんが撫でると、鼻水を垂らしたこうちゃんが満面の笑顔で「うん!美味しい!」と答えた。雅恵おばさんは色が白くて少しだけふくよかだが、綺麗な人だ。昔一度結婚して五年足らずで離婚した。

「五年も子供産めなかったら用無しだって昔は言われたよ」

「良い人だったからさ、板ばさみにするの、余計に苦しくってね」

旦那さんのご家族はいわゆる良い家柄の人で、「跡継ぎは絶対産んでもらいます!」って感じだったそうだ、雅恵おばちゃんも、もちろんそのつもりだった、元気な男の子を産んで、喜んでもらいたいって、そう思って嫁いだ、だけど神様は気まぐれで、本当に赤ちゃんを望んでいる雅恵おばちゃんにコウノ鳥をよこすことは無かった。

「なんかね、お互いに原因があったみたいでね、二人だけだったら、それでも全然良かったんだけど・・」

検査の結果、自然に精子が着床するのは無理だと判明し、人工授精を心みたが、それも幾度となく失敗に終わった。

旦那さんのご家族からは「石女」なんて陰口を叩かれ、ある日、離婚を息子に勧める義母の話しをふいに立ち聞きしてしまったそうだ。

「もう待てない、あんな女とはさっさと離婚して、孫の顔を見せて頂戴!」

低い声で息子にそう言う母の言葉に、旦那さんは無言だった。その時雅恵おばさんは、「私といてもこの人は幸せになれない、ううん、二人とも、幸せになれない」そう思って、家を出た。

「大好きだったからね、結婚なんてしなかったら、今でもきっと幸せにいれてたかもね」向こうの家からは少しだけ慰謝料みたいなのを頂いたそうだ、そして小さなラーメン屋さんを開いた。雅恵おばさんは今も一人で暮らしている。

「だからさ、ひまりやこうちゃんが来てくれると嬉しいんだよ、」

そう言ってくれる雅恵おばちゃんの存在は本当に暖かくてありがたい。

「洋子の具合は?どうなの?退院いつくらいにできそうなの?」

雅恵おばちゃんには、まだ本当の事を話していない、なんだか、誰かに言ったら、本当だって認めてしまう事になりそうだから、だって、嘘であって欲しいんだもの。

「うん・・まだ、ちょっとかかりそう」

私が口を濁した事を察してなのか、雅恵おばちゃんはワントーン明るい声で元気付けてくれた。

「そっかそっか!まぁ、うちはみての通り暇だし、こうちゃんはいつだって預かれるし、ひまりはなんも気にせず仕事行っておいで!」

「うん!行っておいで!」

雅恵おばちゃんにもらったオーレンジャーの塗り絵に色を付けながらこうちゃんまで私を心良く送りだしてくれた。今更だけれども、洋子さんと雅恵おばちゃんのお陰でこうちゃんは母子家庭ならではの寂しさへの不満を口にも身体にも出した事が無い、風邪をひいた時だって洋子さんの看護婦ならではの献身的かつ的確な看病を施してもらえていたし、お腹がすいたら、雅恵おばちゃんの美味しいラーメンを御馳走になれた、あ、そっか、それはこうちゃんだけじゃなくて、私もだ。

お父さんがいなくて寂しいと思った事はほとんど無かった。

ただ、母が夜中、偶にだけども、父の名を寝言で発したりすると、胸が痛んだ。

だけどやっぱり、雅恵おばちゃんや洋子さんの愛情を沢山沢山受けて育ったから、私は自分を好きになれたんだと思う。そしてこうちゃんを産めたんだと思う。

十七歳の春の事だった、私は一生懸命勉強をして、県でも一番、二番と言われている公立高校に入学できた。そして、十六歳の時、彼と知り合った。

こうちゃんの生物学上の父親。「佐藤くん」フルネームは佐藤・・七雄と言う。ちょっと女の子みたいな名前だけれども、れっきとした男の子

。彼はその高校の中でも断トツで頭が良く、家柄も家族全員お医者さんみたいな、すごい、サラブレッドみたいな感じだったんだけど、私みたいな落ちこぼれ牝馬と恋に落ちてしまった。十六歳で恋に落ちてしまった二人はそれは、もう、もう種馬のようにやりまくった。卑猥な表現なんだけれども、ほんとにそうだったんだもん。

好きな人の体温を感じられるのが嬉しかった(大人になってから聞くと男の子の十代の時の性欲ってまた意味が違うらしいけど)私達は会う度にも求め合い、抱き合い、交わり合った。結果、こうちゃんを身ごもった。そりゃそうだ、なんにもしないで受胎しちゃったら聖母マリア様だもんね。って、いやいや、避妊もしていましたよ、一応、でも、気分が高揚して、その気になって、さていざ!って時にアレがないなんてこともあったわけで・・そうなるとさ、あれあれ、中に出ちゃったかも?まぁしょうがないっか!きっと大丈夫でしょって日が、何回かあったわけで・・はい・・認めます。妊娠に対する認識が甘かった事。認めます、そうそう、そんなこんなでいきなりの吐き気、と具合の悪さ、そして不順だったから遅れても気にも留めていなかった生理の存在・・。お・・遅れている!二週間も!急いで買った検査薬、判定はばっちり陽性。

「・・・・どうする?」

彼が私に聞いた時に、不思議と迷いは無かった。

「産みたい・・私、この子産みたい!」

今でも運命だったんだと思っている、こうちゃんと私の運命の出会い、って自分で身ごもっておいてあれですけど、とにかく妊娠が発覚したその瞬間から私の中で強い母性が芽生えた事は間違いではない。

そして、人生に逆境はつきものだ。それも、間違いではない。前述したように彼はいわゆる「サラブレッド」で、未成年だった、だけど優しい人だったので私の産みたいという希望を否定する事はしなかった。そうなると、ネックは「親」になってくる。彼のご両親(こんな事言いたくも無いけど未だにあのご両親から彼のような優しい子供が生まれたのかはナスカの地上絵よりも謎めいている)は本当に厳しいお方達だった。だって、会って挨拶して、向こうのお母様の第一声が

「ひまりさん・・とおっしゃったかしら?お金ならいくらでもだしますから堕胎していただかないと困ります、七雄さんには将来がありますし、私共の家の事はご存じでらっしゃいますよねぇ?」

有無を言わさぬ産ませない口撃に、一発目の反撃を食らわしてくれたのは、洋子さんだった。

「ひまりは産むといっておりますし、七雄君にも迷惑かけないつもりです。」

いやいや、構図が実は逆、「家の娘をキズものにしやがって」じゃなくて、「うちの息子を誘惑しやがって」。あきらかにそんな空気が漂う中、洋子さんは毅然とした態度でお話を続けた。

「正直、若い二人の事ですし、このまま二人が一緒になって幸せになるとは思っておりません、七雄君にだってご両親からのプレッシャーもありますでしょうし、」

チラリと洋子さんが七雄くんに目をやるとニッコリと七雄君は屈託のない笑顔で微笑んだ。あぁ、私は七雄くんのそういう所が好きなんだなと、変な所で実感してしまった。

彼は天然で優しいのだ、だけど、彼の母親からの容赦の無い口撃は止まなかった。

「七雄さんがキズものになるのは困るんです!キャリア的にも、これからこの子は大学に行って、教授になるんです!お金ならいくらでも出すといっているでしょう?病院だって一流の所を紹介します!だからとっとと堕胎してちょうだい!」

ドン!っと。机を叩く大きな音が鳴り響いた。

話し合いは先方の意向で某高級のラウンジで行われたのだが、音が鳴った瞬間、ラウンジにいたお客さん全員がつつましく綺麗なお着物をお召しになっているにもかかわらず大きな声で怒鳴り机を叩いた七雄ママを一斉に見た。洋子さんはその空気を一掃するように言い放った。

「もう結構です、この子は私とひまりが育てます。七雄君に一切の責任は取らせませんし、なんのご報告もしません、それでよろしいですよね?それでは、失礼いたします」

洋子さんは私の手をとると、一礼してスタスタと歩きだした。

「ちょっと・・お母さん・・」

ラウンジを出た洋子さんの目にはいっぱいの涙が溜まっていて、今にもこぼれおちそうだった。

「なんで、あんな、事・・」

洋子さんは私を一度も責めなかった、「妊娠した」と洋子さんに告げた時、驚きながら洋子さんはこう言ってくれた

「産むの?」

私は静かに頷き、そして、あのセリフが発せられた。

「絶対におばぁちゃんなんて呼ばせないからね」

私は高校を中退し、妊娠八か月になるまで、近くのスーパーでアルバイトをしながら出産費用を貯めた。最初、七雄くんは自分も学校をやめて働くといってくれたが、強制的に留学させられてしまった。誰にも知らされず、行き先も教えてもらえず、まるで七雄くんは最初からいなかったかのように姿を消してしまった。私と七雄君はそれから一度も連絡をとっていない。こうちゃんが生まれた時、

「やめておきなさい!」という洋子さんの忠告も聞かず、七雄君の家に行った事がある。こうちゃんの顔をみたら、もしかしたらご両親も許してくれるかもしれない。そう思ったのだ。軽率だった。玄関先で私を見た七雄くんのお母さんは生まれたばかりのこうちゃんの顔を見てこう言った。

「あら?全然七雄さんに似てないわね」

、「あの子・・大学も向こうに行く事になっていますし、日本には帰ってきませんわよ、だからいくらここにこようと全くの無駄足」

冷たく言い放った七雄君のお母さんは見事な帯締めにそっと手をあてて、電動でシャッターが横に閉まる玄関に、しゃなりしゃなりと入って行った。その帰り道、泣きながら雅恵おばさんのラーメン屋に行き、アツアツの旨煮ラーメンをハフハフ、ズルズルと大粒の涙をこぼしながら食べた。

雅恵おばさんにあやされながら無邪気に笑うこうちゃんを見てまた涙が出た。

甘かったのだ、七雄くんに会いたい。そう思った私が甘かったのだ。旨煮ラーメンを飲み込むと同時に私も甘甘なスィーツ脳を封印しようと心に決めた。

選んだのは自分、今ここにいる全て、いまここにある全てを選んだのは自分。

そう何度も心の中で繰り返し、旨煮ラーメンを完食した。

七雄君の事は今でも大好きで、何度も夢に観る、七雄くんがなんか、有名なモデルさんと結婚しましたって記者会見をひらいている夢とか、私を見て、すっかり忘れてしまっている夢とか、大体は、悲しい夢ばかり。悲しい夢をみると数時間は夢と現実の間を交錯してしまう、こうちゃんが「ママ?大丈夫?」って言ってくれるまで、なかなか立ち直れない。そんな悲しい夢がいつか現実になってしまったらどうしようと、不安で涙が出てきてしまう。

人に言うと「うっそー!」って言われるけれども、実は私、七雄君としかを恋した事がない。そんなおぼこが風俗嬢だなんて、全くよくもまぁ思い切った決断だったなぁと我ながら感心してしまうけれども。

十六歳で七雄君に出逢うまで、おままごとみたいな「好き」とか「気になる」はあったけれども、七雄君に出逢った時、「私はこの人だ」と直感してしまった。七雄君もきっとそうだったのではないかと信じている。そしてこうちゃんを身ごもった。私は未だに七雄くんの事が大好きで、恋愛と言ったら七雄くんの事しか考えられない。そんな七雄くん一筋を「おかしいんじゃないの?」と私に指南してくださるのは、同じお店に勤務している先輩風俗嬢の「カレン」さん。カレンさんは今年で二十七歳(お店のお客さんには二十二歳で通しているのだけれども)同じくシングルマザーだが私と事情がちと?いや大分異なる。カレンさんには三人のお子さんがいらっしゃるけれども、それぞれお父さんが違うのだ、そして今の旦那さん?同居人もお子さんのお父さんでは無い。

「ほんと今までの男はバカばっかでさぁ、でも今の旦那は違うよ、すごく優しいし、自分の子供じゃないのにちゃんと子供達の面倒も見てくれるしさ」

自分は働かず、ずっと家でゲームをしながら、カレンさんの帰りを子供達と待っていてくれているんだそうだ、カレンさんが四人目の子供を身ごもるのもきっとそう遠くはない日の話しだと私は予見している。

カレンさんはアネゴ肌で酔っぱらいだった、昔は水商売をやっていて、子供が増えて行くにつれて、風俗業に移行したらしい。

「お水やってるとさ、帰り飲んじゃうし、卓郎(今の旦那さん)に会うまでは二十四時間の託児所に預けてたんだけどさ、飲んじゃうと迎えに行けなくて泊まりにさせちゃってさ、そうすると、子供も可哀想だし、なんせ毎月の託児所代が半端じゃなくなっちゃってさ、アタシ客と寝ない主義だったし、最初は勇気いったけど、求人誌で探してさ、ここに来たってワケ、まぁ今も外で偶に飲むけど、付き合い程度?」

そう言いながら待機中ビールをスプライトのように飲むカレンさん。外では飲まなくなったけど、やっぱりお酒は必需品だという。カレンさんのお家はお金持ちだったけれどもお父さんが事業に失敗。小学三年生までお嬢様だったカレンさんの生活は一変。両親は離婚して、母親がカレンさんをひきとったのだけれども、母親に新しい恋人ができて、カレンさんは施設に預けられた。

その時、お父さんはカレンさんを引き取りたがったらしいけれども、借金取りに追われる日々の中、子供は育てられないだろうと、母親側が断固として接触を阻んだらしい。

「それでもお父さんと一緒がよかったな、」

と、カレンさんは遠い目をして言う。施設では早々と大人並の社会というのを学ばされた、それは大分偏ったものだったのだけれども。まず年上の命令は絶対で、

「アソコみせてみろよ」

と言われればみせなければならなかったし、

「泥団子食べろ」と言われれば食べた。そんな環境の中、カレンさんは必死に生きて、愛を求めた。そして、自分の子供を産んだ時に心に誓ったんだそうな、

「大切に育ててみせる」と。

しかし喉元過ぎればとはよく言ったものでカレンさんは最初の旦那さんとは旦那さんの浮気が原因で離婚。十八歳ではやくもバツ一。

「お父さんのいない可哀想な子供にしたくない!」とカレンさんは躍起になって、また、愛を求めた、しかし当時十八歳、ピチピチで可愛いカレンさんにはいくらでも狼は襲ってくる。最初は皆優しい、子供も可愛がってくれるし、美味しいご飯も食べに連れて行ってくれて、十八歳ですぐにお水を始めたカレンさんだし、男が寄ってこないわけがない。しかしカレンさんは「男を見る目」が節穴だった、少なくとも卓郎さんに出逢うまで、カレンさんの男選びはそれはそれは悲惨なもので、カレンさんは大変傷ついて、お酒を沢山飲むようになった。それでも、人に弱音をあまり見せず、働いてこれたのは子供達のお陰だと、カレンさんは優しい母親の顔を時折見せる。

「あんたもそうでしょ?」

カレンさんはそう言ってくれるのだけれども、私はきっとちょっと違う。洋子さんと雅恵おばさんに助けてもらっている。

七雄くんの事だって、辛いけど、お酒に溺れる程では無い。つまり私はラッキーで、愛に満ち溢れているのではないかと思う。(これって嫌な言い方?)

境遇だけだったら似たような私とカレンさんだが、なにかが根本的に違った。私自身、父親をあまりよく知らないせいか、こうちゃんに父親が必要という考え方はあまり無い。自分勝手な話しかもしれないけれども自分に七雄くんが必要だとは思っているけれども、無理にこうちゃんの為って思って、パートナーを探そうとは思わない。

そしてありがたい事に洋子さんや雅恵おばさんもそうだったから、それを自然だと思っていた。

そしてそして私のそんな偏った価値観は置いておくことにしよう。おっと、ととと、お客様がいらした。ご指名だ。

いつも指名してくれる「大田原さん」。は変わった人で、服をぬぐのを嫌がるし、脱がせようともしない、ただ、私とおしゃべりだけをしに月に二~三回やってくる。

「大田原さん」はまだ娘さんが小さい頃奥さんと離婚し、いままでずっと一人で生きてきたらしい、幼い娘の面影を胸に、あめの日も風の日も、冬にも夏の熱さにも負けず、このカンザスシティにやってきた(あれあれオズの魔法使いが混ざった)のである。

冗談はさておき、優しい目をしたゴリラのような大田原さんは、かれこれこの店に来てくれるようになって三年程になる。

一回目に来た時「今日でやっと二十年かかった借金を返し終わってね、この喜びを誰かに伝えたかったんだけれども、お酒もあまり飲めないし、なんとなく繁華街に近寄ったら呼び込みの人に声かけられてね、なんだかわからないまま入ってしまったのだけれども、もしも性的なサービスをするお店だとしたら、僕には何もしなくて良いから」と、にこやかに言ってくれた。「何にもしなくて良いから」と言って本当に何にもしなかったのは大田原さんが始めてだった。

大抵の男の人はなんにもしなくて良いから、と、紳士を一旦気どるが、十分後には胸やコカンに手が行っている。でも大田原さんは本当に違った。大田原さんは私の話しをよく聞いてくれて、私も大田原さんのお話をよく聞いた。

大田原さんの顔に浮かぶ初老の男性の持つ深いしわや薄くなった髪の毛からは、なんとなく、優しい「お父さん」という言葉が連想させられる。

私達は歳を越えた良き友人であった(もちろん良い御客様でもあった)「いきなり身体を求められたらどうしよう」と悩んだこともあった。(いやいや、そういうお店なのだから求められるのは当たり前の話なのだけれども)

なんだか、壊れるのが嫌だったのだ、大田原さんが「男」の部分をさらけだした途端に私はもうきっと大田原さんの事を「友人」ではなく「お客さん」として部類分けしてしまう。そう考えると最初の一年間は少し警戒していた。

そして何回か聞いた。

「本当になんもしなくて良いの?」

すると大田原さんはこう答えた。

「こんなに仲良くなれたのになんかしようなんて思えないし、僕はね、恥ずかしい話しだけどもうずっと前から性欲というものを失ってしまったんだよ、昔事業で儲かっていた時、それこそ色んな女の人といっぱい遊んだこともあった、だけど、全部失ってしまった時に、自分はなんて事をしていたんだろうと、悔いたよ、ゴルフに行ったり飲みに行ったりしていた時間を、どうしてもっと家族に費やさなかったんだろうって、どうしてもっと二人の事を大事にしてやれなかったんだろうって、そんな思いをずっと引きずって生きてきたんだ」

大田原さんはきっと本当に悔いて生きてきたんだと思う。ある種の苦行を終えた修行僧の持つ優しさや大きさを兼ね備えている人、そんな感じがした。それから二年経った今でも私達はとても良い話し相手になっている。話すのは他愛もない話しばかりだけれども、大田原さんが来ると安心した。こんな人もいるんだなぁって、安心した。

裸の職業だし、接客業だし、勿論お客さんは大田原さんのような人ばかりじゃない。ヘルスだと言うのに挿入したがる人もいるし、裸で六十分まるまるずっと棒立ちにさせられ眺められたり、痛い事もされたし、嫌な事も沢山経験した。(それはきっとどんな職業においても有りうることなんだと思うけれども)私はその度に涙を堪え、人にがっかりもしたけれども、そうじゃない人達に出逢う度に、喜んでもらえる充実感に満ち溢れ、やる気になった。すごくありがたいと思う。

そうそう、話し相手といえば最近また新しいお友達が出来たのだ、かれこれ遡る事一か月前、丁度、洋子さんが入院した日、その日私は予約の御客さまがいらしたのでお店を休む事が出来ず、茫然自失のまま出勤して、言い知れぬ不安で頭をグルグル回らせながら接客し、帰る頃には洋子さんを失うかもしれない不安がすべてを飲み込み、眩暈をおこし、繁華街の電柱の脇で、お酒も飲んでないのに嘔吐してしまった。

嘔吐した瞬間、堪えていた涙も一緒に流れ、それはそれは悲惨な状況になってしまった。その時、お日様の香りの柔軟剤の匂いがしたハンカチと、ミネラルウォーターをそっと差し出してくれたのが、「みっちゃん」。

新しい話し相手、新しいお友達。みっちゃんは裏通りにある、ゲイバーとオカマバーのミックスバー(私には何がちがうのかよくわからなかったんだけれども、ゲイとオカマは違うんですと)を経営している、オカマのママだった。

オカマと言うよりは「女装」が好きなんだと、後に話しをしてくれた。

「大丈夫?」

そう言って、涙目で嘔吐する私の背中を大きくてごつい手で優しく摩ってくれたみっちゃん。私は後日、汚してしまったハンカチを返しに、みっちゃんの経営するバーに出向いた。みっちゃんのバーはカウンターだけのこじんまりとしたお店で、なんだか昭和な匂いのする、やけにレトロで逆にそれがオシャレなお店だった。

私はそのお店とみっちゃんがすぐに好きになった、みっちゃんは美しい女装家で、私なんかよりもずっと綺麗で、ずっと自分を丁寧に扱っている感じがした。

そして、人に対しても、それはそれは丁寧に接してくれる人だった。

みっちゃんの歳をダイレクトに聞いた事はなかったけれども、みっちゃんのお店で働く「よしえ」さんというぽっちゃりとしたオカマさんいわく、

「私もみっちゃんもたけのこ族だったのよ~」

という話しから、大体私の親世代だろうという事を悟った、私はきっと自分の親世代の人が大好きなのかもしれないなぁと、それを聞いて妙に納得してしまった。

あ、七雄君のご両親も同世代だけども、あれはいかんとも好きにはなれない、うん、しょうがない。みっちゃんはなんとも言えない安心感を持たしてくれる人だった、ハンカチを返しにお店に始めて伺った時、早々と退散しようとする私を、

「ちょっと、お茶くらいのんで行きなさいよ、見ての通り今暇だし、退屈していたの、貴女さえ良かったら、ね?」と言ってひきとめて、素敵なティーセットで美味しいお紅茶を淹れて下さった。

「泣きたい時はここに来て泣きなさい。あんな所で泣いてたら、変な奴が寄ってきちゃうわよ、ね?」

ね?がみっちゃんの口癖なんだなという事はこの時点でなんとなーくわかった。

本当にみっちゃんは綺麗な人だった、髭は永久脱毛したらしくて顔なんかつるつるしていたし、背は高くてほっそりしていて、外国のスーパーモデルのようなスタイルの良さで、細いタバコをくゆらせるのが妙に似合っていた。

みっちゃんはもう長い事一人で生きているんだと言っていた。

まだ女装している殿方がもっともっとマイノリティだった時代、みっちゃんは一度結婚をしていたものの、女装癖が邪魔をして独り身になってしまったそうだ、詳しい経緯は聞いていないけど、みっちゃんの話しの節々でなんとなくわかった。

みっちゃんは変わっていて「男の人が好き」ではなく「男である自分がすきではない」んだとさ。「よしえ」さんの話によると、みっちゃんにはずっとずっと何十年も思っている人がいて、今でもその人に逢えるのを待ち望んでいるそうだ。

一緒だ。と、思った、年月の深さから言って一緒なんかにしては失礼かもしれないけれども、一緒だ、と思った。

私も七雄くんをずっと想っている。みっちゃんも、ずっとずっと想っている人がいる。私は勝手に「わかるわかる」とみっちゃんを同志のように思った。私の源氏名は「ミライ」ちゃんと言うので、みっちゃんは私を「ミライチ」と呼んだ。

ついつい、外で人に名前を聞かれると反射的に源氏名で答えてしまう事が多い、こういう時、いつ本名を明かそうかな、とタイミングに悩む、なんだか嘘をついていたみたいだし、今更呼び名を本名に変えてもらうのも、きっともう「ミライチ」の方が呼び慣れているだろうし、少し気がひける。

だけど、ふと、やっぱりみっちゃんには私の本当の名前を知っておいてもらいたい、そう思って真実をつげてみた。なんて事ない、みっちゃんは一瞬きょとんとして、

「素敵な名前ね」

と言って、その後は私を「ひまり」と呼ぶようになった。なんだかすっきりした。私は告げるべき事を告げられたような充実感と、嘘をついていたような罪悪感から解放された喜びでいっぱいになった。

洋子さんの容体は日々、悪くなっていった。大体のシフトを遅番にして、朝、こうちゃんを送り出して、病院に寄り、洋子さんや他の看護婦さんから必要なものを聞きだしたり洗濯物を持ちかえったりして、お昼間は家の用事を済まし、こうちゃんが学校から帰ってきたら、また病院に行って、その帰り道に雅恵おばさんにこうちゃんを預けて仕事に行った。お客さんが少なくて早く終わった日は少しだけみっちゃんのお店に紅茶を飲みに行ったりした。

最近は不景気なので、平日の夜なんかは、お客さんが私だけなんて時間帯も珍しくなかった、ちょうど十二時を回って私が帰る頃に、キャバクラから女の子を連れたお客さんなんかがちらりちらりとやってきて、

「やっだー!本当に男?めっちゃ綺麗なんですけどー!」とほろ酔いのキャバ嬢がキャーキャー騒いでいる間に小声で「またね」とみっちゃんと私は秘密の合図みたいなのを交わした。

「やっだーいらっしゃーい!」

私と話す時とちがって三オクターブくらい高い声で接客するみっちゃんの声を後にして私をこうちゃんを迎えに向かう。そんな日々が続いた。風が冷たくなってきて、夜も深くなっていっていた。

大概こうちゃんは迎えにいくと、もう夢の中にいて、雅恵おばさんは明日の仕込みと片付けをしていた。本当はもっと一緒にこうちゃんと居てあげるべきなのかもしれない、すやすやと眠るこうちゃんを見るといつもそう思う、だけど私のサイクルはそんな風に回っていて、仕事をしたり、帰り道にニ駅分歩いたり、そういう時間はとても必要だった、子供の頃から一人が多かったせいか、一人で行動するのが好きだった、でもそれは、雅恵おばさんや洋子さんがいるという安心感があっての「好き」で、今私が一人になる時間には、これからやってくる恐怖への対峙。

それに対する心の準備、そんなものを用意しようとしている気がしてならない。

もうすぐ洋子さんは居なくなってしまうかもしれない、そんな恐怖が夜を重ねる毎に強く、確実になってくるのがわかる。

そして、私がまだそれを受け入れられるほど強く無い事も、痛いほど分かっている。

こうちゃんを身ごもり、今に至るまでの約七年間、辛い事も悲しい事も時にはあったけれども、全部乗り越えてきた、そして私は幸せだと、思える事も多かった、胸がつぶれそうに辛い夜、それは突然やってきた。

「泣きっ面に蜂」だなんて昔の人はよく言ったものだ、本当に感心してしまう。

私は例によってその日落ち込んでいた、スーパーの前を通ると甘い焼き芋の匂いが涙を誘った、

「元気になったら温泉に行こう」

と洋子さんと話をした後、主治医の先生に呼ばれ、大腸に転移した癌が広がっている経過を聞いた。

小学校の先生から電話がかかってきて、こうちゃんが同級生の男の子に噛みついたと聞かされ、迎えにいったが、「どうしてそんな事したの?」という問いに結局答えてもらえないまま仕事に行かなければいけない時間になってしまい、しかたなく仕事に向かった、ぎりぎりまでこうちゃんと話をしようとしていたから、いつもは歩く距離を電車に乗った、

「ひまり?」

聞いた事のある甲高い声、同じ高校に通っていた「天源寺里美」が同じ車両に乗っていて、声をかけてきたのだ。

「やっだ、めっちゃ久しぶり?元気?」

里美は綺麗目でガーリーな洋服を着て付けまつ毛で目元をバチバチとさせて近寄ってきた。正直、苦手な部類の人だった、と、いうか、私は妊娠して学校をやめる時、特にだれにもなにも言わないでやめたわけだし、憶測やうわさの格好の餌食になっている事はわかっていたし、(私が学校をやめてすぐに七雄くんは留学した、私達は学校公認のカップルだったわけだから、まぁしょうがないっちゃぁしょうがない)

「さ、里美・・めっちゃひさしぶり!里美こそ、元気?」

里美と私の格好には雲泥の差があった。

片や最先端の若者女の子、片や生活に疲れて働く主婦(いや、たまたま今日そういうふうになってしまっただけで、オシャレだってたまにするんだけど、なかなかどうしてタイミングが悪かった)

「こないだ同窓会やったんだよ!ひまりも呼びたかったんだけど、住所変わっちゃったでしょ?連絡先わからなくて・・・」

そう、私と洋子さんは七年前、こうちゃんが生まれるので同じ街のちがう所に引っ越して、私は誰にも連絡先を教えなかった。なぜかって?教える必要がないと思ったからである。特に仲が良かったわけでも悪かったわけでもなかったけれども、進学校だったし、実質一年半くらいしかいなかったので、特になにも知らせずに高校時代を通りすぎようとした。妊娠した事は、なんとなく噂になっていたみたいだけども。

「七雄くんも久しぶりに来たんだよ?ひまり・・会わなかったの?」

え?え?え?え?え?え?

「え?!な・七雄くんが?来たって、日本に帰って来たの?」

里美は私の何も知らない様子に優越感を覚えたらしく、ゆっくりと口角をあげて話しだした

「なんかぁ、おとうさんの具合が悪くて?一時帰国?してたみたいで、丁度連絡ついてさ、少しだけど、顔だしてくれて、親が結婚しろ結婚しろってうるさいって言ってたよ」

私の頭の中は言うまでもなく真っ白になった、もう髪の毛だって真っ白になっているんじゃないかって思っちゃうくらい、それくらいショックで言葉がでない。

「結婚って・・相手がいるって事?」

里美は頬に手をあて首をかしげる。

「さぁー?ちゃんと聞かなかったんだけど・・七雄くんカッコいいし、向こうで彼女くらいはいるんじゃない?ひまりも幸せにやってるんでしょ?旦那さん何やってる人なの?」旦那さん?え?え?え?

「旦那さん・・て、結婚してないよ、私」

里美は私が謙遜しているのだと勘違いをしてまたまた~、と言ってきたが、すぐに自分の情報が間違いだという事を悟った。

「え?でもさ、子供生まれたって聞いたけど、旦那さん年上で、とか、聞いたけど?」

驚いた。人の噂って本当に当てにならない、一体どこからどうなって私に年上の旦那さんが居る事になったのだろうか。

「いやいやいや、旦那さんとかいないし、」

いやいやいや、里美がこんな事を言うって事は?七雄くんもそう思っているって事?嘘でしょ?そんなのって、あり?ガタン、一つ目の停車駅に着いた。

「あ、降りなきゃ、んじゃ、またね、ひまり!」

大きく手を振って急いで降りた里美に、電話番号を伝える余裕も教えてもらう余裕も無かった。動きだした電車の窓が流れていく街を流して映す。私と七雄くん、そしてこうちゃん。何故今まで何の疑いも無く、「家族」だと思えていたんだろうか、

「七雄くんが忘れるはずない」、そう信じて生きてきた、いつかきっとまた逢えると、そう信じて。浅はか極まりない、急に穴を掘って入ってトタンで蓋をして、その上に薄い砂をひいて通り行く人の足音を聞きたいくらいの恥ずかしさに見舞われた。なんてことだろう、あぁなんて事だろう。誰かと七雄くんが別で家族を作る、それは私が本当に望んでいない事、それどころか、悪夢として観てしまう程恐れている事だったのだ。それが現実になりかねない危機、厄年でもないのだけれども、どうしても失いたくないものが、私の掌からスルリと抜けて行ってしまうような感じがした、無理やりに抱かれていたプレーリードッグみたいに、スルリと抜けて、追いつけない早さで私を置き去りにしていってしまう、そんな感じがした。

「待って、お願いだから、置いていかないで」

七雄くんにも洋子さんにも、そう伝えたい、本当は。だけど私は言葉と感情を飲み込み、仕事場へと向かった。そしてそして、無情にもこの日の泣きっ面に蜂はまだまだ続いた、二人目についたお客様、「山田さん」まぁ、明らかに偽名。指名してくだっさたんだけれども、記憶の糸をおいしょおいしょと手繰り寄せたがどうにも今までに接客した記憶がなかった、だけども見覚えはあった、うーん。こう言う時って下手な事言えないんだな、これがまた。「おひさしぶりー」なんて言って、実は初対面で指名だけしてみた。なんてケースもあるわけだし、そうすると、「お久しぶり」が社交辞令丸出しになってしまうというわけですから、ここはひとつ、慎重に相手の素性をやんわりと探りつつ、そそうの無いようにしなければならない。

「だいぶ寒くなってきましたね~」これ、万能な挨拶。「元気でしたか?」は確実に知っていないと出来ないし、天気の話題は万人に通ずる。 「山田さん」(まちがいなく偽名)は私の問いなんかそっちのけでニヤニヤと嫌な笑い方をしながらこう言ってきた。

「幸太郎君のお母さんでしょ?」

血の気が一瞬ひいたが、すぐに笑顔で返した「え?」口がひきつってきっと痙攣していたんじゃないかと思う。

「しらばっくれないでよ、俺同じくクラスの秋山里奈のお父さん」

ほらみろ山田じゃないじゃないか、「山田さん」結局秋山さんは四十歳くらいの良い大人なのに二十代の男子みたいにびっくりするくらいのデリカシーの無い事をしてきたのだ。

「インターネットで風俗サイト観てたらさ、なんか目隠されてるけど似てる人だなぁと思って、んで来てみたら本人だったわけ、授業参観時から可愛いなぁって目つけてたんだよね、だから今めっちゃ感激」

とりあえず今持っているローションで頭ぶん殴ってやりたい衝動にかられたんだけれども、お客様だし、さすがにそれはできないし、さてと、どうするべきなのか、ここで帰しても認めた事になるし、うーん、とりあえずしらばっくれて接客してっさっさと帰ってもらうしかない!

「えー?人違いですよ~」(と、言いながらワント―ン声を高くして照明を暗くしてみる)「似てる人がいるんですかねぇ?」(そしてなんの抵抗もない感じでとっととプレイをして帰す、性欲さえおさまれば、きっと忘れてくれるはず・・)ってな感じでとりあえず性欲は処理してみたんだけれども、「山田さん」えぇぇい、もうしつこい、里奈ちゃんパパは全然諦めても、間違いだとも思ってくれなかった、

「ミライちゃんて呼んだ方が良いのかなぁ?それとも本名で呼んで良い?」

こんなこと本当は言ってはいけないんだけれども、このデリカシー無さ男の遺伝子を持って生れてしまった里奈ちゃんに心から同情する。

「本名なんですよ、ミライって言うんです」ニコニコしながら私は答えた、ベッドに横たわり里奈ちゃんパパが、

「またまた~、じゃぁ学校で今度会った時ミライちゃんて呼んじゃおうかな?」なんて笑えない冗談で私をからかった、

「ハハハ・・だから・・人違・・」

カシャッ。ブラのホックを止める為に後ろ斜め四十五度を向いて、ナースキャップをかぶっている状態で、フラッシュが光った、「え?」一瞬なんの事かわからなくて戸惑ったけれども、里奈ちゃんパパの手には、簡易型ポラロイドカメラ、そして今撮ったばかりでぼんやりと浮かび上がってきている半裸の私の写真。

「ちょ・・なにしてるんですか?」

「大丈夫大丈夫、本当に、オナニー用ってか、どこにも流失とかさせないから、安心して、」全然そういう問題じゃない!

「いやいや、うち撮影とか禁止なんですけど、」「

まぁ良いじゃんよぉ、また指名するからさ、外で会ってもちゃんと口外しないし、信用してよ、」

言葉に詰まった、人間って二つの問題を一度に対処できる能力を持ち合わせている人ってそんなにいない、いや、私がテンパってしまっているだけなのか、とにかく、なんて言って良いのかわからなかった、

「気持ち良かったよ、んじゃまたね」

里奈ちゃんパパは立ちすくむ私に、笑顔でそう言ってきた。

「こちらこそ、お忙しいなかありがとうございました」そう言うのが精いっぱいで、顔はきっと真顔になってしまっていたと思う、いや、血の気が引いていたとおもう、いや、むしろ阿修羅像みたいになっていたかもしれないな、なんて、ハハハ。

私はすぐさま店長にコールして、

「ちょっと色々無理なので帰らせてください」

と、泣きながら懇願した。

「おうおう、ちょうど今日はもう暇だからとっとと帰りやがれ」

ぶっきらぼうなので他の女の子に結構嫌われているが私は店長のこういう所、好きだった。

意識とは無関係に震える手と足に気付いた時、自分が今、どんな状態なのかがわかった

脅えている のだ、それも、すごく。私は女の子はみんな接客中でひきはらって誰もいない控室のコタツの上に置いてあったカレンさんのタバコに火をつけ、吸ってみた。

なんてことない、普段吸わないんだからむせるの当たり前。ゴホゴホとせき込み、余計に頭がクラクラしてその場に寝転がってしまった、七雄君の事、里奈ちゃんパパの事、洋子さんの事。どうしたらいいのか、全然見当がつかない、私の思考回路は通行止めになってしまい、頭の中の道路整備の人達は一生懸命働いてくれている、でも、駄目、本当にどうしたらいいのかわからない。こんな時、泣いたらおちつく問題と、泣いてもなんの進展もない問題、二つにわかれる、今の私は後者だ、なので歯を食いしばり、ほっぺを三回はたいて立ち上がり、みっちゃんの所へ行く事にした。泣いてもどうにもならないのに一人でいると泣いてしまう。そんな非生産的な行動をやめる為にも、とりあえず動いてみる事にした。こうちゃんや雅恵おばさんの顔を見たら、涙腺ダムが決壊してしまいそうだったから。

「いらっしゃい~、あら?こんな時間に珍しい!今みっちゃんお通しの材料買いに行っていないのよ~、すぐ帰ってくるから、そこ、すわってて、何飲む?」

よしえさんは私の雰囲気をなんとなく察してくれて、気を使ってくれた。暖かいおしぼりをくださったので私はおしぼりを目の上に乗せてみた。

「気持ち良いね、暖かい」

「蒸気でなんとかってやつみたいよね、」

暖かいおしぼりで凝り固まっていた私の眼の奥の涙が溶け出してしまったようで、非生産的な涙がどっと流れだしてきた。よしえさんは涙を見られない様に必死で上を向く私の様子に気付いてくれて、厨房でなにかを作るフリをしていた。カウンターの椅子がひっくり返っちゃうんじゃないってくらい上を向いて、涙がこぼれおちるのを防いでみたけれども、そんな必死のあがきが通用しないほど溶け出した涙の量は多かった。レディボーゲンの大カップのアイスが溶け出したのよりもきっと大容量の涙。

「ただいまぁ・・もうすっかり冬の風ねぇ・・って?ひまり?なにやってんのあなた?」

カウンター席で思いっきり上を向いて涙の川をせき止める私を見て買い物から帰って来たみっちゃんは驚いていた。

「やだぁ・・なに?なにがあったのよ、ちょっ・・ちょっと待ってなさい、今これだけ、用意してきちゃうから、ちょっと!よしえ!手かして!」

みっちゃんは袋いっぱいに入ったジャガイモをよしえさんに手渡した。

「お通しにさ、マッシュポテト作るんだけど、ひまりも食べる?」

みっちゃんは筋がどことなく男の人っぽい腕をまくりながら言った。私は声をだすと泣きだして顔がくしゃくしゃになってしまいそうだったので、上を向きながらうんうんと頷いた。

「おっけ、んじゃちょっと待ってなさい、すぐジャガイモ煮ちゃうから」

コトコトと大きなお鍋から湯気が出ていた、その前に椅子を置き、よしえさんは狭い厨房にて一人で本を読んでいる。どうやら気を使ってくれているみたいだ。

「じゃがいも、もうしばらく煮てるから、何があったか話す?」

話したいのはやまやまで、そのつもりできた筈なのに、私の口にはまだ言葉を発せられる余裕がない、どうやらみっちゃんのお店に来たという所で安心してしまったようだ。口から言葉を発したと同時に、色んなものがこみ上げて来てしまいそうで、なかなか、声がだせない。

「どうせまだお客さんこないし、ゆっくりで良いわよ、」

そしてジャガイモは良い感じに煮えて、みっちゃんはボウルに沢山のじゃがいもと塩コショウと生クリームを和えてマッシュポテトを出してくれた。

ホカホカで出来たてのマッシュポテトを食べたのは初めてで、こんなに美味しくなるんだ!と感激してしまった、そして同時に、胃袋が暖かくなり、「美味しい」と言葉に出せた。

「お口に合って良かった」

そういってみっちゃんは微笑んだ、美味しいを皮切りに私は、とりあえず、今日あった出来事を順番に話し始める事ができた。グラスを拭いたりおしぼりを畳んだりしながら、みっちゃんは私の話しを一通り聞いてくれた。里奈ちゃんパパの話しをしている時、みっちゃんの顔にもムカツキがあふれでてくるのがわかった。

「最低な下衆野郎ね」

「いるのよね、そういうヤツ!店にもこの間すっごい酔っぱらいな下衆野郎が来てさ、おっぱいさわらせろっていうから、「贅肉だけど良いかしら?」って言ったのよね、そしたら唾はいてきたのよ、いきなり、ペって!ほんとビックリして「なにすんのよ」って怒ったら「うるせー!このばけもん!」なんてまくしたてちゃってさ!帰ってもらって塩まいてやったわ!ほんと、あったまくる!」厨房にいたよしえさんの耳はどんどんカウンターに近づいてきてとうとう、自分の体験談も飛び出した、と、いう事で今後の対策はよしえさんも含め三人で練ることにした。

まず、洋子さんの事だが、これはもう対策とか云々じゃないので、除外、そしてこうちゃんの事、昔、男の子だった二人いわく、小学生くらいにもなると、母親に言えない「男の世界」っていうのも出てくるらしい、それは、負けん気だったりヤキモチだったり、色々と。なのでまぁ、今回は初犯というわけで、「あまり責めたりはしていけない、無理に理由を聞かない」という結果に達した。そして七雄くんの事、これもまぁ、除外・・だって恋愛の問題は当事者にしか解決できないから。で意見が一致した、となると・・・問題はやっぱり里奈ちゃんパパの件になる。そしてさっき思いだしたのだけれども、明後日の土曜日、なんと、とってつけたように父兄参観ではないか。

「アタシ、一緒に行く」

そう言ってくれたのはみっちゃんだった。

「え!でも、悪いよ、そんなの、」

「大丈夫よ、どうせ休みだし、男が傍に居たらなにも言ってこれないでしょ?いくらバカでも」

「そうよ!ひまりちゃん、行ってもらいなさいよ、みっちゃん男の格好する所なんてめったにみれないわよ!」

よしえさんまでそんな風に言ってくれるものだから、結局明後日、みっちゃんと私は二人でこうちゃんの父兄参観に行く事になった。

こうちゃんの参観日に仮にも異性のだれかと一緒に出向くなんて、なんだか予想外の事でワクワクしたし、相手がみっちゃんだと言う事も、このワクワクに一役買っていた。

「泣いたカラスが・・ってやつね」

いつの間にか私達は笑顔で話しをしていた、みっちゃんはどんな服を着て行くだの、髪型をどうするのだの、私はすっかり元気を取り戻していた。泣きっ面に蜂だの、泣いたカラスがもう笑っただの、本当に昔の人はよく言ったもんだ。さっきまで絶望の淵にいて、命綱の切れちゃって、グラグラと揺れる岩場に足をとられている。そんな状態だったのに、私はもう笑っている。辛い自分を癒してくれるもの、それはきっと「時間なのだろうけれども、「大事な友達」の存在は辛さを薄くしてくれる時間を助長させてくれる。そんな気がした。

あっと言う間に日曜日はやってきた。父兄参観はいつもの授業参観と違って、普段そんなに観ることのない我が子の雄姿を見ようと、ビデオカメラやデジカメを持った夫婦が多い、私はなった事がないからアレだけど、きっと夫婦ってのも良いもんなんだろうな、なんて仲睦まじく授業の様子を見ている他のお父さんお母さん方を見ながら思ったりする。

結局こうちゃんには、あの日クラスメイトに噛みついた理由は聞けなかったが、先程当の噛みつかれた本人とその親御さんにお会いしたのでとりあえず謝ってみた。でもよっぽどの理由が無ければこうちゃんは人に噛みついたりしない(なんか犬みたいな言い方になってしまったけれども)きっと、こうちゃんも謝ってなんかほしくなかったのだろうけど、一応大人な対応をしてみたのだ。二時間目の途中くらいから、みっちゃんは来てくれた、

「昨日なかなか帰らない客が居たからさ、寝坊しちゃった」

みっちゃんはベージュのチノパンに同系色のチェックのシャツを来て、とってもオシャレな五十代という出で立ちで登場した、背も高くて顔もカッコ良いから結構目立った。

男性達は嫉妬と好奇の目でじっとりと見つめ、女性陣は羨望の眼差しでみっちゃんに見とれた。かくいう私も見とれてしまった。こんなに素敵なおじ様が女装家だなんてきっと誰も想像できない。島耕作もびっくりのロマンスグレーっぷりだった。

「次ね、図工の授業なの!」

二時間目が終わって十分間の休み時間の間、こうちゃんは私に駆け寄り抱きついてきた。父兄参観自体は三時間目までで、四時間目は懇談会だというわけで、図工の授業が終わったら御暇させていただき、みっちゃんとこうちゃんと三人でご飯を食べにいこうという事になった。どうも懇談会は苦手なのである。こうちゃんを産んだ時の年齢が若かったので、こうちゃん繋がりのママ友は皆無だった。洋子さんも「子供がいるって共通点だけでそんなに仲良くなれるわけないじゃない」なんていってしまう人だった事も影響していると思う。でも出来れば参加するべきだという事もわかってはいるのだけれども、どうも馴染めない、まぁこればっかりはしょうがない。なので、こうちゃんのクラスメイトのお父さんお母さんの顔も名前もうる覚えだった。でも、奴の事はしっかりと覚えている。図工の授業中にヨレヨレの何年前のだって感じのサーフトレーナーに、お前いくつだっての?って聞きたくなるような白髪混じりの自分で染めました的な茶髪でハーフパンツ腰履きで、里奈ちゃんパパはやってきた。

先に来ていた里奈ちゃんママに「遅いじゃないのよ!」なんて小言を言われながら、上目使いでニヤニヤしながらこちらをみてアイコンタクトらしきものを送ってくる。

「あいつでしょ、もしかして、」

みっちゃんが耳元で言った。

「うん、あいつ。」

「よしえに唾かけたやつに似てる」

「え?おととい言ってた?」

「うん、多分そう、」

ギョッとした。まさかそんな所で繋がるなんて、憎まれっ子世に憚るって・・そういう意味じゃないか。

「アタシもいるから多分何も言ってこないだろうけど気をつけて、馬鹿に常識って通用しないから、」

「ほんと、大体こっち観てくるのも意味わかんない」

小声でみっちゃんと私が喋ってる中、こうちゃんは出来かけの粘土細工を大きく上に上げてとびきりの笑顔で私達に見せてくれた、多分、アリクイか何かに見えるけど、こうちゃんの好きなラブラド―ルレトリバーだと思う、これ、母親の勘。

里奈ちゃんママに遅刻をひとしきり怒られた後も、里奈ちゃんパパはいやらしい目で私達の方をチラチラと見てきた。みっちゃんの素性には気付いていない感じだ。

授業も後半にさしかかった頃、お手洗いに行きたくなってしまった。幸いお手洗いは教室のすぐ脇にあるので行った所で問題はないだろうと思い、みっちゃんに「ちょっとお手洗いいってくるね」と言って教室を後にした。しつこいやつっていうのはどこまでもしつこい。私とみっちゃんがまさか、と思う行動を里奈ちゃんパパは示してきた。

手を洗って鏡を見ると後ろには里奈ちゃんパパが立っていたのだ。断っておくが女子トイレである。

「なんかそっけなくない?一緒にいるのはお父さん?ねねね、お父さんは仕事の事知ってるの?」

本当にあり得ない奴だ。怖いを通り越して気持ち悪い。

「知ってます、ちょっと、どいてもらえます?」

ハンカチで手を拭きながら里奈ちゃんパパを睨んだ。

「へぇ・・知ってるんだぁ・・俺がお父さんだったら大ショックだなぁ・・ねぇ、これ見てよ」

里奈ちゃんパパが差し出してきた自分の携帯電話の待ち受け。なんとこの間無許可で撮られた私の半裸写真が画面いっぱい映っている。

「こないだの写真さ、スキャンして取り入れちゃった、これでいつでも見れるでしょ、よくない?」

よくないよくない、本当にありえない!

「・・そういうの、すごく困るんですけど・・」

怒りで震える声を悟られないようにゆっくりと低い声で言った。でもね、こういうやつには本当になに言っても無駄なんだ。

「えー?大丈夫だって、ちゃんと秘密にするからさぁ・・学校の先生とかにばれちゃってもこまるでしょ?ね?」

あぁ、どうしたらいいんだろう。いますぐこいつの携帯電話を奪い取ってバッチンバッチンに踏み壊して窓から投げたい。でもそんな事したってなんの解決にもならない事もよくわかっている。

「ひまり!」

怒りに震える私を我に戻したのは、みっちゃんの力強い声だった。



もう自分は長くない、そんな事、よくわかっている。日に日に身体が衰弱しているのもわかるし、それと戦う程の体力が残っていないのもよくわかっている。悔しいけれどもしょうがない、それが天寿というものだろうし、事故で急によりも徐々にこうして命の灯が消えていく方が、私の性格にあっているかもしれない。心残りはまだ二十四歳の娘の事だ。彼女は十七歳の時妊娠して、シングルマザーになるという道を選択した。皮肉なもので、高校まで、彼女はいわゆる優等生で、親友の雅恵は「こんなのひまりには言えないけど、よくあんたの娘であんなにしっかりした子に育ったねぇ」と、よく言っていた。ひまりが妊娠したと雅恵に言った時、「よかった、それくらいないと、出来すぎた子でちょっと心配だったわ」と雅恵は一笑した。雅恵は私が愛した人、つまりひまりの父親、そして元夫の妹、親友の雅恵の兄が元夫だったと言った方が分かりやすいかもしれない。私達が知り合ったのはもうずっとずっと昔の話(死期がせまると昔の事ばかり思い出すってよくいうけど、本当にそうかもしれない、最近ずっと、昔の事ばかり考えている)


十三歳の時、私と雅恵は同じニ組で、年子で生まれた雅恵の兄、倫夫は七組だった、野球部のエース、丸刈りに日に焼けて、細くて背が高くて、でもシャイで、女子は雅恵としか話もできないくらい恥ずかしがり屋の倫夫、私は始めて彼を雅恵に「兄」だと紹介される前から、そうだな、倫夫が野球部に入部したてで、まだ彼の身長が私よりも低くて、声変りもしていなかった時から、彼の事はチェックしていた。誰よりも遅くまでグラウンドを整備して、誰よりも早く朝練習に来ていた。私も、朝は一番乗りで部室に来ていたし(吹奏楽部でトランペットを吹いていたのよ)帰りは先生に注意されるギリギリまで部室に残っていたから、私は倫夫を知っていた。そして、ずっと、見ていた。

あの頃の私は家に帰るのが憂鬱でたまらなかったのだ、母が病気で亡くなって、私を待ちうけていたのは大酒飲みの駄目な父親とのおぞましい暮らしだった。

とび職をやっていた父親は、酒癖も悪ければ女癖も悪く、母が亡くなってから2週間もしないうちに我が家には知らない女達が出入りするようになり、居場所が無くなった。狭いアパートに酔った父と知らない女。そんな場所にいる事が苦痛でたまらなかったし、父もさぞかし私が邪魔だったであろう、家に帰ると、「タバコとビール買ってこい、あとお前の夕飯もその釣りでなんか喰え」そういって、二百円くれた。そして、「二時間は帰ってくるな」という父の指示に従い、私は大体アンパンと牛乳を買って公園で時間を潰した。

あくる日からは教科書や本を持って公園に出かける事にした、天気が悪くなければ、月明かりの下で宿題をやったり、本を読んだりした。亡くなった母が愛読していた、田辺聖子さんの小説や、学校の図書館で借りてきた江戸川乱歩。本とお月さまは私の味方だった。邪魔者にされている、私の味方でいてくれた。

「生きていればきっと良い事ある」辛い結婚生活に耐えて、いつもそう言っていた母は早世した。私を残して、逝ってしまった。今なら母の気持ちもわかるのだが、当時の私は一人、私を残して逝ってしまった母が恨めしかった。生きていても良い事なんかない。あるのは父の暴力と、酒臭い息、父の女たちの安っぽい香水の匂い、きっと高校だって行かせてもらえないだろうし、私は一人だ。一人ぼっちの厄介者なのだ。

そんな私を月だけがじっと見ていた、静かな青い光を放ち、月だけが、こっちを見ていた。

ブンブンと空中を裂く音が聞こえるようになったのは、桜が散って新緑が公園の大半を彩り始めた頃。私はいつものように公園の中央にある大きな樫の木の下で本を読んでいた。外灯に照らされ、バッドで素振りをしている男の子には見覚えがあった。

「あの子だ」

おもわず心の中で叫んだ、いつも学校で見かける背の低い、一生懸命な野球部の男の子だったからだ。私は息をひそめてずっと彼を見ていた、大きなバッドを振る度に、彼の身体も一緒に持っていかれそうになっていたけど、頑張ってこらえている彼の姿を、そして、遠くを見る、真っ直ぐな彼の瞳を。

彼の名前が、「斎藤倫夫」だと言う事を知ったのは、それからしばらくしてからだった、

彼の背は練習の甲斐あってか、それともただの成長期か、あれよあれよと伸び続け、夏休みが終わった頃には、別人のように大きくなって、秋の中体連では一年生で初のスタメン入りを果たしたのだ。我が校の野球部は、そんな中初の全国ニ位という快挙を遂げ、彼の名前も、大きく校舎の垂れ幕に書き記された。

夏休み中も毎晩、公園で練習を続けていた彼の様子を見続けていた私は、なんだか勝手に秘密を共有しているような、成長記録を見続けていたような気がしていて、嬉しかった。

「斎藤倫夫」心の中でそっと名を呼んで見る。

毎日の中で彼の姿を見つける事が私の楽しみになりつつあった。なんの希望も見いだせない私の生活の中で、彼は唯一の明るさだった。

二年になって、同じクラスの「斎藤雅恵」と仲良くなった、普段あまり喋らない私に、屈託のない笑顔で、普通に喋りかけてくれたのが雅恵だった。

「洋子さんは本が好きなの?私も、本好きなの!」

私の苗字は「佐伯」だったので、「斎藤」姓の雅恵は名前順ですぐ後ろの席に居た。

休み時間、黙々と本を読む私に、雅恵は言った。

「洋子さん吹奏楽部だったよね?たしかトランペット吹いてたよね!」

そんな感じで雅恵はことある毎に話しかけてくれた。

「だってあんた暗かったんだもん!」

後に雅恵は当時の私をそう語る。そして私達はお互いを「親友」だと感じるようになった。

雅恵と仲良くなって、同じ学年に年子の兄がいると聞いた時「まさか」と思った。そして雅恵に、廊下で通りすがった倫夫を「兄の倫夫っていうの」と、紹介された時、私はこの二人との間に運命を感じた。

倫夫はやっぱりシャイで、最初、中々、打ち解けてはくれなかったけれども、ある日雅恵の家に遊びに行く約束をしていて、雅恵は委員会で少し遅くなってしまうから、倫夫と先に行っていてくれと雅恵は言った。雅恵にとって倫夫は兄弟だから、大したことではなかったのかもしれないけれども、私にとっては充分、大したことあった。二人っきりになって、ドキドキしてしまい、ぎこちなくなってしまった。倫夫も雅恵に頼まれてしまったので、しぶしぶと、私と一緒に斎藤家に帰ってくれたけれども、家につくまでの十分間、二人とも終始無言のままだった、斎藤家は卸売りの氷屋さんを営んでいて、優しそうなお父さんとお母さんが出迎えてくれた。

「洋子ちゃんね、雅恵からお話は伺っています、あの子ね、あなたと仲良くなれてすごく喜んでたのよ、かき氷食べる?」久々に触れる母親の暖かさってやつに、少し涙の出る思いがした。おばさんの作ってくださった練乳がたっぷりかかったかき氷を頂いていると、二階から倫夫の声がした。

「洋子さん」

急に名を呼ばれハっとしてしまったが、慌てて「は、はいっ!」と元気よく答えた。

「それ食べてからでいいから、ちょっと来て」

倫夫からの急な呼び出しに私は大層テンパってかき氷を一気喰いして、狭くて細い階段を上って二階へと向かった。

倫夫と雅恵の部屋は相部屋で、大きな本棚が一つ部屋の真ん中で存在感を放っていた。倫夫は本棚の中から一冊の本を取り出し、私にくれた。

「本、好きでしょ?公園でいつも読んでたから、これあげる。俺、もう読み終わったから、」

今思えば不器用な倫夫なりの不器用な優しさだった事がよくわかる。

彼は私に太宰治の「斜陽」を手渡してくれた。

「公園って・・」

「樫の木、」

「あっ・・・」

倫夫は気付いていたのだ、私の存在に、気付いて居てくれたのだ。

「気付いてたんだ・・」

「うん、」

「お母さん、亡くなったんだってね。」

「うん、もう、一年前だけど・・」

「家でよかったら、いつでも、おいで、雅恵はうるさいやつだけど、良い奴だから」

「うん、知ってる」

「だろうね」

倫夫と私は顔を見合わせて笑った。それからは、公園で出逢う度に一言二言を交わすようになった、「よぉ」とか、「元気?」とか、他愛のないものだったけれども。私は樫の木の下で本を読みながら、倫夫はバッドを振ったり、筋トレをしながら、同じ場所にいた。お互いがお互いの時間を大切にしながら、同じ空間で同じ時を共有するのが心地良かった。

その頃父には新しい愛人ができ、彼女が我がもの顔で家を占領していたから、只でさえ居心地の悪い家が余計に帰りたくない度を増したものになった。父は愛人を「ユッケ」と呼んでいた。愛人は二十七歳で、最近ここら辺に流れてきて、駅前で小さなスナックを営んでいる。「焼肉に行くとこいつ生肉ばっかり食うんだよ」本名は裕子というらしいが、そんな理由で皆から「ユッケ」と呼ばれていると、嬉しそうに父は言った。

ガリガリに痩せた身体に濃い化粧、悪くない顔立ちなのだろうけれども、笑うと隙間が沢山あいている歯の間隔が、なんだかとても不気味に見えた。

ユッケは女の人には珍しく、濃い匂いのタバコを吸っていた。だからいつも身体からタバコの匂いが漂っていた。首筋に蛇の刺青を入れていて、ギョロリとした目で私を睨み、母の遺影を部屋から逃けるように指図した。

「こんなものあると居心地が悪い」指図を頑なに拒否した私を無視して、ユッケは父にそう直談判し、私は父に殴られた。

「お母さんの言う事聞かなきゃだめじゃないか!」どうやら父はユッケに本気だったみたいだ。こんな女が母親になるくらいなら、こんな親父とも縁を切りたい。本気でそう思った。「お父さんは優しい人」そう言っていた母の目は節穴だったのであろう、どう考えても父は優しくなんかなかった、ただ偶に、気が弱くなるだけだ。それは優しさとは違う。決して。

「駅前のスナックのママとお前の家の父さん、結婚するのか?」

いつものように樫の木の下で本を読んでいると、素振りを終えた倫夫が、そう言って近づいてきた。例にもよってその日も父親にこっぴどく殴られた後だったので私の唇は右半分だけ腫れていた。

「おい、・・口、どうした?」

私は何も言いたくなく、ただ首を横に振った。

「お父さんに殴られたのか?」

張りつめた緊張が倫夫の言葉で和らぎ、私の涙腺も緩んでしまった。

倫夫は涙目で頷く私の唇を優しく撫でてくれた。

「酷いな、こりゃ、冷やさないと」

倫夫は氷なら沢山あるから、と、私の手をひいて、斎藤氷店まで連れていってくれた。

雅恵に心配かけたくないからと、一度は断ったが、雅恵は今日、委員会の仕事でまだ帰っていないと、倫夫は力強く私の手をひいていった。

おばさんもおじさんも、私の顔を見て驚いた。

「洋子ちゃん、口・・どうしたの?」

するとすかさず倫夫が、体育の授業中転んだんだよ、と、説明してくれて、内心ホッとした。家の事情に、大事な人を巻き込みたくない。そう思っていたから。

倫夫はビニールに沢山の氷を詰めてタオルを巻いてくれた。

口の中は所々切れていて痛かったけれども、倫夫の優しさに心がじんわりと暖かくなってのを感じた。

家の前まで倫夫が送ってくれて、私達はそれぞれの家へと帰った。丁度父親もユッケも居なかったから急いで部屋の隅に布団を敷いて潜った。氷で冷やしているのを見つかりでもしたら、「あてつけか」と、また殴られそうだったから、唇は痛かったけれども、その日私は幸せだった。倫夫の大きくて硬い掌から伝わる体温や、唇に触れた時の眼差し。

私はそれを思って眠りについた。久々の、穏やかな睡眠だった。

そういえばどうして倫夫はユッケと父親の事を知っていたのだろう。一瞬そんな疑問が頭を掠めたがすぐに立ち消え、深い眠りに落ちて行った。

これから訪れる、長い戦いへの休息をえるかのように、深い、深い眠り。

朝になり、眠りから覚め、そこには酒臭い暴力的な父親と、ギスギスした身体にキャミソールを纏ったユッケ達が眠っていた。私は二人を起こさない様にそっと家を出て学校に向かった。外はなんて清々しいんだろう。空はなんて青いんだろう。

「気持ち良い」

そんな言葉が自然と口を吐いた。唇の腫れはもうほとんど治まっていたけれども、その替わり青紫色の痣が私の顔を妖怪人間っぽくしていた。

ユッケが家に住みつくようになってから、益々居場所を失った、あんな家、帰りたくない。いつもいつもその事ばかり考えていた。

「いつでも家に泊まりにおいで」

雅恵は横に大きく広がった口の横の痣を見てそう言ってくれたけれども、そうもいかない。

迷惑をかけるのが嫌だったのだ。今思い返せばまだ、こんなの序の口だった。私が受けていた苦しみなんて、それから起こる悲しい出来事にくらべたら、大した事なかった。

倫夫の様子がおかしくなってきたのは、秋の中体連で、倫夫が凡ミスを連発して、野球部が予選落ちした頃からだ。

倫夫は樫の木のある公園に姿を見せる事も少なくなったし、少なかった口数もますます少なくなってしまった。

「最近家でも変なんだよね、」

雅恵は倫夫についてそう言った。

「配達先でなんかあったのかな・・」

おじさんが腰を痛めてしまったので、倫夫は部活が終わってからも、氷の配達を手伝うようになった。様子がおかしくなってきたのはそれからだと、雅恵が言う。

「なんか急によそよそしくなってさ、「男の子はそういう風になる年頃がある」ってお母さんは言うんだけどさ、なんか思いつめてみたいで、心配」

学校で私と会っても倫夫はあからさまに私を避けるようになっていた。

そしてそのまま、私達は三年生になった。倫夫はほとんど学校に来なくなってしまった。

雅恵の話によると、家にもあまり帰っていなく、帰ってきても心ここにあらずといった感じで様子がおかしいらしい。倫夫が家に居る時はほとんど無理やり、倫夫に部屋を占領されてしまっていると嘆いていた。家に居ない時にどこにいるかは知らないらしい、近所の不良グループと付き合っているそぶりも無いし。

誰の目にも倫夫の行動や態度は不可解に映った。ただ、一人の目を除いては。


ユッケは昨日十三人目の子供を堕胎したと、その日は家で寝ていた。十三人にもなるともう慣れたもんだと、布団に横になりながら笑っていた。父はその横で泣いていた。

ユッケは各地を転々と回っていたからイントネーションが少し可笑しい。関西弁とも、九州弁ともわからない言葉で話したりする。日曜日、テスト期間中で部活が休みだったので、私は父が出かけてから、少しだけユッケと二人っきりになってしまった。ユッケは動けないから飯を作れだのコーヒーを淹れろだのうるさかった。

しぶしぶカップラーメンにお湯を入れて、コーヒーをユッケの枕元に置いた。

「あんた、斎藤って子しっとるやろ?」

半笑いでユッケが言った。

「雅恵の事?」

「ちがうよ、倫夫よ。」

ユッケが何故倫夫の事を口にするのだ、なんだか嫌な予感が胸をざわめかせた。

「倫夫くんがどうかしたの?」

そんな胸のざわつきをユッケに気付かれまいと、平静を装った声で聞き返した。

「昨日堕ろしたんわね、あんたのお父ちゃんのじゃなくて倫夫の子供よ」

そう言った途端ユッケは大きな声で笑いだした、まるで狂女のようにケタケタと。

「嘘・・でしょ?」

笑いながらユッケは続けた。

「嘘なんか吐かんよ、あの子、配達でウチの店にきてねぇ、一回やったら、猿みたいになってしまって、学校も行かんとずっとアタシと乳くりあっとったけ、あぁ、これあんたの父ちゃんには内緒やけんね」

「嘘よ!」

私の中で憤慨と軽蔑が一度に混ざり合い、声が荒いだ。

「そんなの嘘よ!」

「あんた、倫夫の事好きやったと?」

そう言ってさらに大きな声でユッケは笑いだした。

どうして良いのかわからず、家を飛び出した、新緑の鮮やかさが、私の息を詰まらせた。

倫夫から話が聴きたい。そうじゃないと、なにもわからない。そう思って、斎藤氷店に電話をかけたが、雅恵が出た。

心配かけさせるのも嫌だったので「元気?」と他愛無い話をして、倫夫が帰っていない事を確認して切った。

いつの間にか、樫の木に向かって足が動いていた。日曜日の公園はいつもと違う、夜の樫の木は私の場所だったけれども、今日は沢山の親子連れで賑わっている。

倫夫がこの場所で一生懸命バットを振っていたのが、もうずっと昔の事のように思える。

その時、樫の木の下で体育座りをし、ぼんやりと遠くを眺めている倫夫を見つけた。

今思えばきっと、倫夫も私も、ずっと、お互いを探していたんだと思う。だからそれは偶然じゃなかった。

私は倫夫に駆け寄り、何も言わず手を握った、私の顔を見て、倫夫はしゃくりあげた。

「おれ・・・おれ・・」

倫夫は金属が擦れ合うような泣き声をあげて泣いた。私は何も言わずに倫夫の肩を擦った。

家族連れが不思議そうに私達を見ていたけれどもそんなのもう気にならなかった。

倫夫が帰ってきたのだ、ここに。それは肉体だけではなく浮いてしまっていた心も、だから私はしっかりと握りしめる。もう倫夫にこんな悲しい思いをさせない為にも。


「最初は配達の帰り、早い時間にユッケの店で少し話して飲み物を貰う程度だった」

と、倫夫は言った。

「街にきたばかりで友達もいないし、寂しいのよ」

とユッケが言ったらしい。

ある日「具合が悪いからブラジャーのホックをとって背をさすってくれ」とたのまれ、素直な倫夫は言われた通りに擦った。

女兄弟がいるから、女性の裸などには本当にあまり興味が無かったらしい。それがユッケの勘に触ったみたいでユッケは「アタシが誘ってんのにその気にならんなんて生意気な男の子やね」と、無理やり倫夫のズボンを脱がせ、股間をしゃぶりだした。倫夫はどうしていいのか分からず、ただ、されるがままに初体験を済ませた。

そういえばユッケは「仕込みがあるから、」と度々家を開けていた。考えたら、スナックの仕込みなんて、そんな大したものじゃないだろうし、倫夫との逢瀬の為だったのか、と思ったら納得がいった。

あくる日、ユッケはポラロイドカメラを持って騎乗位になり、倫夫との性交の様子を撮りだした。行為は主に開店前の店の床の上で行っていたらしい。

そんな事、露ほども知らず、毎晩ユッケの店にはユッケ目当ての男共が群がっていたのかと思うと呆れる。ウチの父しかり。

ユッケが撮った写真はそれは口にだすのも恥ずかしい、卑猥なものばかりで、倫夫は抵抗したが、ユッケは笑いながら撮り続けた。

「いつも親父達の相手ばっかりしてるから、倫夫との事は残しておきたいんよ」

「アタシの可愛い倫夫、もし逃げよるもんやら、この写真、全部ばら撒くけんね、学校にも、家にも、近所にも、全部全部」

倫夫はゾッとした。一瞬の快楽を味わってしまったばかりに奈落の底へと突き落とされる思いがした。倫夫はそれから、学校に行くのも怖くなってしまった。本当は皆知っているかもしれない、自分がしている卑猥な行為の事を、そう思うと夜も眠れなくなった。

だがユッケの誘いを断れば写真をばら撒かれてしまう。倫夫の心は、そうして蝕まれていっていたのだ。

なんて事だ。ユッケは青少年の明るい未来を自分の欲望を満たすだけの為に奪った。それは私には許しがたい事だった。優しく明るかった倫夫の顔に影を落としたユッケを私は許せない。

「子供が出来たって・・言われたんだ・・んで・・俺・・困るって・・そしたら」

ユッケは倫夫にこう言ったそうだ。

「やる事やったんだから責任とりんさいよ、一生倫夫はアタシの奴隷じゃ、絶対に離さないよ、倫夫のせいでこのお腹の子は死ぬんじゃ、逃げようなんて思いなさんなよ」

なんて事だろう、ユッケは今まで何人の男達にそんなセリフを吐いたのだろう、少なくともウチの父にも同じような事を言っていた。(傷ついたのは私なんだ、と昨夜も父と言い争っていたし)真面目な倫夫は深く傷ついていた。

きっと何度も「自分のせいだ」と我が身を責めたのであろう。

大事な青春時代をユッケに翻弄されて、私からみたら被害者は倫夫だった。

男の子だから、と理由で誰にも相談できず、肉体関係を持ってしまったからだ、という理由で倫夫は脅迫され続けていたのだ。ユッケに情が沸かなかったと言えばそれは倫夫の嘘になるであろう。

でも私からみたら、これはレイプと一緒だ。

こみ上げる怒りが私を覆い尽くし、倫夫の手を握っている自分の手に、無意識に力がこもるのが分かった。

ユッケが堕胎して、家で寝ている事を告げると倫夫は再び大きな涙の波に襲われ、嗚咽を漏らした。

「俺のせいで・・」

倫夫はそう言うが、私はそうは思わない、そしてユッケはしたたかな女だ。

この先もそれを理由に倫夫を求めるであろう、過ぎた事はもうどうしようもないが、倫夫は事情を話してくれた。それは大きな第一歩だ。

私が倫夫を守ると決めた。どんな手を使ってでも。

しかし倫夫のダメージは誰もが予想するよりもはるかに大きかった。倫夫はいわゆる、今で言う「ひきこもり」と化したのだ。無理もない。それは力強くユッケを拒む事の出来ない倫夫の選んだ最善の自己防衛策だったのかもしれない。

私は学校の帰り、倫夫の家に寄って帰る事が日常になった。古本屋で面白そうな本を見つけて、倫夫と共にそれを読んだ。ひきこもるようになって、倫夫の調子は大分良さそうだった。なにより雅恵と私がいたし、あの頃の親の世代には珍しく、おじさんとおばさんに理解もあった。

「行きたくないなら無理に行かなくてもいい」

と、倫夫に登校する事を無理強いしたりしなかった。担任の先生だけは自分のクラスから不登校が出てしまった事に酷く憤慨し、最初は毎日説得に来ていたけれども、そのうちに諦めて来なくなった。

「進路、どうするの?」

その日は雅恵と倫夫と私でトランプをやっていた。秋になって委員会も部活も三年生は引退だったから放課後は大体私達三人で遊んでいた。

雅恵は県内一の進学校に推薦が決まっていたが、私には、はなから普通校に進学するつもりは無かった。看護婦(今はそう言わないんだっけな?)早く家を出たかったので働きながら行けるという准看護の学校に行く事に決めていた。

「東京の看護婦学校行って寮に入るの」

私がそう言うと倫夫は少し寂しそうな顔をした。

私は慌てて「でも毎週会いに来るから」と付け足した。

「私と倫夫どっちによ」

笑いながら雅恵に肘でこずかれて、なんだか恥ずかしくなったが、倫夫が嬉しそうな顔をしてくれて私も嬉しかった。

家に戻るとユッケと父が大喧嘩をしていて、ユッケは顔をげんこつで殴られていた。

「ざまぁみろ」と思ったが、さすがに父の怒りようが度を超えていて、尋常じゃなかったので警察を呼ぶはめになってしまった。

「こいつずっと浮気してやがったんだ!ふざけやがって!」

父はそう怒鳴っていたが、正直「今更?」とその場にいた警察官までもが思った事であろう。

ユッケは全治1カ月の怪我を負い、入院した。父は傷害罪で逮捕され拘留された。

不謹慎だが「ラッキー」と私が思ったのは言うまでもない。

ユッケが浮気をしていたのは、なんと倫夫の担任の教師だった。三カ月程前からユッケの店の常連になって、関係を持っていたらしい。

それを知ったのは面会に出向いた時、穴のあいたガラス越しで啜り泣く父の口からだった。

「あいつら絶対に許さないぞ!ここを出たらぶっ殺してやる」

さすがに殺人とかは困る、と父に懇願したが、父の怒りっぷりは、それはもう洒落にならないくらいだったから、私は頭の中で何度も新聞に殺人者として掲載される父の姿を想像して頭を悩ませた。が、幸い新聞に載ったのは、父じゃなくユッケの方だった。

「中学校教諭、覚せい剤で逮捕。交際相手の女性から購入」

入院したユッケの様子がおかしいと、病院の先生が警察に通報し、取り調べが行われた結果、ユッケに覚せい剤の反応がでた。調べが進むにつれて色々判明していった。まずユッケは初犯では無かった。転々としていた先々でも捕まっていた。そして今回が三度目の逮捕だった。

それに伴い倫夫の担任も捕まった。ユッケが捕まった三日後、父は留置所から釈放された。

父はユッケが薬をやっていた事を何も知らなかったらしく、大層ショックを受けていた。

結局ユッケは誰も愛していなかったのだ。そう思うと少しだけ可哀想になった。

ユッケの逮捕の知らせを受け、倫夫も驚いていた。ユッケの悪行はそれだけじゃなかった。ユッケは関係を持った男達との行為を写真に撮り、妻帯者を恐喝していたりもしたらしく、卑猥な写真達も全部警察に押収された。

倫夫は自由の身になったのだ。もう写真をばら撒かれる心配もない。

私と倫夫は海を見に山下公園へと出かけた。倫夫にとって、久しぶりの外出だった。

風は冷たくて、茶色のダッフルコートを羽織って。倫夫の顎には髭が生えていた。

私は紺色のピーコートを着て、倫夫と手を繋いだ。

港から遠くを見つめる倫夫の手をコートのポケットに入れて強く握った。

「離すもんか」と、倫夫の手を離すものかと、強く心の中で思った。そして、神様に願った。「もう倫夫を傷つけないでください」と。

今でも、今でも私はそう思っている。どうか倫夫がどこかで傷ついていませんようにと、神様にお願いしている。私と倫夫はその後十八歳で結婚し、私は看護学校を出て、看護婦になって、ひまりを産んだ。

倫夫はとても、ひまりを可愛がってくれていたし、私達は幸せだった。

まだ「主夫」なんて言葉があまり無かった頃だったから、倫夫が働かない事に苦言を示す人もいた。でも倫夫は実家の氷屋を手伝ったりしていたし。私達に問題は無い・・と思っていた。しかし、倫夫は急に姿を消した。

「ごめんなさい」

そう書き記された手紙と倫夫が作った私名義の通帳を残して。

ひまりが三歳になる直前の事だった。その頃、雅恵も結婚生活に悩んで、離婚するかしないかの渦中だった。斎藤氷店も、おじさんの腰の回復の見通しが立たない為、閉店し、おじさんとおばさんは山梨の小渕沢に隠居した。

私も仕事が忙しくて、倫夫の心の変化に気付いてあげられる余裕が無かった。

それから毎月、その通帳には充分すぎるほどの倫夫からの入金があった。

彼の中できっと色んな負い目が重なって、いたたまれなくなってしまったのであろう。

倫夫はだれよりもひまりを愛していたし、置いて行くのは苦渋の選択だったのではないかと思う。

私達は離れていても繋がっている。おめでたい頭だけれどもそう思った。

だけど死の淵に立っている今。わがままを言っていいのだったら倫夫に逢いたい。

倫夫が振りこんでいてくれたお金には一切手をつけていない。死ぬ前には毎月父親が送ってくれていた事をひまりに話して渡すつもりだ。そしたらひまりは逢いに行こうとするのだろうか?あぁ・・眠くなってきてしまった。強く生きてきたつもりなのに、今、私は弱っているみたいだ。倫夫に逢いたい。逢って、手を握ってほしい。そしてあの樫の木が倫夫がいなくなった五年後の台風の日に倒れて伐採されてしまった事も伝えたい。それからそれから・・あぁ・・沢山伝えたい事がある。倫夫。今頃どうしていますか?倫夫。


「みっちゃん!」

私がそう言葉を発した時、みっちゃんは里奈ちゃんパパの胸座をもう掴んでいた。

みっちゃんは里奈ちゃんパパの耳元で囁いた「おい、このやろう・これ以上ひまりに近づいたら、ただじゃおかねぇぞ、あ?わかったか?」

青ざめる里奈ちゃんパパ。

「あ・・・は・・はい・・」

里奈ちゃんパパは、何も言えなくなって、脅えている様子だった。それくらい凄みが効いていた。いつものみっちゃんからは想像がつかないくらいに。

授業終了のチャイムが鳴る。廊下には母や父を求めた子供達が一斉に飛び出してくる。

こうちゃんは私を見つけて抱きついてきた。

「さ、行きましょ」

そう言って、みっちゃんが私の手をとり、私はこうちゃんの手を握った。すっごく心強かった。

帰り際、里奈ちゃんとこうちゃんは無邪気に挨拶をかわした。子供達に何も罪は無い。悪いのは、沢山の事情を抱えてしまった大人達なのだ。

私達は学校を出て焼肉ランチへと出かけた。夜だと高くて躊躇してしまうお肉がランチだと罪悪感無く美味しくいただける。

「僕、お肉!」

注文をとりにきたおねぇさんにそんな事を言って困らすこうちゃんであった。

「えっと、んじゃ、ハラミとカルビと・・・」

年長所さんらしく、みっちゃんが手際よく注文をしてくれた。頼もしい。

みっちゃんは今日男性みたいな格好をしているから、きっと私達は家族に見えるんだろうな、そう思ったらちょっと嬉しかった。

みっちゃんとこうちゃんはすぐに仲良しになって、こうちゃんはみっちゃんに沢山自分の話をした。雅恵おばさんのお店のラーメンが美味しい事とか、洋子さんの焼き芋が美味しい事とか、歯科検診で虫歯が無くって褒められた事とか、沢山。

「みっちゃんもおいでよ!おいしいんだよ、雅恵おばちゃんのラーメン」

みっちゃんは優しく、うんうんと頷いていた。でもちょっぴり寂しそうな顔をした。もしかしたらラーメンに悲しい思い出でもあるのかな?なんて私は余計な気を廻した。

燃え上がる煙にこうちゃんは興奮した。

「お肉!お肉!」

焼きあがったお肉にたれをたっぷり付けて、ご飯に乗っけて美味しそうに頬張るこうちゃん。そういえば夕方洋子さんのお見舞いに行くのにこんなに焼肉の匂いをプンプンさせてしまって大丈夫かしら?と、少し心配になったが、美味しいものと楽しい時間には勝てない。

里奈ちゃんパパの事があって、私は今、少しだけ仕事に行くのが怖いと感じている。だからそんな不安を払拭させたくて、心の楽しい部分を一生懸命埋めようとしている。「不安」とか「嫌悪」とか、出てくる暇がないくらい。「楽しい」とか「嬉しい」とか「美味しい」を詰め込もうとしている。

それが例え、根本的に解決するものじゃないとしても、私にはそうするしか術がなかった。

「治ってくれるといいね」

お肉をサンチュに包みながら、みっちゃんが言った。

「誰が?」

「みんな、みんな治るといいのにね」

そうだなぁ、と思った。里奈ちゃんパパも、ママも、洋子さんも、私も。

治ると良いな、そしたらハッピーだ、きっと。傷ついたり、傷つけたりもしなくなるし、元気に焼き芋が焼けるようにもなる。治ると良いのにな。

「子供は親を選べないからねぇ」

きっと里奈ちゃんの事を思ってみっちゃんが発した言葉。

私は感謝している、母が洋子さんであった事。そして居なくなってしまったけれども、洋子さんの愛した人(きっと今でも愛している人)がお父さんである事。

こうちゃんにもいつかそう思って貰えたらって、そう思っている、七雄くんの息子で、私の息子で良かったって。こうちゃんは思ってくれるようになるのかな?でも男の子だからな、「おふくろ」とか言うようになるのかな?変なの。

「みっちゃんのお父さんとお母さんは?お元気でいらっしゃるの?」

聞いた後に「しまった」と思った。

「ずっと会ってないけど、きっと元気だと思うわ」

みっちゃんは寂しさを含んだ笑顔で微笑んだ。男性の格好をして食後の一服の細いタバコをくゆらす姿が、なんだか焼肉屋さんともマッチしてなくて、その不調和ぶりが逆に神々しいものに見えた。

私たちは沢山食べ幸せな気持ちになった。

「今日は奢ってあげる」

みっちゃんは茶色い皮のユニセックスな二つ折り財布を私に渡してくれた。

「お手洗い行ってくるから、払っておいて」

そういってみっちゃんが入ったのは、ちゃんと男性用トイレだったのでホッとした。

「九千二百円になります」

おぉ、たらふく食べたわりにはさすがランチ。

「こうちゃん払う!お財布貸して!」

私の目線から三十センチ程低い位置でだだをこねるこうちゃん。

最近彼の中で支払いがマイブームらしい。でも・・いくらみっちゃんのとはいえ人のお財布だしなぁ・・。

「貸してー!」

こうちゃんはふざけて勢いよく私の手からお財布をもぎ取った。

その勢いに負けて、うっかりお財布をおとして中身をばら撒いてしまった私達。

「んもぅ!こうちゃん!大人しくしててよ!」

ばら撒かれた小銭とカード類を急いで拾い集め、お財布に戻そうとした時。ふと目に入ったみっちゃんの免許証に記されている事実に私は驚愕した。

「斎藤倫夫」

みっちゃんの免許証の氏名の欄にはそう書いてあった。

「さいとう・・みちお・・」

その名前には見覚えがあった。記憶を辿る。洋子さんの母子手帳。

おかあさんになる人「斎藤洋子」おとうさんになる人「斎藤倫夫」

斎藤倫夫は私の父だ。そして、これはみっちゃんのお財布。倫夫。みちお、みっちゃん。

み・・・みっちゃん!?

男性用お手洗いから出てきた、レースのハンカチで手を拭いている女装家。

私の・・お父さん!?お父さん!?

「みっちゃん!」

「ん?どしたの?足りなかった?」

なんて聞いていいのかわからなかった。咄嗟に口を吐いた言葉は

「洋子さんと会った時は・・男だったの?」

われながらなんて卑猥で低レベルな質問をしてしまったのだろう。これじゃぁ、男子中学生以下だわ。

「そうねぇ・・河岸かえましょか?」

優しく微笑むみっちゃん。父と子としての私とみっちゃんは21年の時を隔てて再会した。


こうちゃんがパフェを食べたがっていたので、駅から少し歩いた所にある。船をイメージしているらしい古い喫茶店に入った。

「ここの白玉がね、美味しいのよ」

みっちゃんが言った。

こうちゃんは白玉チョコレートパフェを、私はあんこ白玉と紅茶、みっちゃんもあんこ白玉と紅茶を頼んだ。

聞きたい事は山ほどあったけど、みっちゃんの言葉を待った。

みっちゃんは湯気を立て、良い香りを漂わせる紅茶を飲みながら言った。

「洋子さんの事愛してるわ、今でも、ずっと」

それだけで十分だった。そしてそれはみっちゃんの纏う空気に触れれば、たやすくわかるような真実。

「じゃぁ、洋子さんに逢ってほしい。」

真っ直ぐにみっちゃんを見つめながらあんこ白玉を頬張る。あら、ほんと、この白玉美味しい。ゆでたてみたいでつるつるっとしている。あんこの甘さも丁度良い。

こんな大事な場面で脳内が「あんこ白玉美味しい」に浸食される自分を少しだけ恥じた。

「許してくれるかしら」

みっちゃんは寂しそうに微笑んだ。

「洋子さんもずっと、みっちゃんだけを愛してるよ」

それは約二十四年間、洋子さんを一番近くで見てきた私が知っている、揺ぎ無い真実。

私たちに「なぜ?」「どうして?」を話合う時間は無い。

限られているのだ、洋子さんに残された時間が。

私達は作戦を練った、まず、いつも通りにこうちゃんと私が洋子さんを見舞い、頃合いを見計らってみっちゃんに登場してもらう。

ジャジャーンと。

軽率だとか浅はかだとか唐突だとかいっている場合じゃないのだ。

とにかく時間が無い。リミットが迫るまで人は時を無限だと思っているけど、終わりは来るものだと、私は近いうちに知ることになる宣告をされている。それは必ずくるもので、避けられないもの。だから迷っている暇や、責めたり、何かのせいにしている暇なんて必要ない、ただ、前を向いて「今」を大切にする他ならない。

「わかったわ、行く。」

みっちゃんは私の手を握ってそう言ってくれた。力強く。だけど少しだけ、震えながら。

洋子さんの顔色はいつもより少しだけ良かったように思う。

こうちゃんは嬉しそうに洋子さんに抱きついた。みっちゃんの事を口止めしてしまったので口数の少ないこうちゃん。うっかり喋ってしまう事を子供ながらに気にしてくれているのであろう。えらいぞ、こうちゃん。

「なんかね、ずっと昔の事考えてた」

そう言いながら、洋子さんは自分のベッドの脇から通帳と印鑑をとりだした。

「これ、ずっとひまりに渡そうとしてたの」

「え?なにこれ」

いち、じゅう、ひゃく・・せん・・って・・ぜ・・ぜろが一つ多くないですか!?洋子さん!

「ひまりのお父さんが、ずっと送ってくれていたのよ」

「え?」

「毎月欠かさずね、毎月通帳を見る度に、あぁ、あの人無事なんだなって、ホッとした。小淵沢のおじいちゃんとおばぁちゃんの所には一応毎年簡素な一筆線が届いていたみたいだけどね、私には何の便りも無かったから・・それだけが、唯一の手掛かりだったわ。」

ちょっ・・なんてなんてタイムリー。洋子さんてば。

「今日ね、み・・」

「ちょっと!こうちゃん!」

慌てて口を押さえるこうちゃん。もう充分怪しいってばそのしぐさ。

危うい危うい。こうちゃんのお口のチャックがもう限界っぽい。

「こうちゃんに、チョコレート買ってくるね。洋子さんは?なんかいる?」

「みかんゼリーなら食べれるかも」

「おっけ、んじゃ売店行ってくるね、他に必要なもの思い出したら電話して」

「わかった」

「こうちゃん、行くよ、チョコ買いにいこ」

「うん」

こうちゃんの小さな手を繋いで階段を下りる。裏口の喫煙所でみっちゃんはタバコを吸っていた。

「緊張しちゃって、一箱吸い終わっちゃったわ」

ちょっと泣きそうな顔をしてみっちゃんが言った。

私は買ったばかりの「まるごとおおきなみかんゼリー」をみっちゃんに渡した。

「三一ニ号室だよ」

みっちゃんはゆっくりとゼリーをうけとりにっこりと笑った。

三階へ向かうみっちゃんを見送り、私とこうちゃんは自販機でイチゴ牛乳を買って飲んだ。

「みっちゃん、よっこちゃんの事好きなの?」

「そうだよ、だからこうちゃんとママはキューピッドなんだよ」

「キューピッドってなに?」

「うぅぅんと・・巡り合わせる人みたいな・・」

「めぐりあわせるってなに?」

「うぅぅん・・なんだろうね、好き同士が出会うって事だよ」

「良い事?」

「そりゃ良い事だよ。」

「ふーん、んじゃ良い事したね、こうちゃん」

「そうだね、こうちゃん良い事したね」

今頃みっちゃんは病室のドアを開けているだろう。洋子さんは嬉しがるだろうか、涙を流すだろうか。もしかしたら怒るかもしれない。

だけど二人は愛し合っている、長い年月がかかったけれども、きっと出逢うべくして再会するタイミングだったんだと思う。

洋子さんから電話があったのは、丁度みっちゃんが病室に向かった一時間後だった。

「倫夫の分の飲みモノも買って上がってきて」

洋子さんの嬉しそうな声を聞いて安心した。

それから毎日、みっちゃんは洋子さんを見舞った。

「シロツメクサとひまわりだって言うのよ、野生の」

みっちゃんは洋子さんにお花、なにが欲しい?と聞いたそうだ。

「どっちも春とか夏じゃない?だから春とか夏まで元気でいてくれたら摘みに行こうって言ったの」

季節は十二月になっていた。街はピカピカ光って浮かれてるのに風は突き刺さるよう冷たい。私は今休業中で、できるだけ洋子さんの為に動けるようにしている。

とは言っても。毎日みっちゃんが洋子さんの所に行っていてくれているから、大して私のやる事はないのだけれども。まぁ、ぶっちゃけ無職みたいなものだ。

里奈ちゃんパパの一件もあって、少しだけ(いや、それは強がりだな、何度も行こうと試みたけど、足がすくむようになってしまっていたから)仕事に行くのが怖くなってしまったのと、洋子さんの余命宣告が当初今年いっぱいだった事。あと、正直言うと、みっちゃんが仕送りをしてくれて、洋子さんが貯めておいてくれたお金。

無駄使いする気はさらさらないのだけど、そのお金の存在で、ちょっぴり、張りつめていた「頑張らなければ」が緩和されたのは事実。と、いうわけで、「師走」とは程遠いのんびりした暮らしをしていた。

(毎年十二月はボーナスシーズン稼ぎ時だから、ほとんど年末年始は仕事に明け暮れていた。だからちょっぴり、へんな感じ)

洋子さんの容体はお医者様が「信じられない」と言う程安定していた。

お正月、小淵沢からおじいちゃんとおばぁちゃんがやってきて、洋子さんも一時退院が出来て、雅恵おばちゃんのお店に皆で集まった。勿論、みっちゃんも一緒に。

私たちはずっと前からずっと一緒にいる家族のようだった。不思議と。皆がそれぞれ、自然だったのだ。時間は緩やかに過ぎて、そこだけフォトフレームみたいに世界から切り取れたら良いのにって、本気で思った。「時間よ止まれ」ってか、洋子さんの病魔よ、活動をいますぐ休止せよ、そして、幸せな時間よ、続け。って。

しかし、そんな私の願いはあっけなく却下された。一月の十五日、洋子さんの具合は急変した。

「覚悟しておいてください」

先生が発したその声も涙ぐんでたように感じた。長年共に働いてきた戦友の死が真近に迫ってきている。そんな危機感を醸し出していた。

呼吸器に繋がれて心電図の音の中横たわる洋子さん。その横で手を握っているみっちゃん。

空は灰色で、エアコンの熱がムンとしている病室の中。

こうちゃんはアイスが食べたいと無邪気にダダをこねている。

「もう、起きないかもしれないって、」

みっちゃんは目じりを下げて優しく微笑んだ。

みっちゃんの握っている洋子さんの手にそっと触れると、洋子さんの温もりは、今にも冷めてしまいそうに不確かな感じがした。

「苦しいかな・・?」

洋子さんの手を握りながらみっちゃんにそう聞いた。

「もう、意識も昏睡しているから、多分苦しくはないって、さっき看護師さんが言ってた」

みっちゃんは意識の無い洋子さんの手をぎゅっと握る。

洋子さんの手の甲に沢山の涙が流れ落ちた。私、みっちゃん、雅恵おばちゃん、小淵沢のおじいちゃんとおばぁちゃん。こうちゃんは、なんだかよくわかってない様子だった。だけど洋子さんの耳元で「よっこちゃん、がんばれ」って囁いていた。

「ずっと洋子さんみたいになりたかったんです」

そう言ってくれた看護師さんが何人かいた。娘として、なんと誇らしい事だろうか、洋子さんは愛されて、尊敬されていた。そして私やこうちゃんを沢山沢山愛してくれた。

休みがあると、保育園を休ませて、動物園や植物園に連れて行ってくれた。電車で二時間かけて栃木まで出向いて、「ひまりの元になった花だから」と、辺り一面に広がるひまわり畑を見せてくれた事もあった。

小さい頃、私と洋子さんは焼きたてのタイ焼きを頬張りながら川沿いを歩いた。巣に餌を運んでいる蟻に、タイ焼きの破片をわけてあげたりもしたね。

洋子さん、おかぁさん。洋子さんが読み聞かせてくれた絵本。悲しいお話の時、いつまでも泣きやまない私をギュッと抱っこして眠ってくれたね。数えだしたらきりがない。

洋子さんに愛されていた記憶を辿ったらきりがないよ。

あんなこともあったねって、もっともっとお話ししたいよ、洋子さん。

洋子さんの愛した私のお父さんがみっちゃんで本当に良かったよ、洋子さん、洋子さん。

ねぇ、、ひまりは、貴女を悩ませてばかりじゃありませんでしたか?

どうして、もっと、良い子に育ってあげられなかったんだろう。

お母さんは、幸せでしたか?

・・お母さん・・・洋子さん・・。

命が消えて行く瞬間。心臓が止まった合図の音が病室になり響いた。

それからの何日間は正直、夢と現実を彷徨っているかのような空虚を漂っていたと思う。

横たわり運ばれていく洋子さんが空っぽになってしまっている事。

風景がスローモーションになったり、急に普通にもどったり、気付いたら2時間経っていたり。

「ママ!」

こうちゃんの声で現実に戻されたり。

「よっこちゃん、本当に死んじゃったの?もう戻ってこないの?」

白いシャツに正装したこうちゃんがチョコミントアイスを舐めながら言った。

「そうだね、お空に行っちゃったね」

お空、お空なんかに本当に行くもんなんだろうか。私もこうちゃんも、死を真近に感じたのは初めての経験で、一番近い亡くなっ人は近所にあった駄菓子屋さんのおばぁちゃんくらいだったから、すっごく、変な感じだった。

その日は本当に鮮やかに晴れていて、雲ひとつない青空で。火葬場の喫煙所でみっちゃんは細いタバコをくゆらせた。

「なんでもっと早く逢いにいかなかったんだろう」

泣きはらしたみっちゃんの目は二重の幅がいつもの二倍倍くらいにふくらんでいた。

「でもきっと丁度よかったんだよ」私とこうちゃんは頭を傾け合って寄り添った。

こうちゃんの頭の形が丸くて綺麗なのも、洋子さんが何度もドーナッツ枕の位置を直してくれていたからだなぁ、なんて、こうちゃんの頭を撫でながら考えていた。

そう、きっとあのタイミングで、みっちゃんはあの日、洋子さんに逢って、全部が正解だったんだと思う。

だって、もう全ては過ぎてしまった事だったから。「こうすれば良かった」は存在しないし。

なによりも、洋子さんは幸せそうだったから。

洋子さんが亡くなった直後。みっちゃんから一通の封筒を渡された。

「自分が死んだらひまりに渡してって、頼まれていたの」

横浜開港何周年記念の時かなんかに買っていた、船の絵が書いてある封筒と一筆線だった。

「ありがとう」

たった五つのひらがな。洋子さんの綺麗な字。長々と書いたりしない洋子さんの簡潔な手紙は、その人となりを表すのに充分なものだった。

「ありがとう」は私が言わなきゃならなかった言葉。

私を産んでくれて、育ててくれて、洋子さんでいてくれて、こうちゃんを愛してくれて。

ありがとう。ありがとう。洋子さん。


またね。


白い小さな骨壷。

「アタシ持つわよ」ってみっちゃんは言ってくれたけど、なんとなく今日はお散歩したい気分だったから両手に抱えて家に帰った。(でもやっぱり途中で重くなったからタクシーに乗ったんだけど)帰ってから思いたって、物置からこうちゃんが乗っていたベビーカーを出して、骨壷をタオルと風呂敷で巻いてその上に乗せた。

みっちゃんとこうちゃんを連れて河原に行った。すごく良いお天気だったから洋子さんとお散歩したくなったのだ。

「これ、こうちゃんが乗ってたやつでしょ?こうちゃん覚えてるよ!」

ってベビーカーを押しながらはしゃぐこうちゃん。ホカホカのタイ焼きを食べながら私達は歩いた。私と洋子さんが、かつて二人で歩いた道を三人で歩いた。

「じゃぁ、お散歩ついでにアタシも洋子さん連れていきたい所があるの」

と言ってみっちゃんはベビーカーを押しだした。

「どこ行くの?」

急いで歩くみっちゃんの後ろ姿にそう聞いた。

「樫の木があった公園、アタシと洋子さんの思い出の場所よ」

電車で二駅ほど行った所にその公園はあった。樫の木があったと、みっちゃんが連れて行ってくれた所には大きな切り株が植わっていた。

「すっごく大きな樫の木でね、ここで洋子さんはよく本を読んでいたのよ、ね、洋子さん」

風呂敷の載ったベービーカーに話しかけるみっちゃん、傍からみたら「なんじゃそりゃ」な光景なわけなんだけれども。微笑ましくて幸せな柔らかい空間だった。

「少し、ふたりっきりになっても良い?」

私とこうちゃんは頷いた。

「んじゃさ、先に帰ってるね」

ありがとう、とみっちゃんは微笑んだ。洋子さんもそれを望んでいる事だろう。と思った。

みっちゃんは風呂敷に入った洋子さんを抱き上げて公園を歩きだした。

私とこうちゃんはみっちゃんのそんな姿を見送って駅まで歩いた。

「よっこちゃん、小さくなっちゃったね」

こうちゃんが繋いだ手を大きく振りながら言った。

「そうだね、赤ちゃんの時と同じくらいの大きさかもね」

言っていて気がついたけど、もしかしたらそうかもしれない。人間って、最終的に生まれた時と同じ重さになるのかもしれない。(勝手な推測だけど)

そんな事考えながら電車に乗った。お昼間の電車って、なんか明るくて好きかも。

人々は普通に生きていて、洋子さんは骨になった。洋子さんの温もりが無くなったから今日はこんなに冷えるのかもしれないな、なんて、いや、一月だから寒いの当たり前か。

「こうちゃんココア飲みたい!」

そう言ってこうちゃんは電車を降りるとすぐに自販機に駆け寄った。

牛乳たっぷりのココア、洋子さんもよく作ってくれたっけな。

「はいはい、んじゃ、これ入れて百二十円」と、こうちゃんに小銭を手渡した時。

背中の方から暖かい風が吹いた気がした。

「ひまり・・?」

振り向くとそこには七雄くんが立っていた。夢か、これは夢なのか、いやいや、幻覚?ううん、現実。確かにそこには私がずっとずっと会いたくて、ずっとずっと愛していた人が立っている。

驚きすぎて言葉も出ない。

「・・あの時の?」

七雄くんの視線の先には自販機の一番上に位置するココアのボタンをジャンプしながら押そうと一生懸命なこうちゃん。

言葉もだせない私は五回程ブンブンと頷いた。

「そっか、大きくなったねぇ」

そう言って目じりを下げて笑った七雄君はなにも変わっていないように思えた。

自販機に近寄り、ココアのボタンを押す七雄くん。

「あっ!ありがとう」

ココアを拾いあげて喜ぶこうちゃん。

こうちゃんの目線にしゃがむ七雄くん。

「どういたしまして、僕、君のお父さんだよ、これからよろしくね」

と、こうちゃんに屈託のない笑顔で微笑み握手を求める七雄君。

一瞬惑いながら私の顔をみるこうちゃん。私は再び五回程大きく頷く。

こうちゃんはそれを見て、笑顔で七雄くんの手を握り振りまわした。


あぁ、そうだった、私、この人のこういう屈託のない、優しくて純粋な所が大好きだったんだ。


私達はこれからを一緒に歩いて行くのかなぁ。

きっと、そうだといいな、ずっとそうだと嬉しいな。

ねぇ、洋子さん。貴方がくれた私の人生、なんて素敵に彩られているのでしょうか、ひだまりのように暖かく、ひまわりのように明るい。

私は貴女の娘で、幸せです。



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ひまり りんこ @yuribo

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