第13話 謎の男とのやり取り

 その男性は、俺の名を呼んだきり動かない。両者のあいだに流れるいやに奇妙な沈黙が、著しく長く感じられる。

 もしかしたら、向こう側の人違いだった可能性もある。こんなに沈黙が長いということは、多分そういうことだろう。今、彼は俺に対しての謝罪の言葉を必死に用意しているに違いないのだ。「他人の空目でした。申し訳ございません」ってな感じに。

「少年。さっき、私の姪と一緒にいたか?」

「……」

 空気の読めないおじさんである。これで、元から無かったであろう一縷の望みさえ絶たれてしまった。

 姪……? 姪ということは、この男はあの子たちの叔父なのか?

「さ、さあ、人違いじゃありませんか……?」

 どっと噴き出た冷や汗を全身に感じながら、俺は声を絞り出す。これが精一杯だ。緊張で嗅覚が肥大化して、嫌な汗の臭いが鼻につく。それと同時に、男からかすかな煙草の臭いを感じ取った。

「いや、断じて人違いではない。私はこの目でずっと見ていた。少年が私の姪たちと一緒にショッピングを楽しんでいたところをな」

 じゃあ聞くなよ。

「そ、そうですよね……。あはは……」

 俺の嘘があっさりと看破されてしまったこの状況は、有体に言って普通にまずい。今までの少ない会話から察するに、おそらく彼は俺とは初対面だ。顔も名前も知らないはず。したがって、記憶喪失であることがバレて身柄が拘束されて連行、といった最悪の状況には至らないだろう。問題は、記憶喪失容疑などではなく、未成年者淫行やら誘拐やらの容疑で連行される可能性の方が圧倒的に高いことであるが……。

 この男があの子たちの知り合いであるならば、ここで彼女たちがトイレから出るのを待つのは一つの選択肢としてある。あの子たちが何らかの言い訳を考えてくれれば、この状況を乗り切れる可能性があるからだ。

 それしかない。今はとにかく、俺の話術を駆使して時間を稼ごう。

 と思ったのも束の間、

「ちょっと話し合おうか。少年」

 そう言って、奴は俺の腕をひっ掴んで、無理矢理に男子トイレに向かって歩き出した。

「なっ……! お、おいやめろ! 離せ! この黒スーツ野郎!」

「私に逆らっても無駄だ、少年」

 男のその言葉には説得力がある。現に、俺は抵抗虚しくみるみるうちに身体を引き摺られてしまっているからだ。

 ……圧倒的な握力。非力そうな老人のものとは思えないその驚異的なパワーに、俺はなすすべもなかった。非常に不気味だ。

「私の姪は三人ともトイレが長くてね。しばらくはゆっくりと話し合うことができそうだよ、少年」

「……くそ」

 “前の人格”が筋力トレーニングを日課にしててくれていれば、と心の中で悪態をつきながら、俺は女子トイレという名の聖域を横目に男子トイレの中へと連行されるのであった。


「ここならあの子たちも来れまい。ゆっくりと話を聞かせてもらおうではないか」

 ネクタイのえりを両手で整えた男は、薄笑いを浮かべながら高圧的に言葉を投げつける。現実世界の歴史、あるいは漫画でよく見かける、逃げ場を失くした人質が尋問にかけられるシーンのただ中にいる。不幸なことに、それも便所で。なんたる屈辱か。

「俺の方に話すことは何もないぞ。黒スーツ野郎」

 俺は男を睨みつけ、敵対を表現する。

 男の表情は、ぴくりとも動かない。

「そうか。ならば、こうするしかないな」

 そう言って、男は端正に整えられたスーツのポケットから乱暴に携帯を取り出し、自身の右耳へあてがう。

「警察に連行してもらうことにしよう。未成年淫行、女児セクハラ、女児着替え覗き見、女児入浴覗き見、女児寝顔覗き見、その他もろもろのラッキースケベの代償を君自身の人生の時間と引き換えに受け入れてもらおうか」

 ニヤリと目を細めながら、110番TELの構えで脅迫をかけてきた。

「ま、待て待て待て! 何やらえらい数の疑いがあるようだが、俺は何もしてない! 着替えも風呂も覗いてないし寝顔は……置いておくにしても、俺は断じて潔癖だ! 俺はロリコンじゃない! ただ、あいつらの好意で俺は一時的に同じ家に住まわせてもらってるだけで……」

「ほう。私の姪たちと一緒に暮らしているのかね。一つ屋根の下にかね。ほうほう。ほうほうほう」

「……ノ、ノー、ノー」

 やべ。いらん情報までくれてしまった。この初老の男、見かけ通りの狡猾な野郎である。

 男の顔に影が差す。身長は俺の方が高いはずなのに、男に見下ろされている感覚がする。あまりに恐ろしいその容貌に、俺は肺に穴が開いたように不気味な過呼吸を繰り替えすほかなかった。

 男が、一歩、一歩と間合いを詰めてくる。な、なんだ。警察に電話するだけなら俺に近づいてくる理由などないはずだ。男の意図がつかめない。俺の人生終了を意味するカウントダウンなのか。男はまた間合いを詰める。もうあと二歩だ。もうあと二歩で俺の人生が終わるのか。俺にはまだ未練がある。桃子とはまともな会話ができず仕舞いだったし、青海の選んだ服だって本当は着てみたかった。そして雪那とは、もっと一緒に暮らしていきたかった。草野君を探し出す手伝いもしてやりたかった。

 前に雪那が言っていた。草野君を連れ去った連中は黒スーツ姿であったと。ひょっとしたら、こいつも彼らの仲間なのかもしれない。“記憶喪失者にかかわる保護法”に従い記憶喪失者に正義の槌を振り下ろす、そんな連中の。

 男が距離を詰める。一歩。二歩。骨が角ばり、しわの付いた男の両手が、俺の両肩に乗せられる。いつしか俺は、太陽を見つめて目をやられたように両目をきつく閉じて俯いていた。もう終わりか――。

「少年。君が、あの子たちの親代わりになってくれないかね」

「………………………………………………………………………………………………は?」

 俺は恐る恐る目を開いていく。そこには、きわめて老人らしい、少し悲しげに眉毛をへこませている男がいた。

「あの子たち……私の姪たちが、親の庇護なしに三人だけであの家に暮らしていることは、君は既に知っているだろう。今、私があの子たちの前に姿を現すわけにはいかない。見ず知らずの他人である君だけが、今は頼りなのだ。頼む、この通りだ」

 訳が分からず固まっている俺の目の前で、俺を見下ろしていたはずのあの恐ろしい男が、深々と頭を下げてきた。今度は、俺が男を見下ろす立場へと逆転する。

「ま、待ってくれ! 何が何やら良く分からない……というか、その、もしかして、雪那たちの両親って、もう……」

「いや、おそらく君の想像は間違っている。あの子たちの肉親は今も生きている。両親共にだ」

「……なに?」

 両親が生きていて、なんであの家には住んでいないんだ? よくよく考えれば実におかしなことだ。何故か今まで疑問に思わなかったが。特に理由がなければ、わざわざ別居する意味などない。ましてや雪那たちはまだ小学生だ。

「それには複雑な事情がある。あの子たちの両親はどちらも少し変わり者というか、一筋縄ではいかない人物なのでね……。特に、母親の方……すなわち、私の妹の方は、ある意味大物だ」

 男は顔を上げて、皮の厚い皮膚で覆われた瞳を鋭く光らせながら、俺の顔を水平に見つめてくる。

「複雑な事情って……。草野君のことですか」

 俺が草野君の名前を出した途端、男は一歩下がりながら信じられないといった風に目を見開いた。そしてワンテンポ、いやツーテンポほど遅れて、何故か柔和な笑みを浮かべた。

「なるほど……。君はよほど彼女たちに信頼されているようだ。草野君のことまで君に話しているのだからね」

「草野君のことを知っているんですか!? お、教えてください! 知っていることがあったら!」

 俺はいつの間にやら、男に敬語を使っていた。

「それは……」

 男が口を開いた途端、何やら木製の扉が開いたような音が聞こえてきた。おそらく、女子トイレの向こうから。

「……時間だ。これ以上長居すれば、トイレから出た彼女たちが君を見つけられずに不安がるだろう。君はもう行きたまえ」

「でも……!」

「ほれ」

 男は俺の手のひらを無理矢理開かせて、名刺サイズの紙をその上に乗せた。

「それでいつでも連絡してくるといい。尤も、私も知っていることはそう多くはないが」

「これは……何ですか?」

「いいから早くここを出なさい。そうでないと……」

 そう言いながら、男は110番TELの構えを見せる。

「で、出ます出ます!」

 なんとか丸く収まりそうなのに、最後の最後に通報されてはたまらない。俺は貰った紙をズボンのポケットに突っ込んで、男子トイレの外へ向かって駆け出す。

 トイレの外が見えるところまで来たところで、背後から男の声が飛んできた。

「ああ、そうそう。さっき私が言った複雑な事情とやらに草野君が関わっているのかという君の質問。あれは……」

 トイレとフロアとの境界を出る刹那、イエスだ、と聞こえた。

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