第12話 失敗の予感
ピカピカに磨き上げられた木製の床を踏み歩くと、自然と両脚から身体の安定感が消失する。
狭い店内に悠々と少数の衣料を並べているその様子から、この店で扱っている品物が相応に上等であることが察せられた。シックで落ち着いた木目の壁紙に、絢爛華美な英国風のクロックが備え付けられているのが見える。天井に規則正しく並べられた照明が、ショーケースや床、壁に反射して無数の白い道を作っていた。
(ここ、本当に服屋か?)
どこからどう見ても、大企業の社長だか課長だか、大統領だかが好んでやってくる店という印象しかない。ほら、デパートの最上階にある夜景が見られるレストランとか、洋風のホテルのエントランスホールとか、そんな感じのロイヤリティ。1Kに住んでいるような俺たち一般人を今にも排斥せんとする威圧感だ。
居ても立っても居られなくなった俺は、三人の少女へ視線を動かして、観察してみる。雪那は目を見開きながら、まるで慣れない人と組んだ二人三脚のように、恐る恐る足を踏み出している。桃子は、何か恐ろしいものでも視界に収めているのかと言わんばかりに身体を震わせている。そしてあの青海でさえ、言葉を失っているようだ。
察するに、三人も俺と同じ心境であるようだ。
俺は腰をかがめて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている青海の耳元まで顔を近づけて、囁く。
「おい青海、何ビビってんだよ。お前が連れてきたんだから俺の服をきちんと選んでくれ。そしてさっさとこの店を出るぞ」
「何言ってるのクロガネ君。私だってこの店に来たの初めてなんだよ? 私みたいなか弱い女子小学生に買いに行かせるんじゃなくて大人のクロガネ君が主体的になってよ」
「馬鹿。記憶喪失の俺がこんな挙動不審な状態でこの店の店員と会話でもしてみろ。バレるリスク大だぞ」
俺と青海が二人でひそひそ話の口論を交わしていると、キャビンアテンダントもかくや、といった服装の女性店員が、木製の床をカツカツと鳴らしながらこちらに近づいてきた。
まずい、と思ったときにはもう手遅れ。その女性店員は営業スマイルを浮かべてこちらに話しかけに来た。
「お客様。本日はどういったご用件でこちらへ?」
俺は冷や汗をかいた。チラリと三人の少女を窺い見ても、俺と同じように皆一様に吹き出す寸前のような表情に冷や汗を浮かばせながら固まっている。まさに機能不全の状態。
俺は再度腰を下げて、青海に耳打ちする。
「おい、あのお姉さんの『どういったご用件で』ってどういう意味だ? なんか、予約とかが必要な店なんじゃないだろうな?」
「そんなわけないでしょ……と言いたいところだけど、なんかこの店の内装を見てたら自信が無くなってきた……」
いかにも高級店っぽいこの店だ。なにか俺たち一般人には考えも及ばないようなレギュレーションでもあるのかもしれない。
俺は使いものにならない青海から視線を外して、懇願するように雪那と桃子を見る。しかし、雪那はただ小さい口をぱくぱくと開くだけで声がまったく出ていないし、桃子に至っては、関係者ではありませんといった風を装って店の外に出て行こうとしていた。
「あの、お客様? いかがなされましたか?」
再度、表情ひとつ崩さずにキャビンアテンダントが話しかけてくる。口調や態度はやわらかく、俺たちの溢れんばかりの挙動不審っぷりを気にも留めていない様子だ。
……俺が応対するしかないのか。よし、こうなったら……。
俺は、隣で謎に俺に対しての期待に瞳を輝かせているようすの青海の両肩を抱きながら、店員の方へ向きやった。
「すみません! この子が虚栄心を拗らせちゃってこちらのお店に勝手に入って行っちゃって……! このバカはきつく矯正しておきますんで! すみません失礼しっあした!」
俺はそれだけ早口に伝えると、雪那の背中を軽く押しながら店の外へと走り出した。最後は噛んだ。
「あ、ちょっと、お客様!?」
店員の呼びかけを無視して、ただ一刻も早く店の外へ出る事だけを考えて駆け抜ける。走りながら振り返ってみると、雪那と青海もただ訳が分からないといった風にドタバタと走っていた。
店外へ出るその刹那に、この店のある品物の値札が目についた。
……俺は吃驚した。
「ハァ、ハァ、ハァ………………。バカって何よ……、虚栄心って何よ……」
“高い店”から見えない場所まで走り抜けると、青海が息を切らせながら俺に向かって何やら抗議してきた。
「ゼイ、ゼイ、ゼイ………………。桃子の意見に逆らって“安い店”に入らずに、ゼイ、あの店を選んだのは、ハァ、お前だろ……。ちょっとは、ハァ、反省しろ…………」
桃子以外の三人は、皆両膝に手をつきながら荒い呼吸を繰り返し、体力の回復を図っている。桃子はというと、そんな様子を無表情で見つめるばかりであった。
「とりあえず……これからどうする……」
俺はべったりと背中に張り付いたシャツを扇ぎながら、雪那に問いかける。こういう時に事態の収束を図ってくれそうなのは、我らが頼れる雪那さんしかいない。
「あの、クロガネさん。それより私、トイレに行ってきてもいいですか?」
雪那は太もものあたりをもじもじと擦り付けながら、ほど近くに見えるトイレの方を見やる。俺はなんとなく、今の状態の雪那を直視するのがためらわれた。これはただの事実確認だが、俺の目の前に今、汗だくになって尿意を精いっぱい我慢している小学生の少女がいる。
「ユキチー、トイレ行くの? 私も行く」
「……私も」
青海と桃子も尿意を主張してきた。まさかまさかの、尿意少女が三人に増えてしまった。
「じゃあ、俺はこのあたりで待ってるから」
そう言って紳士の風体で三人を送り出した俺だったが、雪那だけは何か思い出したようにすぐにこちらに戻ってきた。
「どうした雪那。目のやり場に困るから、お前だけは特に早くトイレに行ってきてくれ」
「え、目のやり場……? どういうことでしょうか……? そ、それよりクロガネさん」
「なんだ?」
雪那は不安の色を瞳に浮かべながら、こちらの機嫌を窺うように見上げる。
「えっと……。クロガネさん一人をここに置いておくのが心配で……。もし私たちがトイレに行っている間に、誰かクロガネさんを知っている人が、クロガネさんに話しかけてきたらと思うと……」
「ああ、その話か。さすがにトイレに行っている間の数分程度なら大丈夫だろう」
女の子のトイレの長さは俺にはよくわからないが、さすがに心配するほどのことではないだろう。ましてや、このフロアには相変わらず女性しかいない。男性ならともかく、女性の知り合いが俺にいるとは思えない。記憶喪失の状態で言っても説得力はないが。
「で、でも……」
「なんだ雪那。そんなに俺のことが心配なのか? 心外だ。仮に何かあったとしても、俺はやるときはやる男だ。それはさっきの店で機転を利かしたあの逆転劇が証明していることだ。心配はいらない」
「……そう言われると、何故か余計に心配になるのですが……。わかりました。なるべく早く戻ってきますからね」
そう言い残して、雪那はようやく女子トイレに向かっていった。
「……雪那は良い奴だな」
雪那だけでなく三人ともそうだが。彼女たちは本質的に良い人間だ。信頼できる。そして、俺のような得体の知れない人間に対して親身になってくれている。記憶を取り戻す鍵を探してくれたり、寝床を貸してくれたり、さりげない世間話をしてくれたり……。
俺は、白い壁に囲まれたフロアの天井を仰ぎ見る。
(俺はいったい何者なのか……、いや、何者だったのだろう)
俺の“前の人格”が、せめて悪人でないことを願うばかりだ。実は前科持ちの凶悪犯罪者でしたとか、学校のいじめグループのリーダーでしたとか、そんなオチはごめんだ。
……でも、ならば俺は悪人でさえなければ、何者でもいいのだろうか?
自分の年齢もわからない。本名さえわからない。趣味も性格も、信条も主義も信仰も不明だ。家族構成も、今まで自分が何をして生きてきたのかも、霧がかかったように不明瞭のまま。
それは三人の少女もそうだ。俺は彼女たちについて、まだ知らないことだらけだ。お互いの腹の中がどうなっているのかを知らないで、顔だけ見せ合って暮らしている。
有体に言って、俺はそもそも“人間”という概念自体が理解できていない。俺の“前の人格”が知っている人間が、いまのところ一人もいないからだ。
俺の中に今、もっとも根本的で、もっとも恐ろしい猜疑がその身をよじらせているのが聞こえる。
……俺は果たして人間なのか?
「おい、そこの少年」
喉が、チクリ、と灼けた。
そのあまりに異質な声質は、俺に今いるこの場所がショッピングモールの衣料フロアの中だという事実を誤認させるほどの異常性を放っている。
「少年。聞こえないのか、少年」
もう一度、“声”は言う。しわがれた老人のようにも、精悍な青年のようにも聞こえたが、どちらにせよ俺の知っている声ではなかった。少なくとも、女の声ではない。しかし、周囲に男の姿など、一人たりとも見つけられなかったのだが。
俺は錆び付いた身体をギリギリと動かして、横目で“声”の姿を捉える。
“声”は、漆黒のスーツを身に纏った丸顔の男の姿をしていた。
年齢に関しては……。初老のおじさん、といったところだろうか。
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