第2章 記憶喪失者、外界に出る
第10話 雪那と過ごす朝
春らしい、整った暖かい風とやわらかい日差しが窓から差し込んでくる部屋の中で、俺は水気がすっかりと吹き飛んだシャツとジーンズを身につけて、鏡に映る自分の姿を直視していた。
あの夜、俺は街の中をふらふらと彷徨っていたみたいで、空腹と疲労で倒れた挙句、紆余曲折あって今は三人の少女たちの家に厄介になっている。鏡に映っている姿は、俺がその時に着ていた格好と同じだった。
(起きるのが早すぎたな)
俺のすぐ下には、三人の少女がそれぞれの敷布団の上で、雑魚寝のごとく眠っている。
この家にはベッドがひとつだけあって、普段は彼女たち三人でローテーションしつつ使用しているそうだが、俺がこの家に運び込まれたあの日の夜と、その次の日の夜は俺がその唯一のベッドを使う流れとなった。
俺は、雪那の寝顔にそっと自分の顔を近づけてみる。
長く伸ばされたまつげと、小さく主張する目鼻、ふっくらとした艶のある唇など、幼くも女の子らしい魅力的な顔のパーツが次々と俺の視界にとまる。
少し暑苦しそうに乱された布団の下には、チェックが入ったピンク色のパジャマが少し湿気を帯びているようにその姿をさらしている。
「うん……。すぅ……」
吐息のリズムに追随して、胸も上下に揺れ動く。パジャマが少しブカブカすぎるせいか、彼女の見た目からイメージされる身体の凹凸はほとんど“無”に等しかった。
(いや、“無”なのではない……。服の下という隠された領域がイメージを刺激して作られる理想の憧憬……すなわち“夢”なのだ)
幼き少女のみが持ち合わせる魅力に溢れている。小さな四肢を覆い隠し、少し乱れたその可愛らしいパジャマに俺は深い感動を覚えていた。
「……んんん」
ふと、雪那は不機嫌そうに周囲の布団をからめとりながら自分の身体を横に転がす。起きたのか、と思いきや、足を布団の下でもぞもぞと動かしたのち、また定常な寝息を立てはじめた。
壁に掛けられた時計を見る。もう朝の九時だったが、三人とも一向に起きる気配がない。尤も、土曜日なので小学校は休みのようであるが。
「……やることがない」
強いて言えば、少女たちの寝顔を観察するくらいのものだ。誰の邪魔もされず、好きなだけ寝顔が拝めるのは非常に嬉しいことなのだが、いかんせん張り合いがなくて少し退屈でもあった。
かといって、勝手に外に出ることはできない。俺がひとりで外出することは、雪那に断固禁止されている。
“記憶喪失者にかかわる保護法”なるうさん臭い法律によれば、記憶喪失者はその周囲の人間とのトラブル、あるいは予想される反社会的行為を予防するため、またその人間の支援のために、本人の許可なくとある施設に強制的に収容されるとのことだ。
つまり、俺が記憶喪失であることが家の外でバレたならば、たちまち一大事になる。
雪那を含めこの三人の少女は、俺がそうならないためにこの家に匿ってくれている、ということである。
特に雪那に関しては、草野君という少年がらみの悲惨なトラウマも持ち合わせているのだ。
「雪那……。雪那……」
俺はその横顔に向かって名前を呼びつつ、雪那の細く柔らかい腕を小さくゆする。すると、彼女は産まれたばかりの赤ん坊のように瞼をきつく閉じて唸った。
「もう九時だぞ」
「……はっ」
雪那は、夢から覚めたかのようにその小さな身体を勢いよく立たせる。
「今、何時ですか?」
「だから、九時だけど」
「……すみません、クロガネさん。こんな時間まで堂々と眠りこけてしまって」
腕をうんと伸ばし、大きくあくびをする雪那。漏れ出る声は鳥のさえずりのようにツンと高く、凛としている。
「いや、別に早く起きて欲しかったわけじゃないんだ。ただ……」
正直、暇だから構って欲しかっただけなのだが、それを正直に言えるほど俺は恥を覚えない人間ではなかった。
「ひょっとして、お腹が空きましたか?」
「ああ、そういうことにしておいてくれ」
「……? はあ、なんだかよく分かりませんけど」
きょとんとした顔で、ちょこんと布団の上に座っている。日差しがちょうどいい具合にカーテン越しに差し込んでいて、それは絵になる光景だった。
「土曜日は、学校がないんだろ? 起こしてしまって悪かったな」
「いえ。土曜日は隔週で学校があるんですよ。ですから、来週の今日はちゃんと早起きしなきゃいけないんです。そうだ、せっかくですし、ふたりで先に朝ご飯を食べましょうか?」
そう言って、雪那は未だ眠っている二人を眺める。青海は意外にも静かに寝息を立てて、しかし気持ちよさそうに眠っている。桃子はうつぶせになっていて、顔が良く見えなかった。
「確かに、今起こしたら可哀想だな」
この家では、昼間はこたつを部屋の中央に据えているが、夜になるとこたつをどけて床一面に敷布団を敷く。
俺たちは部屋の端の方で雪那の使っていた布団を畳んで隅に追いやり、脚を折りたたんで壁に立てかけてあったこたつをそこに配置した。
俺がこの家にたどり着いて最初に起きたときも、こんな感じだった。尤も、その時は朝ではなく、深夜だったのだが。
「最初は、なんで春なのにこたつが出ているのかと思ってたけど、布団を敷くスペースを確保するためだったんだな」
「そうですね。もっぱらテーブルのように使ってますし。この家、あんまり広くないですから、テーブルを置く場所が無いんですよね」
確かにそう言われてみると、この家にはテーブルが無い。さらに部屋を見渡してみると、ある家具が置かれていないことに気づく。
「勉強机のような類のものは、置いてないんだな」
部屋に置いてあるもので目立つのは本棚やタンス、テレビやゲームくらいのものだ。おそらく扇風機や加湿器くらいはどこかに収納してあるだろうとは思うが、全体的に物が少ないと思えた。よく考えたら、パソコンもない。
「宿題も、こたつの上でやるのが基本ですかね。青海は、面倒くさがって床に教科書とか広げちゃったりしますけど」
雪那が、ふたり分のパンをトースターに入れながら答える。
朝食の準備を手伝おうとも思ったが、冷蔵庫などを勝手に触っていいのかどうか分からないし、どういう食生活を送っているかも未知数なので、素直に座って待っていることにした。
雪那が焼きあがったパンと、牛乳瓶を両手に持ってきてくれる。
「俺もこの家に住まわせていただく以上、せめて家事くらいは手伝いたいと思っているんだけど」
雪那が俺の正面に座った途端、俺はそう口をついていた。
「別に今までも三人で家事は回していましたし、別に構わないですよ?」
「そうか……」
三人。
その言葉で、俺は確信を得る。
「やっぱりこの家には、両親が住んでいないんだな」
初めから、違和感のようなものはあった。
小学生にしては礼儀正しくてしっかりしている彼女たちは、親の庇護のもとで暮らしている多くの子供たちが持っている“何か”を、持ち合わせていないような気がした。
家の中の物も、すべて彼女たちだけで完結しているものばかりだ。
化粧台も髭剃り機もない。
洗面所にある歯ブラシは三人分しかなかったし、玄関にも大人用の革靴の類のものは見当たらなかった。
「……そうですね。今はこの家には、私たち三人しか住んでいません」
雪那の顔には、これ以上話したくないと書かれてあるようだった。
「申し訳ない。ただ、俺がこの家に住むとなったら、両親の存在を放っておくわけにはいかなかったから、確認したまでだ。あと一つだけ確認したいことがあるんだが、お前ら三人は姉妹か何かなのか?」
雪那が、さっきまでの表情に戻って答えてくれる。
「私たちは、三つ子なんです」
「へえ、三つ子……。三つ子!? ということは、学年は皆同じなのか」
「はい。まあ、クラスは違いますけどね」
三つ子とは、これまた予想外の回答が得られることとなった。
「なるほど。三人とも性格が随分と違うみたいだから、ひょっとしたら姉妹じゃないか、とも思っていたんだが、よもや三つ子三姉妹だったとは……。じゃあ当然三人とも同じ名字な訳か。えっと……」
「“桜井”です。私は桜井雪那って言います」
「桜井……」
ひょっとしたら失くした記憶の手がかりになるかもしれないと思ったが、残念ながらまったく心当たりのない名字だった。
「三つ子……。お前らが三つ子ねえ……」
「な、なんですか。クロガネさん、私は決して嘘は吐いていませんよ」
「いやだって、お前ら全然性格違うじゃん。青海は自由奔放で可愛い元気っ娘っていう感じだし、桃子は無口なキュートガールという印象だし、雪那は……」
俺は、食パンを両手に持って固まっている雪那の全身を眺めた。
「わ、私は、なんだって言うんですか」
「いや、何でもない」
なんとなく気の利いた冗談でも言うか、と一瞬思ったが、雪那に関しては容姿・性格共にあまりにも非の打ち所がなかった。
可愛いとか優しいとか何でも言えばいいのだが、気恥ずかしくて言えない。小学生相手にすら素直な言葉が口に出せない、そんな私は恋に恋する思春期の男子のよう。
「……あ、えっと、ほら。意外と寝相が悪いんだな、とは思った」
「なっ……。私だけその印象って、ひどすぎませんか!?」
「結構布団が投げ出されてたし。あとはまあ……。三人の中で一番しっかりしてる、と思う」
「……なんだか釈然としません。クロガネさんのバカ」
雪那はそう悪態をつくと、食パンを乱暴に引きちぎって口に含めた。ふくれっ面をして怒る彼女もどこか気品があってかわいいと思えた。
「とにかく、三人とも性格がバラバラで、全然三つ子には見えないなってことだよ」
「そうですね。私は青海や桃子と違って、可愛くともなんともないですからね」
「別にそこまでは言ってないが」
「分かってますよ、そのくらい」
なんだか不貞腐れてしまったみたいだ。「ふん」と鼻を鳴らして、それっきり会話が途切れてしまう。「分かってる」って、どっちの意味だろう?
気まずい沈黙が流れた食卓に、青海の寝息だけが聞こえてくる。
女の子とは言え、相手はあくまで小学生だ。そんな彼女との会話ひとつまともにコントロールできないとは、男として情けなくなってくる。
「安心しろ。お前も世間一般的に見たら十分に可愛い。記憶喪失者としての意見だ。参考にしてくれ」
「……はい」
返ってきたのは、生返事だけ。
さすがに、俺の並べた言葉がひねくれすぎていたらしい。
「お詫びに牛乳瓶のふたでも開けてやろうか?」
「……別に」
「そっか。……あれ、おかしい。自分の牛乳瓶が開けられない。クソ、めちゃくちゃかてえ! ぐぬぬぬぬぬぬ……。だめだ、まったく開かない」
「しょうがないですね……」
雪那が、やれやれといった具合に重そうに腰を上げて、俺の持っている牛乳瓶へ左手を伸ばした。
すると、彼女の指先が俺の手に優しく触れる。
「あ……。え、えっと、ほら、貸してください」
「は、はい」
彼女の顔がみるみるうちに紅潮するのが見える。
俺から半ば強引に牛乳瓶を取りあげて、慌てながらふたを開けてくれた。
「ほ、ほら、開きましたよ。これでいいですよね……って、ひゃあ!」
いきなり俺の方に牛乳瓶を押し付けようとするものだから、容器ギリギリまで入っている牛乳が勢いよく飛び出して、彼女の手にかかってしまう。
俺は近くにあったティッシュを一枚持ってきて、彼女の手を拭う。
「す、すみません……」
「いや、俺がやってもらったことだから……」
雪那はまじまじと自分の手を見つめている。しかし、牛乳のついた右手ではなく、左手を。
「ボーっとしてるみたいだけど、何かあったのか」
「な、なんでもありません! それより、朝ご飯が済んだら出かけますよ!」
「え、どこに? もしかして俺も?」
雪那は顔を赤らめながら牛乳を一気に飲み干して、俺の胸のあたりを指差した。
「今から、クロガネさんの服を買いに行きます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます