第9話 記憶喪失者の未来
外はすっかりと暗くなり、家の中の電気がまぶしく感じられる頃となる。
あの後、学校に行っていた青海と桃子が帰ってきて、着替えを済ませた彼女たちと晩御飯を食べる流れとなった。
食卓というには似つかわしくない、春なお出しっぱなしにされたこたつの上に食器が並べられていく。
食器と言っても、人数分の割りばしとコップだけの、ささやかなもの。それでも、狭いこたつの上には物があふれ、充実感と賑やかさがある。
「ふふ~ん。今日の晩餐は大好物の焼きそばだよ」
青海が、四人分のカップ焼きそばをこたつに並べていく。
「俺も食べていいのか?」
「もちのろん」
コンビニのビニール袋から取り出されたそれは、ソースがたっぷりと絡みついた麺が大きく映っている、食欲をそそるパッケージのカップ焼きそばだ。青海と桃子が帰りに買ってきたものらしい。
「いかにも添加物たっぷりで身体に悪そうっしょ?」
「そらまあギトギトしてそうではあるが……。じゃあ、なんでこれを買ってきたんだよ?」
「なんてったって、好きだから~。ふふ~ん」
そう言って鼻歌を歌い始めた青海は、得意げなようすだ。
「若いうちからあんまりレトルトばっかり口にしてたら、いつか吠え面かくぞ。五十年後くらいに」
「だって、ご飯作るのってめんどくさいんだもん。ねーユキチー?」
「……青海はいつも横で見てるだけですけどね」
そう言って呆れたように首を振る雪那は、しかしどこか自負のようなものを感じているかのように微笑んでいる。
「ところで、桃子は、カップ焼きそばは好きなのか?」
「ふぇ!? ……ええ、と」
急に話しかけられたことにびっくりしてしまったのか、瞳に渦巻を映しながらわたわたと慌てている。素朴で可憐な外見も相まって、なんだかイケないことをしてしまった気分になる。
「桃子ちゃーん?」
「ひっ」
桃子の小さな頭の上に手を伸ばしながら、白い歯を見せて優しくねっとりとちゃん付けでその名前を呼んだ直後に、彼女は台所にいる雪那のもとまで走って逃げてしまった。
「クロガネ君、きっとモモチーに危ない人扱いされてるんだよ。こいつはとんでもない変態だーって」
「は? 俺は変態ではないが?」
「そうだね。確かにクロガネ君は変態ではないね。ただ、ちょっと自分の欲望に忠実なだけだよね?」
「ああ、その通りだ」
俺と青海の会話を遠くから聞いていた雪那と桃子が、呆れたように深いため息を吐いているのが視界の端で確認された。
「はい、クロガネさん。このお湯を麺の上に注いでください」
雪那が恐る恐るといった感じで、重そうに電気ポットを持ってくる。
「俺が先に使ってもいいのか?」
「えー。青海ちん、今から食べる気満々だったのに」
「クロガネさんは客人だからね」
雪那はそう言って微笑む。あまりに良い娘すぎて直視できない。神々しい。
「ねークロガネくん。待ちきれないからさ、お湯を半分こしない?」
「それだと、麺が半身浴みたいになってしまうのだが」
「代わりに倍の六分待つから」
「そういう問題ではないのだが」
「えー。半身浴で長ーくお湯につかるのは、血流を促進させて冷え性対策になって身体に良いってこの前テレビで言ってたんだけど、クロガネ君知らないの?」
信じられない、といった様子で、青海がニヤニヤしながら俺の脇腹を人差し指で突いてくる。知識面で優位に立てたと思い込んで、勝ち誇った様子だ。
「麺には血液も流れていないし、冷え性といった人間にのみ共有される概念など到底通用しないように思われるのだが」
「クロガネ君。何を言っているかさっぱりだよ。日本語を勉強しなおしてから発言してくれたまえ」
「……俺、少なくともお前より五年分くらいは日本語能力が上だと思うけどな」
朝顔のようにニコニコしている青海を見ていると、得意げにマウントを取られたことも至極どうでもよく思えてくる。この娘には、そんな魅力があった。
「じゃあさ、今からゲームで対戦しない?」
「は? ゲームってなんだよ」
「ゲームっていったら、テレビゲームしかないでしょ? うちにはたくさんゲームがあるから、これからうちに暮らし続けるんだったら、クロガネ君も退屈しなくて済むね」
青海は前かがみになって、棚の一番下からいくつものカセットを両手でポンポンと床に放り投げていく。
俺はこちらに向けられた青海の揺れ動く尻を視界にとらえることで頭がいっぱいだったが、やがて隣に座っている桃子の例の鋭い視線(浴びると罪悪感に苛まれて死ぬ)によって泣く泣く権利を放棄せざるを得なかった。
しりをみる権利、縮めて“しる権利”の侵害だ。
「はいはいクロガネ君! 隣座って、早く!」
「おい待て、引っ張るな。というか、飯はどうした、飯は」
「そんなものは後回しだよ!」
俺と青海が、顔の大きさほどの小さなテレビの前に並んで座り、青海が用意したコントローラーを持つ格好となる。
「三本先取で、勝った方が先にお湯を使う権利を得るっていうことでいいよね、クロガネ君?」
「待て。その前にこのゲームのルールを教えろ」
「Aで高速落下! Bで入れ替え! 方向キーで移動! Lで左回転! Rで右回転! スタートボタンでポーズ!」
「おいおいおい、一度に言われてもわからん。というか、操作方法だけじゃなくてルールを教えろっての」
「バーンってなってギューンって攻撃して上まで詰まったら勝ち!」
「よくもまあその口で日本語能力が云々って俺を馬鹿にできたな」
「じゃあ始めるよ?」
青海がボタンを押すと、ゲームが開始される。
「おい、どうやったらお前みたいに高速でブツを落下させられるんだ」
「Aボタンを押したらいけるよ?」
いともたやすく言ってくれるが、俺はコントローラーのどこにAボタンとやらが配置されているかがまず把握できておらず、結果的にコントローラーを眺めて奮闘するのに必死で画面を見ることができなかった。
「勝ち!」
「……えーっと、左の人差し指に当たってるのがこのボタンか……」
「クロガネ君、もう終わったよ?」
「え? ……ほんとうだ」
俺がようやく画面に視線を戻すと、半分に分かれた対戦画面が今回のゲームの勝者と敗者を静かに告げていた。
「あと二本取ったら私の勝ちね?」
「あ、ああ」
もう一度ゲームが始まる。
今度は少し慣れてきたために一度目の対戦よりは善戦したが、やはり青海の圧倒的なボタンさばきには勝てるはずもなかった。
まるで、スマホのフリック入力がやたらと早い若者の姿を見て感嘆する老人のような心境だ。
「あの、クロガネさんと青海の分も、焼きそば、作っておきますね?」
「「任せた!」」
俺と青海は、ゲーム画面から目を離すことなく同時に返事する。
三度目も終了。結果は惨敗。というか、そもそも何をやるゲームなのかすらよく分からないまま終わった。
「……というわけで、やはり日本語能力は私の方が高かったということだね」
「なんでそうなる!? お湯を先に使う権利を争う勝負だったはずだろ?」
「というかクロガネ君。このゲームやったことなかったの? 割と有名なゲームなんだけど」
「当たり前だ……いや、というか、記憶喪失だからそんなことわかるわけねえだろ」
いつの間にやら俺たちの勝負を観戦していた雪那が、カーペットが敷かれた床に足を擦りながら俺と青海の間に座る。
「青海。クロガネさんは記憶喪失なんだから、あまり軽々しくそういうこと尋ねるのはやめた方が良いよ。記憶がないことに対してあれこれ言う筋合いは無い」
そう言う雪那の顔は、普段青海に見せる表情とは打って変わって険しいものだった。責めるような、とまではいかないものの、罪の意識を自覚させる力に満ちた目だ。おそらく、今現在記憶喪失でいろいろと複雑な俺のことを庇ってのことだろう。
しかし、そんな雪那を前にしても、青海は得意げな様子だった。
「違うよ、ユキチー。クロガネ君も言ってたでしょ? 記憶喪失だけど、挨拶とか呼吸とか、『運動を伴う行動はできる』って。ゲームだって同じじゃない? 一度やったことがあるゲームなら、脳がやり方を覚えてなくても、身体が覚えてる可能性は高いと思うよ」
「……確かに」
説得力がある。
今のところ、俺が忘れていると確認できているものは、名前や住所などといった個人情報に関わるものだ。日常生活で行っている当たり前の行動は、まさに身体が覚えている。
「つまりここから分かることは、クロガネ君は過去にこのゲームをプレイしたことが一度もない、ということだね」
雪那は、目を見開いたまま固まっている。こんな方法は思いつかなかった、といった風だ。
「これからたくさんゲームをしていけば、クロガネ君がどのゲームがやったことがあるかが分かるっていうことで……、じゃあ次はこのゲームで対戦しない?」
そう言って、青海は床に散乱していた他のカセットを掲げて、俺に見せつける。
「クロガネ君が買ったら、何でも言うこと聞いてあげるよ?」
「悪くない取引だな」
「えっちなこと以外で」
「……この無能が」
それからというもの、俺と青海は、実に五本くらいのゲームで対戦を繰り返した。
結果、全戦全敗。どのみち、えっちなお願い事になどかすりもしなかった。
どのゲームでも、操作方法もルールもまったく分からず、ただ青海のボタン入力の音とゲームの効果音に翻弄されているうちに終わってしまう。
さっき青海が言ったことが本当ならば、記憶を失う前、俺はこれらのゲームを遊んだことが一回もなかったということになる。
それは、俺自身、どこかで実感していることでもあった。
コントローラーの固い感触はまったく指に馴染んでいなかったせいか、ゲームを終えた頃には指に激痛が走るほどだった。
「ねえ、クロガネ君」
「なんだよ」
「楽しかった?」
青海にそう尋ねられた俺は、返答に詰まる。
楽しかったのかどうか。楽しかったと言えば嘘ではないけれども、どこかしっくりしない表現だとも思えた。
「……なんというか、未体験の感覚だったよ。またやりたいな、とは思った、かな」
まだまだ遊び足りない。背中がそわそわするような、そんなもどかしさが全身を打つ感覚だけが残っている。
これはきっと、子供だけが持ちうる感情なのだろう。青海や雪那のような年頃の子供だけが持ちうる、待ち遠しくて仕方がない、という感情。
(俺も、こいつらみたいな感情を共有できている、ということなんだろうか)
俺は記憶喪失だ。
しかもその上、この街には記憶喪失者を“安全保護”という名目で隔離させるための法律があるという。
つくづく、不幸だとは思う。
でも、その分、俺はめまいすら覚えるほどの、大きな感情の動きに優しく包まれているようでもある。
この三人の少女と共に過ごしていく中で、幼い子供特有の喜びや悲しみといったものを、彼女らと共に学んでいけるだろうか。
そうだ。誰が何と言おうと、俺は記憶喪失だ。記憶がないということは、先入観や偏見もないということ。
つまり、世の中のことを何ひとつ知らない、産まれたての赤ん坊のようなものなのだから。
赤ん坊らしく、いろいろなものを吸収して、生きていけるのだろう。
麺をすする音が聞こえてくる。
雪那と桃子が、最後の一口を食べ終えようとするところだった。
「……そういえば、ユキチーがお湯注いでてくれてたんだっけ?」
「……忘れてた」
俺と青海のカップ焼きそばは、お湯を捨ててから何十分も経過していて、すっかり冷めていた。
「……あの、雪那さん」
「私に言われても、どうすることもできませんよ。神様や仏様じゃないんですから」
「……はい」
俺と青海は、冷え切って固まってしまった麺を苦々しい顔ですすりながら、争いは何も生まないということを学んだ。
いろいろなものを吸収して生きていく。水をたっぷりと吸収した、この麺のように。
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