第8話 午後の読書時間

「すー。すー……」

 草野の名を寝言に出してから、しばらくすると彼女はまた穏やかな眠りに落ちていた。

(今、何時だ……?)

 俺は、彼女の頭を撫でるのを図々しく再開しながら、壁にぶら下げられたアナログ時計の方を見る。

 三時半だった。

 草野という奴は今頃、何処で何をしているのだろうか。

(分かんねえなあ……)

 いろいろ考えてもみたが、やっぱり例のルールの存在意義がよく分からない。

 記憶喪失者が社会から隔絶されることによって周囲が受ける悲しみが、記憶喪失者が引き起こすであろう犯罪による社会全体が被る不利益よりも、期待値的には小さいということらしい。

 ただでさえ、俺たちは不安だというのに。

 記憶喪失者に、いったい何のうらみがあるというんだ。

「……なんか無いかな」

 雪那に触れている手を離し、固まりきってしまった両足をほぐしながらその場を立って、近くにあった木製の大きな本棚の方を見る。

 同じような色の、同じような厚さの本が何冊かでセットになっていて、それが延々と繰り返されていた。

「漫画しかねえな」

 活字の類の本が、まるで見当たらない。

「この家、マジでこいつらしか住んでないんかな……」

 記憶喪失についての情報をとにかくかき集めたい気分だったが、この家にいる限り期待はできなさそうだった。

 仕方がないので、代わりに適当な漫画の一巻目を取ってみる。思った以上にギッシリと本が詰まっていて、摩擦によって飛び出てくる周囲の本を抑えながら引っ張り抜くことになった。

 一ページ目から開いてみると、細い線によって彩られた女の子と、デフォルメ化された男キャラ数人が見開きに描かれている。

 少女漫画っぽい雰囲気だ。

「この女の子が主人公かな?」

 見た目的には、雪那に少々似ていた。

 主人公の女の子の自己紹介から物語は始まる。

 十四歳。中学生。自称平凡。テストの点は四十三点。“まろん”という名前らしいが、無視して雪那だと思い込むことにする。

 両親は自営業でケーキ屋を営んでいるが、脈絡なくいきなり潰れかける。

 両親は女性客を取り込むために、ケーキ屋のバイトをしてくれる格好いいクラスの男の子を探してくるようにと、主人公に頼み込む。結構な無茶振りをしている割には、主人公に対して「色気がないから色仕掛けで誘うのは無理だな」などと余計なことを付け足す。

「雪那、かわいそうだな……」

 主人公が教室に入ると、年に数回しか学校に来ないという現実離れしたイケメンアイドルが都合よく登校してきたところだった。

 次のコマでは学校じゅうの女の子が一瞬にして飛来してくるが、イケメンはそれをけんもほろろに突き放す。

 一方、周りの男子生徒たちは、事前に打ち合わせでもしてたのかというくらい皆同じ方を向いて、嘆きの言葉や嫉妬の呪詛を口にしていた。

 イケメンアイドル君は、主人公としては絶対に見逃すわけにはいかない好物件であったが、彼の周りにはいつも女の子が纏わりついていて、話しかけるチャンスがなかった。

「なんというかこう、こいつらの学校生活は無駄にハードルが高いな」

 と思ったら、イケメンが運よく主人公に話しかけてくれた。

 目の前にはうっすらと微笑む美形の男子。いきなりのことで、主人公は何も話せずにその場から走り去り、チャンスをふいにする。

「雪那、なにやってんだよ……」

 そんな主人公を眺めていたイケメンが、急に不敵な笑みを浮かべて「ふふっ。この僕から逃げられるとでも思ってるのかな……?」などと独りごつ。

 ワル男のスメルがする。

 次のページをめくってみると、一瞬で放課後が訪れる。クラスの女子生徒によると、彼は百日に一度のペースでしか登校せず、したがって今日を逃せば百日間彼に会えないということだった。

「彗星みたいな奴だな、こいつ」

 なんて思っていると、主人公がいきなり廊下で転んでスカートから下着が露わになる。それを見ていたのは当然、クラスのどうでもいいモブ男子共などではなく、あのイケメンだった。

「雪那のぱんつを見ていいのは俺だけだ……!」

 イケメンは主人公を人気のないところへ連れ出して壁ドンし、交換条件を持ち出す。その内容は、自分が今度出演するドラマの相手役になってもらう代わりに、主人公のケーキ屋の手伝いをするということだった。

 彼は普段から、主人公の両親がやっているケーキ屋に足繁く訪れていて、主人公のことも知っていたというらしい。ドラマの相手役は元々とある人物に決まっていたのだが、なんだかんだ諸行無常的な何かがあって勝手に辞退したらしい。主人公にお鉢が回ってきたのはそのためだ。

 主人公は、まさか国民的アイドルが自分の事情を知ってくれているということに胸をときめかせるが、俺はそれよりも、ケーキ屋に何回も足を運ぶ余裕があるんだったら百日に一回と言わずもうちょっと頑張って学校に行けよとか思ってしまった。

 というか、ケーキ屋の手伝いなんかやってる暇ないだろ。

 主人公は、自分のような凡人にはドラマの相手役など無理だと断ろうとするが、イケメンは楽しそうに「さっき見えたぱんつの柄の情報を学校じゅうに流す」と言って主人公を脅す。

「いや、お前こそこんな脅迫をしてたことを世間にバラされたら、もうアイドル活動できなくなるだろ」

 主人公は結局あの交換条件に了承してしまい、イケメン君は最後に「僕はずっと、エプロンを着て店の手伝いする君の全身を見ていた。ついに僕の夢が叶った……。ふふ、ふふふふ……」と言い残して去って行った。

 主人公は、何を思ったのかそんな彼を見送りながら頬を赤くしていた。

「雪那……。頼むから、俺のためにももう少し抵抗してくれ……」

 まあとにかく、両親から否定されていた主人公の色仕掛けが知らないうちに成功していたようで何よりである。

 第一話はこれで終わった。

「意外と面白いな……」

「気に入りましたか?」

「ああ。だがな、雪那。お前はこの漫画の娘みたいな、スケベな男に釣られるような女になったら駄目だぞ」

 俺は漫画を本棚に戻し、後ろを振り返る。

「……って雪那!?」

「いや、誰だと思ったんですか」

「いつの間に起きてたんだ!?」

 雪那は突然、スカートの裾を握り締めて、内股になりながら後ずさった。

「クロガネさんが、私のぱんつを見る発言をした時には、もう既に」

「何が悪い!?」

「何が悪いじゃないですよ! 断じてぱんつを見ることは認めません!」

「だってお前、こんな漫画を持っているってことは、イケメン男子からエロい脅迫を受けるシーンも含めて主人公に自己投影しながら読んでるってことだろ!? この主人公、どう見たって雪那にすげえ似てるしな! この変態が!」

「主人公に勝手に私を投影していたのはクロガネさんですよね!?」

 何も言い返せなかった。

「それに、この漫画は青海のものです……」

「なんだ」

 確かに、雪那よりも青海の方が好き好んで読みそうな漫画だった。

「あのですね……。クロガネさん、いいですか? 青海や桃子のためにも、今のようなセクハラ発言は控えてください。しまいには追い出しますからね」

「はは、追い出す……。追い出す?」

 雪那のその言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。

「まあ、追い出すのは冗談ですけど……って、クロガネさん?」

 被害妄想が肥大化し、暗雲が立ち込める。

 下手なことをすれば、俺は、追い出される……?

「あ、あの……。聞いていますか?」

 もしそうなったとすれば、もし最後の砦であるこの家を依り代にできなくなったとすれば、俺はどうやってこの世界で、この街で生きていける?

「あ、ああ。すまん何でもない」

 脳の情報が、一秒たりとも休むことなく書き換わっていく。

 記憶喪失者の隔離。未来の犯行を未然に防ぐ、不文律めいた世界のシステム。

 それは決して、治安を良くするためだけのものではない。記憶喪失者という“異常者”を社会という枠組みから追放し、国民の一体感や安心感を得るためのものだ。

 ……純化への渇望。より良い共同体を構成するために行われる、機械的淘汰。

「あの……。どうしたんですか?」

 俺たち“異常者”は淘汰される。大義のためでも無ければ、独裁のためでも無い。身体が汚れたら風呂に入る。いや、毎日、夜になればそれだけで風呂に入る。そんな形式的であるだけの理由のもとで。

「え、ええ? んん?」

 だから誰も反対しない。この法律はしぶとく、図太く生き残っている。

 人類、皆、潔癖症。汚らわしいほどに。

 目の前の少女が、悪意の塊のように思えてくる。

 俺を社会の生贄にする、政府の手先。

 いや待て。彼女は俺の味方であるはずだ。彼女たちがあの夜、死にそうな俺を助けてくれた。命の恩人だ。

「あの、大丈夫ですか!?」

 ――あの少女が優しかったのは、その時はまだ、お前が記憶喪失であることを知らなかったからだ。

 違う!

 現にこいつらは、俺がどのくらい記憶が残っているか調べようとしてくれたりして、俺に協力してくれた!

 ――その結果、お前が何もかも思い出せないことを知って、手に余るようになった。

 雪那は、過去に俺みたいな奴が消えてしまった過去があるから、絶対に俺を見捨てたりはしない!

 ――だいたいさあ。


 ――お前のような外にも出られない、何も生産できないような奴が、いったい何の役に立つって言うんだよ?


「クロガネさん!」

 身体が強く揺さぶられる感覚……いや、その事実そのものに、俺は我に返った。

「いったいどうしたんですか……?」

 腫れたように赤くなっている雪那の顔が見えた。

「え、俺、何かしたのか?」

 俺の腰を、まるで引き剥がすかのように彼女の両手が強く掴んでいる。

「なんか、すごくうわの空でしたけど……」

「うわの空? 俺が?」

「呼びかけても、生返事しか返ってきませんでしたし……」

「……まったく記憶にない」

 そう言われれば、そうだったのかも。

「もしかして、私がクロガネさんを“追い出す”と言ってしまったから、ですか?」

 その言葉を聞いて、背筋が凍りつくのを感じた。

 言葉というものは、良いようにも悪いようにも使えるものだ。しかし、この“追い出す”という言葉には、圧倒的な嫌悪感しか抱けなかった。

「……そうかもしれない。俺、“追い出す”って言われた時、まるで自分の身体が自分の物じゃないような感覚に陥って……。それで……」

 軽くパニックになる。

 雪那が俺を見捨てるなんて、ありえない。たった一日ちょっとの縁でしかないけれども、俺は確信を持ってそう言える。そう思っていたのだが、現に今、雪那のちょっとした冗談を真に受けて、記憶が飛ぶほどの衝動を受けてしまった。

「ど、どうしたんだろうな、いったい。別に気にすることはないと思うぜ? 悪かったな」

「……私」

 雪那が、何の意味も持たない俺の先の発言に覆いかぶせるように、唐突に語りだした。

「私、昔に草野君が私のもとからいなくなっちゃって、その時すごく悲しかったことを覚えているはずなのに……。親しい人が消える悲しみを知っているはずなのに、それでも、今もまた、クロガネさんに冗談交じりに“追い出す”なんて言ってしまって……」

 まるで異物を吐き出そうと必死になっているような声。その声に混じっている違和感に、俺はすぐに気が付いた。

「こんなんだから、こんなに薄情だったから、草野君もいなくなっちゃったんでしょうか……!」

 服の裾を握り締める所作。俯いて見えない顔。震える指。高低差の激しい言葉の紡ぎ。

 そのどれをとってみても彼女が泣いているようにしか思えなかったが、その証拠の涙はまったく見られなかった。

 それは彼女の強さゆえか、責任感ゆえか、無意識ゆえか。

 ただ純粋に、後ろめたいほど真っ直ぐに向けられた後悔の念だけが、この空間にこだましている。

「……俺だって、さっきは自分からこの家を出て行こうと思っていた。だから気にするな。それに、そのときも言っただろ。俺は草野君の生まれ変わりでもなんでもない。俺は俺だ。だから、雪那の過去のことと俺とは、まったく関係無い」

「……本当に、そうでしょうか」

「ああ、本当だ」

 俺は無意識のうちに、彼女の背中に手をやっていた。布越しに、雪那のあたたかい体温が伝わってくる。

 記憶は失っているけれど、きっと過去の俺も、こうやって誰かから背中を撫でられて慰められてきたのだ。

「雪那が俺のことを嫌っていないと知って、俺は嬉しいよ」

「……はい」

 まだ清算がついていない、といった様子ではあるが、少しは落ち着いてくれたようだ。

「ただいまー!」

 その時、玄関の戸が開く音と同時に、青海の元気な声が聞こえてきた。

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