第7話 少女たちの過去

「今の言葉……。いったいどういう意味なんだ」

 背後から聞こえてくる彼女の声が、俺が初めて聞くような悲しみに満ちた声質だったため、俺は自分で固めた決心を折りながら振り替えざるを得なかった。

「もしかして、前にもいたっていうのか。俺みたいな奴が」

 彼女は頭を垂れていた。

「私が六歳のとき、仲の良い子がいたんです」

 地面に向かって発せられたその言葉は、あまりにも静寂なこの家のありとあらゆる境界を反射して、震えたようなうなりをもって俺の耳に届く。

「その子とは、いつもよく一緒に遊んでいました。私とだけじゃなく、青海や桃子とも。でも、ある日を境に、その子の様子がおかしくなったんです」

「様子がおかしくなった? どういうことだ」

「それは、何と言ったらいいか……。今思えば、それは決定的な変化だったんです。話がかみ合わなくなったり、ボール遊びをしている途中なのに、ふらふらと何処かに行こうとしたり……。まだ六歳だった私たちは、あの子がある日いきなり私たちの名前を尋ねた時までは、その子の記憶がなくなっていることに気が付かなかったんです」

「……なるほど」

 彼女の語る、俺の知らない昔話。

 でも、俺が知らないのは、物語の途中の細かな描写と、登場人物の仔細な心内環境だけ。

 悲しい結末だけをあらかじめ知っている物語ほど、聞くのが辛いものは無い。

 おそらく、その子は……。

「……連れ去られたんです。スーツ姿の大人のひとに」

「……なんでだよ」

 理由は分かっているはずなのに、俺はそう問いかけてしまった。

「本当に、どうしてでしょうね」

 彼女がそう答えると、静寂がまたひとつ俺たちを覆った。

「ある日、私たちは庭に出ていました。その時は確か青海と桃子はその場にはいなくて、私とその子とふたりで、庭で遊んでいました。その最中に、大人のひとが来たんです。そして、そのまま草野君の手を引いて、連れて行こうとしました」

「その子の名前、草野っていうのか」

「はい」

「家族の人は、居合わせてなかったのか?」

「はい。草野君の両親も、私の両親もその場……つまり、庭にはいませんでした。いたのは、私と草野君と、その大人のひとだけでした」

 庭。

 果たして、この家にそんなものがあっただろうか。

「私はこのことを、まず青海と桃子に、そしてその後両親に伝えました。その時、両親の口から同時に発せられた言葉が、“記憶喪失者にかかわる保護法”だったんです」

 少し繋がってきた。

 草野という少年は、きっとその法律があるせいで、施設へと送られてしまったのだろう。

 そして、雪那にはそれが今現在、トラウマのようなものになっている。

 彼女の、数刻前の言葉が脳裏をよぎる。

『これ以上、記憶喪失の人が私のもとを離れていくのを、見たくないんです』

 俺が草野君のように蒸発してしまうことを、彼女は間違いなく恐れている。

「じゃあ、もしかして、五年前から今の今まで、草野君には一回も出会えてないのか?」

 俺がそう尋ねても、黙って首が縦に振られるだけだった。

「草野君は今、施設にいるはずだろ? 具体的に何処なのか、分からないのか?」

 またしても、身体の動きだけで否定を示す。

「草野君の記憶は失われたままなのか? 今どんな様子なのかとか、知らないのか?」

 追い詰められたような表情で、一回だけ、ゆっくりと首を縦に動かす。

「草野君の両親はなんて言ってた? 自分の息子が、記憶喪失であることを理由に施設に入れさせられることに、反対はしなかったのか?」

「……わかりません」

「……そうか」

 手がかりが何もない。驚くほどに。

 ただ何も分からないうちに、よく分からない理由で離ればなれにされ、周りの誰もかれもが口を閉ざして、まるで当たり前のことのようにその事実が規定されてゆく。

「クロガネさん……。お願いがあります」

 雪那が、ようやく首を起こしてこちらを見やる。

 懇願しているようにも、悲観しているようにも見えたが、現実に打ちひしがれているような印象は窺えなかった。

「記憶が戻るまで、私たちの家にいてもらえないでしょうか」

 その顔は、初めて会ったときに見た顔に似ていた。

 どこか、無限に広がる雪原に一輪だけ咲く花のような力強さを持っていて、凛とした面影を花弁とするなら、まだ多分に残している幼い少女としてのあどけなさは、それを引き立てるがくだった。

 未来への希望を感じさせる、空まで羽を伸ばした天使のような容貌。

 美しくて、きれいな存在。

 でもそれは、見る者を不安にさえさせるのだ。

「なあ、雪那」

 俺は今、どんな顔をしているのか分からない。

 あいにく記憶喪失であるから、自分がどんな性格の人間なのかすら曖昧なままだ。

 きっと今の俺は、この場の張りつめた空気に似て真剣な面持ちのはずだが、ひょっとしたらニヤけているかもしれないし、悲しんでいるかもしれないし、嘲笑しているかもしれなかった。

 自分が自分のことを分からないというのは、こういうことだ。

「ク、クロガネ、さん?」

 だから俺は、鏡の代わりが欲しくて、思い切り顔を近づけて彼女の瞳を覗き込んだ。

「俺はいったいどういう人間なのか、まだ分からないけど」

 彼女の両肩を、なるたけ優しく掴む。それが俺の物よりもはるかに小さくて華奢なのが、俺には不思議に思えた。

「俺たちが出会ったのは、それが偶然だろうと必然だとうと、はっきりとした因果があるように思えてならない。俺は草野とかいう子の生まれ変わりではないはずだけど、きっと俺は、お前らの側にいるために、今この場に存在する」

 彼女の瞳に映った俺の表情は、格好つけたセリフの内容の割には、思った以上に笑顔だった。

「そんな、気がするよ」

 花が花弁を広げるように、彼女にも笑顔が移る。俺のような空気の読めない笑顔とは違う、少女としての可憐さを見せた笑顔。

 でも、とにかく彼女に笑顔が戻った。だからそれでいい。

「……だったら、ちょっとだけ嬉しいような気がします」

 俺に、シリアスな言葉は似合わない。

 そう、彼女も言っているような気がした。

「これからしばらくお世話になる。よろしく」

「はい。これからよろしくお願いします。クロガネさん。えっと、ところで……」

「どうした」

「その……。顔が近いので、そろそろ離れてもらえませんか?」

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