第6話 雪那とバスタイム
雪那に説得された俺は、相変わらずこの家の中で自分でも驚くほどに悠々自適に午後を過ごしていた。
「湯加減はいかがですか?」
「……ほけー」
「あの、聞いてますか?」
「聞いてる聞いてるー」
俺は風呂を借りていた。
他人の家の風呂とは意外と使いにくいもので、さっきから三回くらいシャワーのノズルに頭をぶつけていた。
それにしても、「湯加減はいかがですか」なんて言葉を使える小学生って実在するんだな。もちろん良い意味で。
金持ちの家に産まれて徹底的にマナーや作法を教え込まれた、なんて極端なものではないにしろ、少なくとも気品のある親の元で“良く”育てられたのではないかという想像は容易にできた。
とりあえず、その湯加減そのものはこの上なく良かった。
「もう死んでもいいー」
このままこのお湯の中で溺れ死んでも悔いは残らない。そう思わせるほど、このお湯に含まれるストレス緩和成分は極上の心地を提供してくれていた。
まさに心の洗濯。敏腕カウンセラーばりのストレス吸着力。
俺自身がしばらく風呂に入っていなかったから、だけの理由では、このやんごとないリラクゼーションシステムの説明にはならないのではなかろうか。
調べてみたいと思った。
まず手始めにこのお湯を飲んでみることを試みたが、残念ながらここは女子小学生たちの暮らす家。純粋無垢な少女たちのお湯を口にかき込む純粋培養型変態男のレッテルを貼られかねない愚行に過ぎなかった。
仕方がないので、代わりに匂いをかいでみる。
雪那たちの微かなシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる……ことは残念ながら無く、単にさっきポンプの勢いが良く分からなくてちょっと過剰に付けすぎた自分自身のシャンプーの香りが虚しく鼻を通り抜けるだけだった。
いや、香りの絶対値的には大して変わらないだろうけれども、これを彼女たちの香りだと脳内変換して愉悦の彼方へと旅をする試みはあまりにも無謀だったし虚無だったし無様だった。
(それにしても、俺、意外と筋肉がついてないな)
ぐらぐらと不安定に揺れる、透き通るような水面をしばらくじっと見つめていると、自分の身体が徐々に浮かび上がってくる。
(大学生……。いや、高校生くらいか?)
中学生にしては大きすぎる身体で、大学生にしては幼すぎる顔つきのように見える。
少なくとも、一度も社会に揉まれたことの無いような見た目をしていた。
(……そろそろ上がるか)
何故だか分からないが、急に雪那の顔が見たくなった。
学生か、生徒か、社会人か。
この社会における自分の役割や立場というものが、まるでこの水面のように主観的に揺らいで消えていってしまうのではないかという不安感が生み出した、そんな支配欲めいた感情の動きのせいなのかもしれない。
俺は半ば衝動的に風呂場を出たものの、すぐに身体を拭いていないことに気づき、浴室に戻ってタオルで全身を雑に拭いてからまた慌ただしく浴室を出ると、洗濯機の中にいくつか衣服が入っていることに気が付いた。
(これはまさか)
私の予見によると、この洗濯機の中にはまだ幼い少女たちの未開拓の聖域が詰まっているはずだ。
俺の頭の中に、悪魔と天使がよぎる。
まずは悪魔が俺の左耳で、無理して背伸びした感じの陰キャのように囁いた。
「見ちまえよ。穢れを知らない少女たちの護衛である彼らも、主のいない状態では手も足も出せまいて……。今なら彼女らにバレることなく、好き放題拝められて、匂いを嗅げて、感触を確かめられる……。こんな千載一遇のチャンスを、みすみす逃すわけにはいかないだろ?」
悪魔が一通り喋り終わると、阿吽の呼吸で天使が話を繋ぐ。
「落ち着いてください。悪魔の言葉に惑わされてはなりません。これらはただの布です。所詮は生地と糸の集合体なのです。したがって目に入れて何も困ることは無いのです。これは唯物論に基づく大義名分なのです」
という訳で、結果、両者から肯定された。
「どれどれ」
俺は最大限の敬意を払いつつ、洗濯機の中を覗き込んで衣服を丸ごとゴッソリと取り出す。
なんと驚くことに、下着からシャツまで、服一式が揃っていた。
「Oh……」
俺の。
「Nooooooooooooooooooo!」
のたうち回った。
洗面所の中、そこらじゅうの壁に一通り頭をぶつけ回って、ようやく落ち着きを取り戻した。
(何故だ……)
俺は風呂に入る前に、確かに近くのかごの中に服を入れていた訳であるが、あの後雪那が洗濯機の中にそれらを移動させたらしい。
「クソッ! なんて仕打ちだ!」
俺は悔しさのあまり地団駄を踏んだ。記憶喪失のせいで今までの記憶が全部飛んでいるので、とりあえず覚えている範囲の中では暫定的に人生最大の屈辱となった。
とりあえず服を着ようと、さっきの衣類に手を伸ばしかける。
(いや待て。これは雪那が洗濯機に入れていた物だよな)
雪那は、おそらくこの服を後で洗うために洗濯機に入れたのだろう。確かに、改めて見てみると汗の跡やシミが結構付着していて、汚い。
こんな服で一晩あのベッドに入っていたのかと思うと、少し申し訳なくなる。
何はともあれ、この服が洗いに出されているということは、もしかしたら雪那が代わりの服を用意していてくれているかもしれない、ということだ。
そう思いながらあたりを見回してみると、俺が入浴前に服を入れたかごの中に、新しい服が綺麗に折りたたまれて鎮座していた。
慣れないながらもそれらを着て、鏡を見てみると、結構サイズがブカブカの男物の服であることが分かった。
(これ、誰の物なんだ? 男物の服をあいつらが持っている訳が無いし。ということは、あいつらの父親か?)
もしそうだとすると、この少女たちの家の中で何らかの拍子で本人とバッタリ出会ったりでもしたら、問答無用でポリのお世話になってしまいそうだ。
しかもこの服のサイズから鑑みるに、その父親は巨体であるはずだ。
彼の巨躯から放たれる華麗なる武術に瞬く間に翻弄され、息する暇もなくボコボコにされる未来を想像して凹んだ。
(とんでもなく危ない橋を渡ってるじゃねえか……)
なんなら、さっき雪那から聞いた記憶喪失の法律やら隔離やら云々よりも、危険度が高いまである。
俺は、もしかしたらこの先に既に親父さんが来ていないかと少し不安になりながら、洗面所のドアを開け放った。
「雪那。風呂上がったぞ」
部屋の中に呼びかけてみるも、返事なし。
こたつの方を見てみると。
「すー……。すー……」
腕をこたつの上で枕にしながら、雪那が身体を丸めて眠っていた。
ふと時計を見てみると、午後の三時だった。
俺が彼女らを起こしてしまったのが午前四時だったから、実に十一時間も経っていることになる。深夜に起こされたことと、まだ小学生の身体であることを考慮すれば、十分に納得のいく話だった。
「んんっ。……すー」
無防備に眠っている彼女を見ると、この娘の頭をなでなでしたい欲が胸の中で大渦をなす。
とりあえず我慢して、横顔を覗き込んでみる。
こちらもまた、俺の予想をはるかに超えたかわいらしい表情だった。
(眠っている間は、凛とした空気も隠せないのか……)
彼女の別の一面が見られたような気がして、すごく心が満たされた気分になる。
今なら、彼女の寝姿が見放題だ。
丸まった身体の端からのぞく私服のヒラヒラやスカートの端、少しだけはみ出た裾、ポケットから少しだけ顔を出したハンカチ、そして長く下ろされた美しい銀の髪などが、次々と俺の視界にとまる。
(こいつが、俺の服を洗濯機に入れたんだよなあ)
いったいどんな表情で、男の俺の服を触ったのだろう。堂々と触れただろうか、それとも片手でつまみながら嫌々洗濯機に放り込んだのだろうか。
俺は、後者の方がそそります。
(髪、触りたいなあ。一度くらい、いいよな?)
俺の中の悪魔と天使が、一緒になって「一回くらい大丈夫だよ。みんなやってるよ。心が満たされるよ」などと典型的な売人の文句を口にした。
右手を、ゆっくりの彼女の頭に乗せる。
(うわー。本当に触っちゃったよ)
いやまあ、これまでパンチラを狙ったり歯ブラシを使おうとしたり服を見ようとしたりと散々やってきた訳だが、生身の女の子に直接触れるのはやはり緊張するというものだ。
少しずつ上下に手を揺らしてみると、それ相応の弾力を持って感触を伝えてきた。
(心が満たされる感覚……!)
勢いあまって、集中力が高まったり痩せられたりしそうだ。
クセになりそう。
「ん……」
さざ波のようにランダムに揺れるはずの雪那の寝息も、今は俺の手の動作に呼応して動いてくれているように感じる。
俺の中にとどろく支配欲をそのまま具現化して、自己循環させるような行為。
頭に乗せた手のひらから彼女の熱が伝わってきてくるので、手が汗ばんでいないかと心配になって、今度は左手を彼女の髪に乗せた。
昨日の夜とは打って変わった、あまりにも平和で穏やかな午後。
俺がこんな立場だからこそ、俺は今この家にいられて、衣食住を誰かと共にすることができて、今、雪那のそばにいられる。
初めて、自分が記憶喪失であるという理不尽を、受け入れられたような気がした。
「あ……」
少女の頭が震えるように動いて、空気が抜けるような声が出る。
顔を覗き込んでみると、まるで腹痛に耐えているかのような苦悶の表情がにじみ出ていた。
「ど、どうした」
「行かないで……」
一瞬、それは俺に対しての言葉だと思ったが、目がきつく閉じられていて、その言葉の行き先がどこなのかが判然としない。
その言葉の先を聞くためか、俺は、彼女の頭を撫でる手を無意識に止めていた。
「くさの……くん」
それは、おそらく彼女の夢の中に登場する人物の名前。
しかし、俺にはその名前が、俺にとっても随分と身近な存在であるように感じた。
つまりそれは、その名前が彼女の夢の中だけでなく、俺の記憶の中にも存在することを意味する。
まるで、寝起きで忘れてしまった夢の中へもう一度潜り直そうとするように、俺は開ききった瞳を無理矢理閉じて、陽光に照らされたまぶたの裏側の白い幻想の中で、その名前を探し当てる。
なんのことは無かった。
それは、つい数時間前に、すでに彼女から発せられていた言葉だったからだ。
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