第5話 記憶喪失者の決意表明

 青海と桃子が登校した後、家に残った俺と雪那は顔を洗ったり朝食を取ったりして、朝の数十分を過ごした。

 顔を洗う時には、洗面所に並んでいる三本の歯ブラシを見て、どれが誰の物なんだろうと思考を張り巡らせたりした。

 歯ブラシはオレンジ・白・青の三色があり、形状はほとんど同じだった。おそらくセットで売られていた物なのだろう。

 隣で雪那が俺のための予備の歯ブラシを取り出してくれたところ、一瞬「どうせならこいつらの歯ブラシを使ってみたかった」と思ってしまった時はさすがに自分で自分のことが本気で気持ち悪いと思った。

 ……記憶を失う前の俺は、もしかして重度の変態ないしロリコンだったのか?

 ついさっきまで小学生のパンチラを狙っていた男だ。十二分にあり得る。

 自分で自分が信じられない。せめて、善人であってくれとは思うが……。

「あ、クロガネさん。しばらくそこにいてください」

 歯磨きを終えて(もちろん雪那が用意した歯ブラシで)、洗面所の扉を開いて部屋へ戻ろうとした俺を、雪那の声が止めた。

「どうして?」

「……着替えたいので」

 何? 雪那の生着替えだと?

 そういえば、まだ彼女はパジャマのままだった。ちなみに俺は、さっき鏡で見たところ、高いんだか安いんだかよくわからない、平々凡々な感じのシャツとジーンズを身に纏っていた。平均的、ごくごく普通すぎて、記憶を失う前の自分がどんな人間だったのかを探るためのヒントには成りえなかった。

 落ち着いて爪先立ちで見渡してみると、この家はそんなに広くないということが分かる。というか、部屋が、さっきまで俺たちがいたベッドやらこたつやらが置いてある部屋しかない。仕切りはその部屋と洗面所との間、洗面所と風呂場との間、あとはトイレの前のみ。

 ともすれば、小学生の彼女たちの着替えがのぞき放題という夢の王国のような間取りの家であるわけだが、ここでひとつ疑問が生じる。

 青海や桃子が、そして普段は雪那も、制服が必要な小学校へ通っているということだ。

 記憶喪失だからいまいち自分の思考判断に自信が持てないが、おそらくその学校は私立小学校で、したがって学費もそれなりに高いに違いない。しかも、一人ならまだしも、普段は彼女たち三人が同じ小学校に通っているわけだ。三人分の学費が積み上がっているわけである。

 それに対して、この家の妙な狭さ。金の匂いが感じられるものは、何一つ見当たらない。

 俺にはそれが、少々アンバランスであるように思えた。

「着替え終わりました」

 その声が飛んできたと同時に、洗面所のドアが開かれた。

 わざわざ彼女が開けてくれたみたいだ。つくづくこの家の娘たちは細かい気配りができて、なんというかもう頭が下がる思いだ。

「かわいいな」

 お礼の代わりに、私服姿の彼女に向かって言った。

「え? あ、ありがとうございます……」

 俺のこの発言が予想外だったのか、雪那は凛とした調子を崩すまいとしつつも、少し恥ずかしそうに耳を赤くしていた。

 もし着替えを覗いていたら、もっとステキな反応を見せてくれただろうか、と一瞬思ったが、さっきの桃子のようにまたあんなゴミを見るような目をされたらもう立ち直れないので、馬鹿な思考には蓋をすることにした。

 彼女の格好はシンプルだ。派手すぎない。どこにでも売ってそうなオレンジの長袖のシャツの上に、灰色のカーディガンを羽織っている。スカートは控えめに膝上まで伸ばされ、水玉模様が澄ました顔をして踊る。

 俺たちはまた、こたつの前で床に腰を落ち着ける。同時に、数時間前に彼女が発した、ある言葉を思い返していた。

『“記憶喪失者にかかわる保護法”という法律があるんですけど』

 それは、俺の記憶にない奇妙な文字列だった。

「ところで、お前がさっき言ってたことなんだが……」

 彼女がわざわざ学校を休んだのだ。大事なことに違いない。

「記憶喪失者の法律が云々っていうのは、いったいどういう意味なんだ?」

 俺のこの質問に対して、雪那は妙に「満を持して」という雰囲気を纏って、はっきりと口を開いた。

「この法律は、記憶喪失者を施設に隔離するための法律です」

 子供には似合わない“施設”や“隔離”といった単語が、ひどく晴れ渡った空を飛び回るカラスのように乱流をなす。

「隔離? 記憶喪失の人を?」

「はい。地域ごとにいろいろな場所に隔離されるみたいです」

 雪那のその言葉を聞いても、俺の残存する記憶に符合するものは見当たらなかった。

「それって、なんだ、一般常識の類なのか?」

「……と、言いますと?」

「俺はその法律のことを、まったく知らなかった。俺は確かに記憶喪失みたいだが、それでも人を殺したら捕まることや、リモコンの電源ボタンを押したらテレビがつくことぐらいはさすがに知っている。そんな俺が、なんでその法律のことを覚えてなかったのか気になるんだ」

 雪那は、「そう言われれば」とつぶやいて、しばらく天井を仰いだ。

「それは、私にはよくわかりません。とにかく私が言いたいのは、クロガネさんには不要な外出は控えていただきたいということです。クロガネさんが記憶喪失であることが世間にバレたら、施設に隔離されてしまいます。この家には、もういられなくなります」

 彼女の表情は真剣そのもので、話している内容が嘘や狂言の類であるとは思えなかったが、しかし言葉の字面そのものはあまりに胡乱であると言わざるを得なかった。

「外を歩くだけでもダメなのか? 人と会話するだけでも?」

「人と会話なんてして、例えば名前や職業なんて聞かれたら、何も答えられないでしょう? その時点でバレます」

「いや待て、仮に俺が記憶喪失だと知られたところで、施設に入ることを拒否できないのか? それとも、強制的に連行されるっていうのか?」

 俺のその質問に、彼女は悲しいでも嬉しいでもなく、こう言った。

「私が生まれる前の話なのでよく知らないんですが、昔、記憶喪失者による凶悪犯罪がよく起こったそうです。強盗や付きまとい、放火……。よって、記憶喪失者による犯罪を減らすために、この法律が作られたそうです。おそらく、隔離は強制的に行われると思います」

「……なんだそれ」

 俺は記憶喪失者、すなわちこの法律に密接に関係する立場であるのに、何も知らない俺にとっては空想の世界の話にしか聞こえなかった。

「そんなバカげた法律に、みんな納得してるって言うのか? どう考えても、あからさますぎる差別だろ? 強制的に連れ去られて施設に隔離される? 人権侵害じゃないか」

 俺の震えた声に、彼女の小さな肩が小動物のようにぴくっと揺れた。

「そうですよね。クロガネさんにとっては、まったくもって許せない話ですよね……」

 うつむいた顔からこぼれ出たその言葉が、俺を責め立てるようでいて、また彼女自身を罪悪感の針で突き刺しているようでもあった。

「……いや、別にお前を責めるつもりじゃなかった。悪い」

 俺は、さっきもこんな感じで雪那に詰め寄ってなかったか?

 雪那と青海と、そして桃子は、記憶の無い俺にとっての初めての人間で、それだけ尊い存在であることをしっかり頭に叩き込んでおかなければ。

 真面目な話、小学生に嫌われることほど、苦しいことはない。

「……とりあえず、俺は外に出ない方が良いってことか」

「はい。極力」

 その目には、ショーウィンドウの向こう側にある商品を欲しがる子供の面影が見えた。

 子供らしく、ふわふわと不安定に揺れ動く意志を、無理やり立ち昇らせている。

 しかし、俺にだって、等身大の欲求があった。

「悪いけど、それはちょっと現実的じゃないな。前も言ったと思うけど、俺みたいな奴がこの家に居座り続けることは良くない。俺が記憶喪失者ならなおさらだ。もしかしたら、俺の正体はとんでもない悪人なのかもしれないし、そうでなくとも、いつ何かの歯車が狂って、発作的な衝動を起こすかも分からない。だから」

 俺はそう言って、彼女に見せつけるように前かがみに立ち上がり、見下ろす。

「俺と出会ったことは忘れてくれ。食事を与えてくれて、寝床を貸してくれて、ありがとう。学校に行ったふたりにも、そう伝えといてくれないか」

 視線を彼女から外して、もう誰の制止も受けないという意志を肩で風を切る動作に乗せるように、あるいは一晩分の思い出を残したベッドや電子レンジを網膜に焼き付けるように、玄関に向かって歩き出した。

「……行かないでください」

「……恩返しができなかったことは、申し訳なく思うよ」

 彼女の言葉に反応して、けれども彼女の姿は無視して、俺は変わらず歩いた。

 俺はいったい、どんな人間なんだろう。記憶を失う前は何をしていて、どんな人格を滋養していたのだろう。

 その疑問だけが、今の俺を突き動かす糧であり、動力源であり、生きる意味である。

 ……そんな常識めいた信条が盲目の産物でしかなかったことを、俺は知ることになる。

 玄関に置いてある簡素なローファーに、目を吸い寄せられたのだ。

 左右対称に踵がそろえられて、上がり框の直近に整然と置かれている。

 それを見たとき、とつぜん自分の身体が千度の炎の中に放り込まれたかのような心地がして、放心してしまった。

「……それでも、行かないでください」

 十パーセントは、靴があまりに段差のすぐ近くに置かれていて履きづらいという、物理的な理由で。

「これ以上、記憶喪失の人が私のもとを離れていくのを、見たくないんです」

 残りの九十パーセントは、この家の温もりそのものを表しているような、そう思わせるほど美しく並べられた靴を文字通り踏みつぶしてしまうことへのためらいという、精神的な理由で。

「お願いです……」

 俺は、前に進むことができないでいた。


 心が痛むほどのこの優しさが、痛みを忘れたはずの俺の不動の意志に、限りなく遠慮がちに近い無遠慮をもって、土足で介入してきたのだった。

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