第4話 少女たちの朝
「もうこんな時間かー。ねみゅい……。学校だりゅい……」
青海があくびを噛み殺しながら、トボトボと洗面所に向かう。
気づけばもう朝だった。
俺が彼女たちを起こしてしまったのは午前四時のことだったらしく、なんだかんだ喋っていたらもう雀が日の出と同時に鳴き始めた頃だった。彼女たちは追加の睡眠をとる余裕もなく今から小学校へ向かうらしい。
カレンダーを見ると、今は四月。青海によると、始業式から約一週間が経ったくらいだということらしい。
シャカシャカと、気怠くも軽快な歯磨きの音が、この部屋まで聞こえてくる。
「すみません、クロガネさん。洗面所が空くまでもう少し待っていてくださいね」
雪那が依然パジャマ姿のまま、申し訳なさそうに俺に言った。
「気にするな。こっちは泊めてもらってる身だ」
基本的に、こんな無遠慮の塊みたいな俺とは比較にならないくらい、みんなは礼儀正しく優しかった。
神様。あるいは聖女。あるいは天使たち。
あるいは、最近の小学生って、みんなこうなのか? それとも、こいつらが特別なだけか?
前者なら素晴らしいことだ。でも、個人的には、後者であってほしいとも思ってしまう。その方が、この出会いが奇跡的なもののように思えるからだ。
「……ロマンチストバカか、俺は」
「どうかされましたか?」
「いや、こっちの話。ところで、お前もさっさと準備した方がいいんじゃないのか?」
「えっと、そのことなんですけど……」
「ユキチ―。洗面所空いたよ」
雪那の声を遮って、洗面所の方から青海がやわらかそうなタオルで顔面を拭きながら呼びかけた。
「青海、今日は私、学校休むよ」
ユキチ―こと雪那は、間髪入れずにそう返事した。
「え、マジで?」
顔を洗い終わって、ついでになんだかよくわからない清楚な服に身を包んだ青海が、その服に似合わない感じのぎょっとした顔で部屋に戻ってくる。
「先生には風邪だって伝えておいて」
「いやいや、ユキチ―は無断欠席するような悪い娘じゃないでしょ。どうしたの? そこの男にえっちな脅迫でもされたの?」
「おい青海。今すぐ俺と勝負しろ。ルールはない。ゴング鳴動後、先に相手を殺害した方が一ポイント。先に三ポイント獲得した方の勝利。敗北者は勝者に飯を丁重に奢ったのち一生奴隷のように跪いてから成仏すること」
俺は、唾をまき散らして相手の服にかかることのないように慎重に手で口元を抑えながら青海に早口でまくし立てた。
「いいよ」
「言ったな?」
「でも」
青海は、やんちゃな子供を諭す母親のように目を細めて、
「クロガネ君は今無一文なんだから、そんな人からご飯を奢ってもらうなんて、私にはとてもできないよ」
俺の剣幕に対しておびえた素振りを一切見せずに、ニコニコ笑顔でそう答えた。
「ふ、ふん……。俺に優しい言葉が通用するとでも思っているのか……?」
「だってクロガネ君、言葉遣いは荒いけど、根は優しそうだから」
「なッ……!? お、俺は、いったい何をやっていたんだ……?」
俺は、青海の無邪気であどけない笑顔を見て罪悪感で胸がいっぱいになり、うめき声のような嗚咽を静かに漏らして、それを見た雪那が「こんなクソ下らねえ茶番で朝の貴重な時間を奪うなこのクズが」みたいな表情を浮かべながら(誇張アリ)、俺の頭を優しく撫でてくれた。
「最初から自分が負けるのが前提なんですね……」
俺の耳元で、雪那が苦笑しながらつぶやいた。
「どうでもいいけど、時間がないから勝手に食パン焼いて食べてるね」
青海がそう言いながら、慣れた手つきでトースターに食パンを二枚ぶっこむ。
さっきの茶番は“どうでもいい”扱いされてしまった。
「それにしても、お前の着ているその服はなんだ?」
食パンが焼きあがるまでの間、暇を見つけたばかりの青海に話しかける。
薄くて柔らかい生地を使ったワンピース型の服をベースに、右肩や腰のあたりなどにいくつか幼いほどに小さく鮮やかな花弁があしらわれている。
頭に乗せただけのように大きくフカフカしてる帽子には、幾何学模様から美しい羽根が清水のように湧き出て纏っているかのように見えるマークと、これまた水のように踊っているアルファベットの字体が見られた。
「気になる? これはね、私たちの通う学校の制服なんだ」
青海は、ちょっと自慢気にはにかみながら答える。
「似合う?」
俺に見せつけるようにその場でクルっとターンする青海。その動作に合わせて、スカートがふわっと舞い上がって内側にある絹のようなフリルが顔を出す。
一瞬、自分がどんな顔をしているのかわからなくなるくらい、彼女の一挙手一投足をガン見してしまっていた。
「あ、ああ、似合ってる。と思う」
「思う? 思うだけ?」
「いや、事実、イデア上だけの現象ではなく、はい、リアルにかわいいと思う」
いきおい俺は頓珍漢な返事しかできなくなる。
「えへへー。みんなそう言うよね。やっぱりこの制服をデザインした人はものすごいセンスを持っていたんだなあ」
青海はなんだか感慨深いといった具合で自分の制服についている花弁を所在なさげにいじっているが、俺はそんなことよりさっきのスカートがフワッて舞い上がったあの現象が脳裏に焼き付いて離れない。
「なあ、青海……。もう一度、その場で一回転してくれないか?」
俺のマウスちゃんが、脳みそ君の許可なく勝手に口走る。
「え、いいけど……」
青海が頭上にハテナマークを浮かべながら、首肯する。
俺の考えていることがいまいち掴めなくて半信半疑に、といった感じで、さっきのターンに比べると明らかに勢いがなく、スカートめくりあがり効果も薄かった。
「もう一回!」
「う、うん!」
俺が喝を入れるように声を大きくすると、青海のターンもそれに比例して勢いが増し、その結果スカートめくりあがり効果(スカートの裾の相対的な鉛直方向の変位と、その速度の積に比例する物理量。比例定数はスカートの材質によってのみ決定され、これをスカートめくりあがり定数という)も予想通りの飛躍的な増大を見せた。
(これだ。この感じだ)
俺がさっき感じた、蠱惑的な背徳めいた鳴動が俺の心臓を握りつぶしてやまない。
「もっと! もっとだ! もっと激しく!」
「目が回るよおー。はらほれひれー」
本人もなんだか調子が乗ってきたようで、気が抜けたアホみたいな声を垂れ流しながら片足で床を蹴り上げつつもう片足を軸に回転する。
スカートの裾はその高度を維持しつつ、青海のアホボイスを取り込みながらまさに彼女の太ももという名の滑走路を離陸する寸前の飛行機のように上昇を続け、またそれはさらに太ももを纏うフリルという名の暗雲を払いのけるかのように振る舞い、俺はその晴れ空の先に広がっているはずの理想郷“ザ・パンツ・オブ・ウエスト”の形貌を一心不乱に刮目しようとした。
が、その時、裁縫針のように細く鋭い眼光が、俺をとらえているのを感じた。
それが青海のものではないことは、感覚的に理解できた。
ということは、残りの二人、雪那と桃子のうちのどちらか……。
俺は、洗面所の方に視線を手繰るように向けた。
「……」
そこには、ゴミを見るような目をして、直立してこちらを見ている桃子の姿があった。
いや、ゴミを見るというよりも、むしろ生々しくおぞましい生き物の汚らしい享楽的・肉食的・刹那的な生理的振る舞いすべてを鼻をつまみながら否定するかのような、幼い子供が持つ瑞々しさや純粋さといったものを完全に捨て去った感じの瞳であった。
「桃子……」
まるで人が変わってしまったかのようだった。
もう、楽しかったあの頃には戻れないのだろうか。
あの頃の、尊かった俺と桃子との関係は、取り戻せないのだろうか。
俺は、あいつとの思い出を頭に浮かべる。
(そうだよ。思い返せば、たくさん良い記憶があったじゃないか)
何時間か前、彼女の寝ているところに思いっきりボディアタックをかましたり。
電子レンジで温めたご飯を、親切に持ってきてくれたり。
あとは……えっと、変な自己紹介をしたり。
……以上。閉廷。
全然なかった。
万事休す。そう悟った俺は、きょとんと突っ立っている青海に見下ろされながら平身低頭して陳謝する他なかった。
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