第3話 少女との対話

「どんな記憶が残っているのか、ねえ……」

 俺は茶碗と箸をこたつの上に置いて、両手を組んで考える。

「うーん」

 いくら思考を張り巡らせてみても、覚えていることと忘れていることの境界線は見つかりそうもない。

 忘れている、という状態は、言わば無に等しい。無をあぶり出して視覚化するというのは難しいことだ。それこそ、実体のあるもので囲んでしまうしか、方法はない。

 自分が今、何を覚えていて何を忘れているのか、という問いは、宇宙の端はどうなっていて、どこまで広がっているのか、という問いと同じくらい難解だ。

「でも見たところ、忘れてるのは自分の名前だけみたいだよ?」

「あ、確かに」

 ご飯を食べたり、言語を扱ったり、肺を動かして呼吸をしたり……。そういった日常的な無意識下の行動は普通にできるみたいだ。

「なんかこう……、運動を伴う行動はできるっぽい。身体に染み付いているというか」

 少女たちに見せつけるように、肩を回してみる。

「自分の名前は思い出せないのに?」

「でも、確かに、他人から名前を呼ばれる回数に比べると、自分から名乗る機会はほとんど無いですしね」

 雪那が今言った言葉には、確かに説得力がある気がする。自分の名前というものは、意外と身体に染み付いていない不安定なものなのかもしれない。

「とりあえず、俺は必要最低限の一般的な常識は身についている、ということだな。挨拶もできるし、言葉も交わせるし、飯も食える」

「まあ、クロガネ君の命の恩人である私たちとの接し方は、これでもかというほど乱暴だけどね」

「ああ、今なんて言った? 今からこの場で洪水でも引き起こしてこの家丸ごと沈めてやろうか?」

「おーよしよし。泣かないでねークロガネくーん。いいこだー」

 伸びをして、俺の頭をなでてくる青海。

「……涙で洪水を起こすわけじゃないんだが」

 完全に舐められている。雪那も「完全に舐められていますね」とでも言いたそうにこちらを見ているような気がした。

 ムカついたが、女の子になでなでされたのは素直に嬉しかったので、それに免じて勘弁してやった。

「じゃあ、もう少し肝心なところまで話を踏み込みますね? クロガネさんは今、自分の住所とか誕生日とかを言えますか?」

「住所? 誕生日? ……いや、まったく思い出せない」

「家族は?」

「どうかな……。そもそも俺に、家族なんてものがあったのかどうかすら……」

「何の仕事をしていたとか、どこの学校に通っていたとか、そういうのは覚えてますか?」

「いや。そもそも、ついさっき死にかけてた時以前の記憶が全くない。働いた記憶も無いし、学校に通った記憶も無い。多分、何かしらはやってたとは思うが……」

「趣味とかは? ゲームとか漫画とか」

「……どうだろう。思い出せないか、あるいは無趣味だったか」

「そうですか……。じゃあ、昨日食べた晩御飯とか、昨日見た景色とか、そういう最近の記憶はありますか? 昔のことは思い出せなくても、つい昨日のことなら思い出せるかもしれませんし」

 質問の範囲がちょっと広くなったので、しばらく目を閉じて脳をフル回転させてみたが。

「……すまん。まったく思い出せない。本当に、さっきまで死ぬほど空腹が辛かったことしか覚えてないし、食べたご飯はこの卵かけご飯二杯分しか記憶が無い」

 交代交代で質問をしていた雪那と青海が、そろって口をつむぐ。

 あまりの記憶力の無さ――という言い方は適切ではないだろうが――に正直申し訳無さが込み上げてくる。

「ま、まあ、そんなに落ち込まないでよクロガネ君!」

 青海が笑顔を作ってフォローしてくれる。桃子も、心なしか心配そうにこちらを見つめていた。

「まあ、俺が記憶喪失だということは、おそらく間違いないようだ」

 このことを受け入れるのは、まるで自分が空っぽの人間だと認めているみたいで、少しばかり抵抗があった。

「これ以上のことは、実際に街を練り歩いてみるなりしないと分からないと思う。外なら、俺のことを知っている人が誰かいるかもしれないしな」

 俺は何気なく、そう呟く。

 すると雪那が、何か良くないことでも思い出したかのように顔をこわばらせて、俺の両手を引っ掴んだ。

「それはダメです。クロガネさんは、今絶対に外に出てはいけません」

「え?」

 俺が予想していた返事と、正反対の言葉。

 今この場において初めて、彼女の余裕のない表情というものを見た。

 加えて、目が潤んで見えるほどの真っ直ぐな不安の心も。

 俺は面食らう他なかった。

「じゃあ、夜が明けてからなら……」

「それはもっとダメです」

「なんでだよ? お前らが俺のことを知らない以上、他に俺のことを知ってる人を見つけるのが一番手っ取り早いだろ? それに、見たところ女の子しかいないこの家に、俺みたいな奴がいつまでも滞在しているわけにはいかない」

 この時初めて気づいたのだが、この家には“保護者”にあたる人間が存在しない。

 目の前にいるこの娘たちは、背丈や精神年齢から言って、おそらく小学生だ。だというのに、両親や親戚などといった人たちが住んでいる形跡が、少なくともこの部屋にはまったくなかった。

「それはそうですけど……。でも、この状態でクロガネさんの状況を他人に話すなんてリスクが高すぎます」

 雪那はおそらく善意で言ってくれているのだろうが、彼女の言っていることがいまいちよく分からない。

 無一文であてもなく外に飛び出すのが危ない、とかなら理解できるが、雪那は俺が他人と会話をすること自体を危惧しているように思える。

「あ、あの……」

 桃子が、相変わらず溶けそうな声で俺たちの会話を中断させると、雪那に何やら耳打ちをした。

 さっきの異様な挙動不審っぷりを見る限り、桃子は他人とのコミュニケーションが苦手なようだが、雪那に対しては普通に喋れるようだ。

 家族とは仲が良い。とても素晴らしいことのように思う。さっきまで少しささくれ立っていた俺の心が、ちょっと和んだ気がした。

「あの……クロガネさん。もしかして、ご存じないですか?」

 桃子から話を聞き終えた雪那が、まるで、これから誰にも聞かれてはならない秘密の話を持ち掛けるように、上半身を前方に傾けながら唇を小さく震わせて、そう静かに言った。

「ご存じないかって……何がだよ」

 口の中にたまった唾を飲み込むと、時間の流れが滞るように、空っぽの頭が警戒態勢をとる。

 それは、少女の唇の動き以外の情報が、見知らぬ何者かの手によって主観的に統制されるようだった。

 全リソースが、この二者間の答弁に帰着される。

 俺は意識的に呼吸を止めて、その答弁の行く末を当事者視点で見守る。

 その結果は。

「“記憶喪失者にかかわる保護法”という法律があるんですけど」

 ついぞ聞いたことも無い、呪文のような奇妙な文字列で締めくくられた。

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